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無能唱元 先生11年 死去に 想うこと 07年唱元  志しについて

2011-12-01 00:00:00 | 無能唱元  相田みつを

無能唱元 先生 死去に 想うこと  ・唯心円成会

2011-12-17 | 無能唱元・唯心円成会
12月14日 午後に郵便を確認したら

無能先生が 4日に、お亡くなりになった通知が 
 最期にお会いしたのが、昨年ですが、会主へ伺い・・
  最期の説法を聞かせていただきました、腕を怪我されたとかで、・
・大分お体が弱っていた印象を受けてましたが・・

先生の弾き語りテノールの声を聴きたかったです、
 心魂は健在でも肉体的な衰えは、いかしたがた無い事ですね

 先生の教えは・・二辺往来、阿頼耶識、色々と・
・作曲家に例えればモーツァルトレクイエムであり、
   中村天風がベートーヴェンと思ってました、
 偶然、同会のご縁も同時期で、時には唱元、時には天風へと行来して・
・真善美から真善美へと・・

 潜在的な心の使い方、活き方を学んで、仕事上、経営上で・・難題解決に・・自問自答の毎日でした、そんなときに唱元先生の教えに救われ、
自己解決、自己管理に、毎日の活き方に役立ちました・・

先生は亡くなっても、今も教えは活き続け、実践しなくてはと想いが
強くなりますね

 新橋の説法が一番長かったですね、品川、渋谷、青ーとかでも
聞かせていただきました、
藤原真理さんチェロリサイタルでお会いしたり・・

 色々なご教授を先生から戴き 長い間ありがとうございました、

      あの世で説法をなさっている事と思います
      先生 ありがとうございました 合掌
            献花     
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


20010年12月19日 最期でした・・
 公の会での出席、10名の方々が最期であったと想われますが・・

 昨日は遠足気分で・・武蔵小杉から五井・千葉県へ約1時間30分ほどで・・新幹線が小杉駅横を通り過ぎて・・帰りは五井駅で1両車両運行の電車も・・

 無能唱元氏に何年振りにお会いしました・・歳を重ねると体は弱くなりますが、心・魂は健在ですね・・先生の話や、会員方々のお話で・・
                 元氣を戴いて帰宅しました、感謝


09年11月ブログ
 

無能唱元「寝惚気の目覚誌」

何かを 感じる 言葉

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唱元  志しについて

2007-02-12 | 無能唱元・唯心円成会
「青年よ大志を抱け」 
 これは札幌の郊外に今も銅像が立っているクラーク博士の北海道を去るにあたって、日本の若者に残した言葉です。
 世の中の殆どの人は「志しの高いことは、人間として立派だ」というように考えております。中国の古典にも「燕や雀には大きな鳥の志しを理解することなどは出来ない」という言葉があります。

 しかし私はこの一般的通念には多分に懐疑的なのです。「志し」とはそんなに崇高なものであり、人間にとって必要欠くべからずのものでしょうか?
 かって若い日、私もなんの疑いもなくそう信じていた者の一人でした
だが、ある時、まるでパカッと桶の底が抜けたように、すべてのものの姿が見えてきた時、この一般的なるものの考え方が崩れ落ちて、そのはだかの姿が目の前に現れてきたのです
 「志し」とは要するに「現在の飢え」ではないでしょうか?
 それは、現在に満ち足りていないことであり、それを満ち足りさせる何かにあこがれ求めることではないでしょうか?
 本当の飢え、つまりお腹がすくことについて考えてみましょう。我々人間は自然にお腹がすき、放っておくと飢えて死にます。そこで本能として、食べ物を求めるのです。では、この食べ物を求める欲望はは悪でしょうか?または善でしょうか?
 もちろん、それは悪でも善でもありません、なざなら、それは自然法則に属するものだかです。同じように志しを求めるのも、精神的な飢えによるものです。それは悪でもなく、といって「たたえられるべき善」でも無論ありません。
これらの飢えの発生は、いわば人間としては「仕方のないものだ」というように私には思えます。

「志し」はまた「未来への期待」であるとも言えます。そしてその期待は現在の飢えを基点として発する意欲でもあります。
 食べ物に対する飢えは、その強さは大体万人共通しています、さぜなら胃袋の大きさには、それほどの個人差はないからです。しかし、これが志しに対しての飢えだと、人によっては途方もないほどの個人差があるものです。孔子は「志しがあまりに強大になると狂になり、志し無くなると狷・けん がんこ となる。中庸が大切である」と述べております。
 さて次に「期待」について考えてみましょう。
人間は期待する動物であると言ってもいいほど、我々は頻繁にいろいろなものに期待しつづけます。未来にも期待しますし、他人にも期待します。政治にも、社会にも、薬にも、信仰する宗教にも期待します。人生に疑問を抱くある人はその解決を急ぎ求めて・・唱元にも・・期待するではありませんか・・

 我々は何かに期待している時は飢えており、そしてその時には安らぎはないのです。そこにあるのは、興奮です、そしてそこには、生き生きとした活発さもあります。しかしそれは静寂ではなく、平和でもないのです。このことの意味をよく理解する必要があります。一言にしてい言えば、それは「飢えとは足りていないこと」だからです。
 この精神的飢餓感は、狂おしいまでに、志しの方向へむけて人々を駆り立てるのです。「志し定まれば、氣さかんなり」これは吉田松陰の言葉です。
 たしかに志しに対しての決心が定まれば、意気盛んとなり、情熱は火のように燃え上がりましょう。しかし、この時に知っていなければならないのは、生氣エネルギーはチャージされないまま消費し続けているということです。そして、この生氣エネルギーの枯渇は、その人の生命を破壊に導くのです。事実松陰は若くして命を失っております。

 氣が盛んと燃えていることは、たしかに生き生きとしていることです、しかし、ここで忘れてならぬことは、燃料補給です、そしてその補給は、心が静寂の内に安らいでいる時においてこそ自動的に供給されるものなのです。
 肉体にとって活動と睡眠は必要なように、精神にも興奮と安息が必要なことに氣がついている人は非常に少ないことを、我々は明記しなければなりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
期待なし 希望あり
 音楽を聴くなり、散歩なり、心を静寂と活動・・現実と非日常の・・世界へ
何事も中庸であって・・右にブレ 左にブレ・・真中が・・
 此れも 波風たたない 心 静寂が

 

唱元 気分の温度     佐木隆三 「復讐するは我にあり」

2007-04-09 | 無能唱元・唯心円成会
 気分の温度
 陽春のある日の午後、人間の「心」について考えた。「心」が何であるかの答えを得ることは何人にも出来まい。
 しかし、しばらくして、ふと氣がついたことがある、「心」が何であるかは解らぬが、それは「気分」という温度で終始上下変化を繰り返していることを。

 言い換えれば、それは感情の変化である。人間はこの温度の上下と共に生きている。
 人間の心が希望に燃えて何かを目指すとき、気分は高揚し、その温度は上がる。しかし、時と共にそれは沈静化し、温度は下がる。

 ところで、人間が広い意味で、人生での成功を得るためには、繰り返し気分が高揚し、その温度が高まっている必要があるのだ。なぜなら、鉄は熱い内に打てという言葉のとおり、希望は燃えている時間を必要としているからである。
 では、希望には熱意がなぜ必要なのであろうか?実は、あなたはそれが熱いうちに、ある行動を実行しなけらばならないからだ。

 どんなことであれ、人生で、あることを他人よりすぐれて成功させるには、何かの練磨がなければならぬ、それが何であれ、その行動に実行がくりかえされねばならぬ、そして、それを可能にするのは唯一「熱意」だ。
 だがその熱は、自然の摂理として次第に冷却してしまうのだ。
 この冷却を脱し、氣分の温度を上昇させるものは何か?
 簡単に言えば、それは「欲望と夢」である、これ以外に答えは無い。
 いつ、いかなる時でも、考える時間が出来たら、あなたの「欲望と夢」を思い起こすことだ。
 そうすれば、あなたの氣分の温度はきっと上昇してくる、こうなれば、あなたにとっての成功は目の前だ。

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 現状維持メカニズム
 金持ちはなぜ金持ちかというと、金持ちだからだ。
 貧乏人はなぜ貧乏かというと、貧乏だからだ。
 潜在意識は現状を維持しようとする。
  人生が思い通りに進まないのは、ほとんどの場合
 この潜在意識の現状維持メカニズムが作用しているからである。
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    不完全な自分を許そう・・誰にでも才能は眠っている  エンジョー
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 善き願い・夢を 潜在意識に・・因果の法則が

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 先日TV東京で「復讐するは我にあり」ドラマを観ました
 信じること 裏切られる この二者択一が哲学的会話に惹かれました
人の心には 善 悪 両面があり・・振り子が何かの切っ掛けで・・
信じ得なくなり 悪の・・振り子へ増幅され

 人は復讐などつまらない事を 考えるな 神が人にかわって 復讐するから
復讐する我は 人ではなく 神だと

 信じる事は 生きること 神を信じるが 神を信じていた・・
父に裏切られ、神・仏・・神父・宣教師に裏切られ・・人を信じる事を やめてしまった・・生きるしかばね
 神・・信じた事はなかった  何もだれも 信じて おらん

 殺人を犯した 男が 弁護士を語り・・逃亡先で・・名刺の肩書きで人は信じるものよ
何も疑いを持たない・・
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『復讐するは我にあり』(ふくしゅうするはわれにあり)は、第74回直木三十五賞を受賞した佐木隆三の小説で、実在した連続殺人犯・西口彰の犯行を題材にした作品である。1979年に日本映画、1984年と2007年にテレビドラマとして映像化された。

映画の制作・配給会社は松竹。今村昌平が監督、馬場当が脚本を担当した。主演は緒形拳。撮影は実際の事件の犯行現場で行われた。第22回ブルーリボン賞ならびに第3回日本アカデミー賞作品賞受賞作品。

なおタイトルの「復讐するは我にあり」という言葉は、新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる言葉で、その全文は「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」(引用『』は申命記32:35。ヘブル人への手紙10:30もこの箇所を引用)。これは「悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう(参考;詩篇94:1)。」という意味である。 
ストーリー
昭和38年。当時の日本の人々はたった一人の男に恐怖していた。榎津巌(えのきづ いわお)。敬虔なクリスチャンでありながら「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、78日間もの間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑された。映画ではこの稀代の犯罪者の犯行の軌跡と人間像に迫る。

佐木隆三

裁判官の「お言葉集」出版 厳粛判決に人間味も(朝日新聞) - goo ニュース
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無為自然に任せる時 

2010-02-12 15:44:05 | 無能唱元  相田みつを

唱元 ・ 無為自然に任せる時  11月より 唯心円成会はHPから ご覧になれます。 2009-10-17 | 無能唱元・唯心円成会

無為自然に任せる時
 人生の長い間を すべて無事に過ごすことは難しい 思いもよらなかった大災難に見舞われ 心身の生きる力が喪失し 生きている実感さえ感じられなくなってしまうこともある
 これは 事件ショック あるいは その後のストレスで 生氣エネルギーが減衰してしまっているのである
 このような時には すべてについて 億劫な氣分に支配されていて 将来に対する夢も希望も考えられる状態ではない こんな場合「氣を強く持て」とか「しっかりしなさい」とか励ます言葉に効き目は無い いや それどころか 励ましは逆効果になって ますます落ち込んでしまうことすらある

 こんな時には一切の知恵才覚を放棄し すべてを 無為自然の力の任せてしまうことが必要である そして天地の運行に身を任せたまま 生命力の再起 生氣エネルギーの自然回復を待つことである
 すると「生命そのものの有り難さ」が感じられてくることがある これは生氣エネルギーが再び増してきた証拠である
 すると「ただ生かされて生きていることの有り難さ」に氣付き 「感謝の喜び」を覚えるようになる こうなったら占めたものだ なぜなら この瞬間から 好転するからである
・・・・・・・・・
ものぐさ和尚・・詩
 きのうのことは過ぎたこと あしたのことはまだ来ない
極楽往生 どうでもいいし
精進功徳わしゃいらん 腹がへったらめしを食い
疲れてくれば寝るだけさ こんな楽しみ あることを
わかるやつには わかるけで おそらくお前にゃ わかるまい
・・・・・・・・・・・・・

 厄落としとは 何だろう
 人は誰しも 損を嫌い 得を好む そして 得になることのみを求める 
得している意識は プラスの意識である だから得している場合には プラスのエネルギーが蓄積されているのである
 だが陰陽の原理により 陽は陽のみではあり得ず プラスのエネルギーが蓄積されているう 裏側では 同時にマイナスのエネルギーも蓄積されているのである そして因きわまって縁となった時 ある日 この陰陽が逆転する 
突然 好調だった人生に大災難が訪れるのだ 地位身分の高い者が一瞬にして 罪を得て投獄されるのは この故である
 この様に 見えない裏側で蓄積されるマイナス・エネルギーこそ「厄」の正体なのである
 そもそも 厄を育てるのは 得のエネルギーなのである だが そのエネルギーは 得の実績そのものによるものではない それは 得をしたという「氣分」であり いわゆる世間で「驕り」と呼ばれるものである この思い上がりの氣持ちがプラス・エネルギーを増大させ 同時に その裏側のマイナス・エネルギーも増大させるのである
 ところが 何かの失敗やアクシデントで 損をしたりすると その「損した氣分」が 日頃の「得した氣分」に冷水をかけ そのプラス・エネルギーを削り取り それが同時に マイナスのエネルギーも相殺する こうして現象界の裏側に隠れていた災難の種子も消滅されるのだ これが 世に言われる「厄落とし」である
 だから 何か損をした時 それを クヨクヨせずに これを「厄落とし」さ と考えて 諦めてしまう方が望ましいのである

好きなことをして暮らせ
 ある時に ふっと氣がついたことがある それは 人生の幸福の根本的条件は 好きなことをして暮らしているということ これに尽きる ということだ
もちろん これは 他人への迷惑を願みず 自分の自我的欲望のおもむくままに生きるということではない
ここで言う意味は
「自分の人生における選択肢を選ぶ権限は 他の誰でもなく 自分が保有するということ」だ もちろん 人の助言は多いに尊重するし 先輩や友人の言葉には耳を傾ける
 だが最後の決定は「わが内なる声を聞いて わが心の命ずるところに従う」ことによって為されるべきである 成功も失敗も 自分の責任のもとにゆだねられるべきである
それは「みずからに由る」すなわち「自由」であることである
 人が 真の自由を得たということは真の幸福を得たことを意味するのだ
 そして続いて氣がついた
人生のおける不幸の第一条件は 嫌なことに耐えながら暮らしていることだ と それを耐えねばならぬ やむ得ぬ理由は幾つも在ろう
だが 嫌なことが 嫌なことであることには変わりはなく そして 嫌なことが不幸なことであることに 変わりはない。

・・・・・・・・・
 老いの楽しみ
長生きすれば 楽多く また利益も多いものである 日ごとに 今まで知らなかったことを知って行くし 月ごとに 今までうまく出来なかったことが出来て行く だから 学問の進歩も知識の発達も 長生きしなければなかなか 得られるものではない。
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<「わが内なる声を聞いて わが心の命ずるところに従う」ことによって
為されるべきである 成功も失敗も 自分の責任のもとに ゆだねられるべきである
それは「みずからに由る」すなわち「自由」であることである

 自己責任ですね・・身からでた 錆び・・
{民主政権では金融対企業、個人の契約に国が関与するとか・・借入金の元本・金利返済を猶予するとか)・・無能先生の言葉から・・結論は出ているかな?? 

<嫌なことが不幸なことであることに 変わりはない。
 嫌なこと・・心に想い浮かべない・・今活かされ 感謝 感謝
 命が あれば なんでも できる 活かされた 命に 感謝 感謝
 呼吸・・はく・・胸・肺の中・心の・・邪気・恐れ・不安を・・はき きる

 長生きは 悩みが少なくなり・・楽多し

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いつも 心に太陽を持て あらしが吹こうと 吹雪が来ようと 世間が不況であろうといつも 心に太陽を持て (山本有三)
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人間の 幸福とは 人生を 楽しむ ところに こそある
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忍耐は あなたに 成功を もたらす
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「生活楽しむ男性」脳卒中や狭心症なりにくい(読売新聞) - goo ニュース生活を楽しむ意識が低い男性は、高い男性に比べ脳卒中を発症する危険性が1・22倍、死亡率は1・75倍高かった。狭心症、心筋 梗塞 ( こうそく ) を発症する危険性は1・28倍で、死亡率は1・91倍だった

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唱元  溶ける カネ
2009-06-07 | 無能唱元・唯心円成会
溶ける カネ
 面白いもので、金融とは「カネが融る・トケル」と書きます。カネが溶けてドロドロになる、そして、その液体は自分のほうに流れて来る。とこんなふうに人間は夢想します。
ところがそのカネの液体は、自分のところへではなく、他人のところへ流れ去っていってしまうことも多いのが現実です。このように、溶けるカネはしばしば、人の期待を裏切るのです。
 カネの本来の目的は、言うまでもなく、物品交換のためとして働くことです。ところが、あるときからカネはカネ自身がカネを儲けるようになった。
 人が稼ぐというのは、生産か売買によって現金を手に入れるということです。ところが、生産や売買と関係のないところでカネがカネを得たり、失っている。これはいったい、どういうことでしょうか?
 はっきり言えば、これは賭博だということです。この意味で、競馬もパチンコも、株も銀行貯金も、みんな広い意味ではバクチだと思います。
 カネがカネを稼ぎだすことを期待して待つ。英語で利息のことをインタレストと言います。面白いという英語はインタレスティングです。不労所得で予期せざるカネが入ってくることは、楽しく、面白くてたまらない。こんなところに楽しく面白いという二者の共通性があったのでしょうか。

 溶けるカネを取り扱ってカネを儲けるのは、私は一向に差支えないと思います。自分のカネを何に使おうとも、それは、まったくその人の勝手です。ただし、それは仕事だと思わないほうが安全です。遊びにしておけば、賭けに負けて損したとしても、大火傷を負わないですむからです。
 おカネが欲しかったら、稼ぐほうを私はお勧めしたい。稼ぐことで、自分の人生に生きがいを見いだすべきです。
 マネーゲームで人生の成功をつかむ、などと考えないほうがようでしょう。
わきまえておくべきことは「溶けるカネはゲームのため」であり、仕事のためのものではないということです。
 人は仕事すなわち、おカネを稼ぐ手段を持っているということは、すでに幸福であるということなのです。その仕事が何であれ、働くことによって、おカネが入ってくるということは
「福分を得ている」ことにほかなりません。ですから、人は死の直前まで、どんな仕事でも働いておカネを得る、すなわち稼ぐことができれば、その人はまさに幸福な人なのです。
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思考は 現実化する これは 宇宙の 法則である
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 98,7月号 Enjonu・・より、本に挟んであった 発見・・今読む必然性が・・あるのかな?・・
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 話題の中から 三つの毒を 払いたまえ
・悔・かい・・過去 ・嘆・たん・・現在 ・悩・のう・・未来

 荒馬を手懐ける・・
 われわれ人間の心の中には、一旦暴れ出したら、手に負えない、まさに暴れ馬にも似た激情の源ともなる欲望があります。すなわち、私が繰り返し述べているところの「自己重要感」という本能的衝動欲です。
 それは良い意味では、進化向上を願う心であり、より高きものへのあこがれを表すものなのですが、これが、その制御をあやまると、手のつけられないモンスターとなり、自己破壊的行動を起こすのです。

 人生において、その幸不幸を決める要因は幾つもありますが、その中でも、この自己重要感をセルフ・コントロール出来なかった故に生ずるその不幸感には、その人の一生を滅ぼしてしまうほどの激越な破壊力が秘められていることから考えて、心の中のこの荒馬を手懐けることは、人間にとっては是非とも必要なことなのです。

 それには、自分が競うべき場所、すなわち、その集団を、どの位の所へ持ってくるか、その設定が重要になってきます。あまり強過ぎる相手しかないグループを、目標にしない方がいいかも知れません。第三、第四のグループに居て、自己練磨に励みつつも、無理せず、そこを勝ち上がり、もう一段上へ移って行く方が、遊戯三昧に生きられる、楽しい人生を過ごして行けるかも知れません。
 秘訣は、いつも私が言う通り「二辺往来」にあります。 すなわち「競う心」と「諦める心」の二間を、心して、うまく往来することです。
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<その仕事が何であれ、働くことによって、おカネが入ってくるということは
「福分を得ている」ことにほかなりません。ですから、人は死の直前まで、どんな仕事でも働いておカネを得る、すなわち稼ぐことができれば、その人はまさに幸福な人なのです。
 生涯現役が 一番ですが 健康でなければ 働けない 
 年金で植物的な生活を強いられて・・
 収入を得られない ボランティアは・・働くとは違う・・

 生甲斐・働く は カネを得なくても 幸福では・・無償の愛・働き、親子、家事労働・・無給
 肉体労働、・知能労働・・カネ、生活費を稼ぐ為に 精神的な満足度は?
        生甲斐とは・・
  カネを得る為に・・精神的満足度は・・諦めて・・
 お金・カネ、その物には価値はなく それに価値を与える 心が 
     強欲なり・・貧欲なり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<激情の源ともなる欲望があります。すなわち、私が繰り返し述べているところの「自己重要感」という本能的衝動欲です。
 それは良い意味では、進化向上を願う心であり、より高きものへのあこがれを表すものなのですが、これが、その制御をあやまると、手のつけられないモンスターとなり、自己破壊的行動を起こすのです。

 生きて いるだけで まる儲け・・活かされて いるだけで まる儲け

  生存本能を満たし 欲がわき 達成意欲は はじけ 諦めて
   暗があるから 明が 際立ち  
  影があるから 光が 輝き
   嫌いがあるから 好きがあり 
   失うものがあるから 得るものがあり
  期待無し 希望あり
   愛は あたえるから 愛があり
  死があるから 生があり


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唱元  人を動かすには

2009-02-12 16:19:23 | 無能唱元  相田みつを

唱元  人を動かすには

2008-03-30 | 無能唱元・唯心円成会
 人を動かすには
 坂本竜馬が脱藩してまもなくのこと、当時、京都に集まった浪士たちは、連夜酒を任では「攘夷」だの「倒幕」だのとけんけんごうごうの議論に明け暮れていました。
そんなとき、竜馬だけは、その論に加わらず、ひとり黙々と酒を飲んでいました。
 そこである者が「貴公は、なぜ論に加わらぬ」と問うたところ、竜馬はひと言「論で人は動かぬ」と言いました。「ではなんで動く」と彼は聞くと竜馬はずばりひと言「利で動く」と答えたのです。
 人間は、事の良し悪しで動くのではない、損得で動くというのです。ここが正論をもってだけで人を動かそうと考えていた浪士たちと、竜馬の違うところです。それだけ「人間」を見通していた竜馬だからこそ「薩長連合」「大政奉還」という二大事業を成し遂げたられたのではないでしょうか。

 支配者は、冷ややかともいえるほど、人間の合理性を信じるものです。
 ナポレオンは、その絶頂期、群集から歓呼の声をもって「皇帝陸下万歳」と迎えられました、その側近が「このように群集が陸下をたたえています」とへつらうと、ナポレオンはニコリともせず「いま、おれの勢いのある間は歓呼の声だろう、しかし、いったん勢いを失えば、これは、皇帝を殺せという声になる」と言いました。

 徳川家康は、常に誠実な人でした、しかし彼は誠実を「演出」していたのです。
 関ヶ原では、秀吉の腹心で東軍についた武将たちに、自分の旧臣より多くの恩賞を与えています。
 彼は立派な人間だから、また、家臣を信じていたから、誠実だったわけではありません。
 これらのエピソードが示しているのは、成功者の真実を見通す眼についてです。

 つまりそれは、眼前の事実に惑わされない心眼のことを意味します。

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理屈を超えた富があります。それは 自分の思考が引き寄せた 富です。
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<成功者の真実を見通す眼についてです
<眼前の事実に惑わされない心眼のことを

心の眼・・目の前に過ぎ去る出来事・映像は・・誠か嘘か、得か損か・・此れを読取れる・・こころを養うには・・六感とか・・直感とか・・養うには・・む・・

 最近風林火山を観て・・各お山の大将・親方様・・領土争い・・人間の器・懐の大きさを感じさせ・・戦国武将の人間模様から・・ひとの・・違いが

唱元  私と宇宙意識

2008-04-29 | 無能唱元・唯心円成会
 私と宇宙意識
 これは科学についてのお話ではありません・それどころか、どちらかというと、やや神がかった、いわゆるオカルト的な話題なのです。だから、世間の皆さまか言わせれば、多分にあやしいはなしだ、と思われるかも知れません。
 もうかなり前から、私は宇宙意識というものの存在を信じていて、そして、そのものになにかの願いごとを頼みはじめると、すぐにではありませんが、」そして、また願い事そのままでもありませんが、ともかく、運のよいことが起きてくることを体験したのです。
それは、宇宙意識を何か人間の意識のように考えて、率直に助けを依頼するのです。

 最初の頃の頼みは、自分の書いた本が出版社に売れることでした。
 それが小さな出版社に売れて、そこからだんだん大きな出版社へと売れて、収入が増えて、住いも大きくなって行きました。
 ある時、一冊の本が縁になって、経営学を教育する会社の講師となり、
そこを起点として、日本中の会社や研究団体を講演して回るようになったのです。
 この頃から、毎月の収入が、かつては思ったこともないほどに増えてきました。
 私は宇宙意識に毎朝祈り、感謝するという生活を続け、現在に至っております。

 宇宙意識への願いかたには、定まった形というものはありません。ただ黙って、黙
祷し、心の中で願いごとを唱えることもあります。懐中ノートに願いごとを書き込むこともあります。方法はどうでもかまわないんです。
 宇宙意識に願っても、すぐさまそれが聞きとどけられるとはかぎりません。
 もちろん、そういう場合もあります。願いが叶う場合はいろいろですが、
考えられるのは、その叶う条件は、できるだけ奇跡的ではなく、普通の、ごく当たり前の状態で起きることが多いのです。

 どうも、宇宙意識は驚くべき不思議な状態を設定することを避けたがっているようです。だからでしょうか、願いごとをしたことを忘れているような時に、突然それがポンと叶ったりします。
 また、願ったこととは違うことで、たとえば沢山のお金が流れ込んできたりします。
 お金が沢山あれば、それを使って、その願いごとを叶えることもできるのですから、結局、願いは得られたことになりましょう。
 私の場合、あまり一生けんめいになって、宇宙意識に頼まないほうが、
」人生がうまく行くような氣がします。
 毎日に暮らしを、ごく氣ままに氣まぐれに生きていながら、しかし宇宙意識への願い葉忘れることなく、時にふれては思い出し、願いの依頼を行なうことが大切だと思うのです。
 そうすると、こういう呑気な人には、宇宙意識も、きまぐれに時おり思い出したように、願いを叶えてくれるのでしょう。

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なんとなく 今考えていることが あなたの未来を 作っているのです
 たとえそれが 否定的であろうと
        肯定的であろうと
        破壊的であろうと
        創造的であろうと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 宇宙意識て・・眼に映像としては、確認出来ない、空気の様な?・
・其の中に、不変な力・氣?・・其れと同調する事が、出来れば、感じられれば・・ある、偉大なるもの・・・へ・・願いを・・幸せで、健康で、成功で、富を・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
余談な話・・
 最近、法事を執り行い・・法事、祝いに付き物飲酒がありますが・・
今回お酒無しでと思いきや・・その背景には飲酒運転が、やはり列席者の中から2,3名飲酒運転で帰宅した模様ですね・・今回の法事で想ったのは世間の常識と私の常識は非常識と言う事ですね、お清めとはお酒?・・宴席にはお酒が必要と・・
 故人の冥福を祈り本来静かに故人を偲ぶ事が・・中にはお酒が目当て?悪酔?飲み会では無いのに・・
 事前にお酒を用意しなかった為、酒が無いと列席者からお叱りが、右往左往して、急いで買出しに・・色々失敗もあった、今回の法事でした・・

・・・飲んだら乗るなですね・・・
 今回使った料理屋さん、春夏秋冬・一人接客員、会場準備から、こまめに列席者に目配り・接客をして下さり助かりますね・・簡単な会場があれば、準備から後片付けまで当然、すし懐石料理タネも新鮮で、一人当り8千円程であがりましたが、お得感があります・・お祝い事でも、お勧めです・川崎市エリア周辺かな?・・出前・出張サービスが
唱元 苦行ばかりが行じゃない
2008-02-12 | 無能唱元・唯心円成会
苦行ばかりが行じゃない
「出家の目的」
 お釈迦さまは、何ひとつ不自由のなかった城を捨てて、すなわち出家されて、何年もの間、苦行を積まれたといわれています。
 これは当時のインドの坊さん、つまり修行者は皆そのようにしていたからです。断食をしたり、滝にうたれたり、呼吸を一杯に吸って耐えたり、また、呼吸をかすかにして、ほとんど息を止めたりするなどの、およそ超人的な苦行をつづけていた。お釈迦さまこのような修行をされたのです、すっかりやせおとろえてしまった、といわれております。
そして「どうも、私の求める答えは、苦行から得られるものではなさそうだ」と氣が付かれ、菩提樹の下にすわり、瞑想に入ったのです。
 そのまま座り続けて、一週間目の明け方、空に輝く明星を見られた時、ハッと悟られ、それまでの疑問が一氣に氷解したのだ、と伝えられております。
 この時、お釈迦さまは、どんなことを悟られたのでしょうか?
 その前に、お釈迦さまは、いったい何を疑問とされていたのか、それを知る必要があります。
 その疑問とは「人間の苦しみは、どうして生ずるのか?」そしてまた「その苦しみを、どうやったら解決できるのか?」ということでした。
 たとえば、人は欲しないのに、老い、そして死にます。また、病気になって苦しみます。こういう人々の姿を見るうちに、お釈迦さまは、なんとかこの苦しみを救う手段はないものか?という菩提心を起こさせたのです。
 そして、この問題を解決するため、出家され、苦行の世界に入られました。
しかし、その苦行も解決にはならず、ついに瞑想という行によってその答えを得たのです。
 「何を悟ったのか?」
 お釈迦さまの得られた心理は深淵なもので、私たち凡人には、なかなかうかがい知ることはできなのだ、という人がいます。
 それももっともですが、ここは一つ大胆に、そして単純に、お釈迦さまの得た、その悟りを分析してみたいと思います。
 お釈迦さまの発見されたこと、それは「二元対立によって、存在は表現されている」ということではないでしょうか?
「二元」それは「陽」と「陰」つまり、プラスとマイナスのことです。すなわち、宇宙のすべてはの存在は、この二つが対立して現れる故に、はじめて存在し得るのです。
 「病気」があるから「健康」があるのです。「死」があるから「生」があるのです。
 これを逆にいってみましょう。「病気がなければ健康はなく」「死がなければ生もないのです」
 次のようなたとえ話で説明すれば、わかりやすくなるかもしれません。
 生まれた時から闇の中に住んでいて、一度も光を見たことがない人は、実は「光を知らないだけでなく、闇も知らない」のだ、と・・・・すなわち、
光なきところに闇はなく、闇なきよころにも光なく、二者の分別と対立があってこそ、そこに光と闇がある、ということです。
 苦しみがあるから、楽しみがあり、悲しみがある故喜びがあるのです。
「二元対立の原理」
 老いていく故に、この一瞬一瞬のときがなんと貴いことか。死は必ずくる故に、生のなんと尊いことか。 
 すべては変わりうつろいゆく故に、今、生きてあり、見、聞き、味わっている大自然と人生の恵みのなんと素晴らしいことか!
 お釈迦さまの悟りとは、ある意味では、悲観主義であった思想が楽観主義へ変わったものとも考えられましょう。
 いや、さらにもう一歩突っ込んで考えるならば、悲観と楽観の二元対立をはるか高い所から均等に見下ろし、そのいずれにとらわれ支配されることなく、必要に応じて自分に気分さえ自由自在にコントロールできるようになった、ともいえるのではないでしょうか?
 さらに考えるならば、苦というも、楽というも、悲しみというも喜びというも、それらの対立する二つの感情を生み出すものが、私たちの外部にある客観的事実というもの自体ではなく、実に私たちの内部にある主観的虚構性の中に構築される観念であることを悟られたのではないでしょうか?
 そして、この主観的虚構性をうまく支配し、苦を楽に変え、この方法で人々の悩みを解消する智恵をもって「般若の智恵」と呼んだと思うのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世の中は 氣の毒な 人だらけだ あまり深く 考えない 方がいい
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 年を重ねることは、苦を感じさせず、苦も楽とするなり・・
今生きているから やな事 苦しい事 楽しい事 も感じられる
 死んでは 感じられない 今感じ 楽しむ事なり・・

ブッダ最後の旅
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唱元 あるがままに

2009-02-12 16:16:45 | 無能唱元  相田みつを

唱元 あるがままに

2008-05-17 | 無能唱元・唯心円成会
 人は、よく反省します。反省自体は悪いことではありません。むしろ、それは必要なことです。
 しかし、これも、過去の失敗や不満足な点について繰り返し考えたり、人に話したりするのは一見、正しいようだが良くないことなのです。
 当人が「これは問題だ」と思うことは、あえて、無理に直そうとしなくても良いのです。
 なぜなら、この人の魂の波動が正しくなれば、現実も自然と良くなってくるからなのです。
 現在の現実は、そっと、そのままにしておいて、氣持ちの中で「私は困っていない」と思うのです。
 すなわち、現在の自分をそのまま受け入れて、心の中をすでに望むべき状態にしてしまうのであります。
 すると、その「困っていない状態」すならち豊かな心の状態が、外部に反映して現実化してくるのです。 

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 ぐうたら哲学
 私の主宰する唯心円成会の古い会員は、よく「ここは一つ、無能流の自然体で行こう」とか「ま、あまり気張らずに、無能流ぐうたら哲学で、楽に考えようじゃないか」などと言います。
 この「楽する」または「楽して」とか、私はよく使う言葉は。ただたんい「怠けて、何もしない」という意味とは、ちょっとばかり違っているところがあるのです。
 それは例えば定まられた時間や約束ごとをいいかげんにして、他人に迷惑をかけたりするということではありません。そういった類いの「ぐんたら」を私は人に勧めるものではありません。
 ただ、私は自分一人の世界において、心からリラックスしていたいと欲しているのです。そのためには、しばしば反常識的なことを言います。例えば「初心忘れるべし」などと言ったりします。これは勿論「初心忘れるべからず」の裏返しですね。
 時代ととに人は変わり、世は移り変わってゆきます。初心を守ることは立派かもしれませんが、周囲の変化に反抗し、がんとして抵抗していくと、自分も苦しいし、心身も硬直してしまう場合が多いのです。
 一生を初心貫徹しようと頑張っている年配者は、多分、動脈硬化症になってしまうのではないでしょうか・・ご用心 ご用心

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成功や幸福を 得るのは あなたの氣分の あり方による
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 初心・・こう、ありたい・・私は、この様な活き方を・・時は過ぎ・
・変化し でも 夢 は 真理 は・・心は ころころ変わる ココロなり

 猿でも反省 とか言われますね・・
 もう一人の 自分が 今の自分を 見つめ あるがままに 観 
 今を 受け入れ 
 今を 何も たさない 何も ひかない あるがままの 今を観る

<よく反省します・・現在の自分をそのまま受け入れて、心の中をすでに望むべき状態にしてしまうのであります。 すると、その「困っていない状態」すならち豊かな心の状態が・・

唱元  ・話し手になる時は 氣をつけよう

2008-06-14 | 無能唱元・唯心円成会
 最近、あるものの本で、次のような内容の言葉を見ました
「人間は自分のことに一番興味があり,自分のことを,周囲に話したがるものなのだ」と・・
 仕事のこと、健康状態、家庭の様子など、人が日ごろ最も氣にかけているのは、自分および身近で親しい人間のことであり、これらがことにふれ,自分の意識の中に登場してくるのは当然のことでありましょう。
 だから,年賀状にも、こちらがあずかり知らぬ家庭の写真を印刷してくるし、運動会では自分の子供を主役にビデオを回したりするのです。
 けれども、聞き手の立場になると、そうした内輪のことを、ことさらに聞かされのは、けっこうつらいものがあります。
 特に身内の自慢話は、本人には重要なことであるかもしれないが、話題の主と面識もなく,聞く側にとっては、とかくしんどいものがあります。
 人はみな、「話したがり屋」「自分のことを聞いてもらいたがり屋」なのです。
 このことを心得たうえで,人と対応して行くのも、自分が話し手になった時は、自慢話や身内の話などは極力抑え気味にすのが無難でありましょう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたの 意識には 大きな夢を 実現できる 強力な パワーがある
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 自己重要感を得るには,与えるには、話上手、聞き上手である事が肝心ですね・・
あの人は,良く私の話を聞いてくれる・・だから,あの人は良い人だ・・
あの人は、私の話を聞いてくれない・・だから好かない人だ・・

 又昔話を・・同じ事を何度も聞かされ・・癖へきする・・だけで,聞く耳が有れば・・自己重要感を得て・・あの人は良い人だ・・バケツ役と、はけ口役が・・

聞き上手に・・話3割・・聞く事7割・・かな??・・
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08年唱元 四つの幸せの条件

2009-02-12 15:53:15 | 無能唱元  相田みつを

唱元 四つの幸せの条件  08-08-03 | 無能唱元・唯心円成会

四つの幸せの条件
 今日は本物の徒然草を読んでいて 心からなるほどなあ、と思い入った部分について お話してみたいのです。
 それは徒然草の第一二三段です。
ここには 人間の次の四つの条件さえ守れば本当に幸せに生きられる、と書いてあったのです。
「無益なことをして時をすごす人を 愚かな人とも,間違ったことをする人ともいっていい,君のために,否応なしにしなければならないことは多い。
それをしたあとの余暇などどれほどもない。よく考えてみるがよい。人間の身として、やむにやまれずあくせくするのは、
 第一に食うもの,第二に着るもの,第三に住むところである,人間にとって大事なものは、この衣食住の三つにすぎない。飢えることもなく,寒くもなく、風雨にも侵されないで,心静かに日々をすごすことを人の楽しみというのである。
 ただし,人は誰でもみな病気になる。病気にかかってしまうと、その苦悩は耐えがたい。だから,医療を忘れてはならない,衣食住に薬を加えた四つのものが手に入らない状態を貧しいという。
この四つに不足のない状態を富んでいるという。
 この四つ以外のものを求めてあくせくするのを贅沢というのである。この四つのものを求めて倹約するならば,誰も不足を感じることなどないはずだ」(以上監修・荻野文子 大人の古典より)
 ところで,以上の徒然草を監修された荻野文子氏は、かつては経済的に困窮していた時代があったそうです。
 そして,徒然草のこの段を読むことによっておおいに力づけられたとのことです。

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  感情のままに行動してはいけない 超然としていよう
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感情のまま・・理性的・・理性を超えた・・真理・心理
四つの幸を  食・・安全な物・・国として自給自足の精神で,大多数が輸入食品では
  着・・流行を追わなければ、背広・シャツにしろ,良く持ちますね   住・・落着く場・居場所が,磁場が良い・・
       薬・・健康の維持ですね

徒然草・・・
122
人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事〔專門にする事〕はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。次に醫術を習ふべし。身を養ひ人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずばあるべからず。次に弓射(い)、馬に乘る事、六藝〔支那の教養ある者の修めた六科、禮、樂、射、御、書、數〕に出せり。必ずこれを窺ふべし。
 文武醫の道、まことに缺けてはあるべからず。これを學ばむをば、いたづらなる人〔無駄な事をする人〕といふべからず。次に、
 食は人の天なり〔書經に「夫食爲2人天1。」天が人を養ふからだ〕。よく味ひをとゝのへ知れる人、大きなる徳とすべし。
次に細工、よろづの要多し。この外の事ども、多能は君子のはづるところなり〔論語に「吾少也賎、故多2能鄙事1。君子多乎不レ多也。」〕。詩歌にたくみに、絲竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすとはいへども、今の世には、これをもちて世を治むること、漸く愚かなるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鐵(くろがね)の益多きに如かざるがごとし。
[TOP]
123
 無益の事をなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいふべし。國の爲君の爲に、止む事を得ずしてなすべき事多し。その餘りの暇、いくばくならず思ふべし。人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ひ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過(すぐ)すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを驕とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせむ。

124
是法法師〔兼好と同時代の僧にして歌人〕は、淨土宗に恥ぢず〔同宗中誰にも遜色なきを云ふ〕と雖も、學匠をたてず〔學者として居ない、學者ぶらない〕、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。
[TOP]
125
人に後れて、四十九日(なゝなぬか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも殊に今日は尊くおぼえ侍りつる。」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は〔唐の狗は狆で、涙を絶えず湛へて居るが、此の僧も自ら説經に感激して涙を流して居る點が狆に似て居たのである〕。」といひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。また人に酒勸むるとて、「おのれまづたべて人に強ひ奉らむとするは、劒(けん)にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方は刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに〔兩方に刃のある刀で振り上げると自分の頭を斬るといふのである〕、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ。」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

唱元  普通のサトリ

2008-09-06 | 無能唱元・唯心円成会
普通人のサトリ
 ある四十代の主婦から。こんな話を聞いたことがある。
 下腹部に痛みを覚え、病院へ行ったのだが、その時、ガンの疑いがあると言われて精密検査を受けた。一週間の後、その疑いが晴れ、心配ないとの結果が出た。その時、彼女は素晴らしい嬉しさを体験したのである。思えば、それまでの一週間は、非常に暗く憂鬱な不安の毎日だったのが、一瞬にして、晴れわたった大空へ舞い上がった氣持ちを覚えたのだ。
 「その時に、思ったのですがね」と彼女は私に語った。
 「人間は、生き死にのほかには、大した問題は無いんだなあ、とつくづく思ったんです。生きてさえいられたら、こんなに有り難いことはない。人間死んでしまったら大変だ。生き死にの問題にくらべりゃ、ほかの問題なんか、どうにもなることだ、と思いました」
 実は、この少し前、彼女は息子の進学問題で悩んでいたので、私は、そのことについて尋ねた。すると彼女はこう答えた。
 「ああ、もうそのことは、子供は自分で好きなように生きてゆくでしょう。勿論、何か頼まれて私に出来ることがあれば、してやりますけれど、自分の問題は、自分で考えて解決すりゃいいんです。私は、自分の生き死にの問題で忙しくて、とてもそこまでは手が回りません」「なるほどなあ」と、私はいたく感じいった。
 「これは一つの達観であり、また、サトリでさえある」と私は思った。
 もしサトリとは、悩みから脱却して、自由になることだ、とするならば、これも「普通人のサトリ」ではないか。
 私がここで言いたいことは「サトリ」とは、なにも哲学者や宗教家の専売特許ではなく、ごく普通の人が体験できる意識経験の一つである、ということなのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勝ち負けに あまり こだわらぬ ようにしよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 生きていれば、丸儲け・・死んでは何も出来ない・・今活かされて
全て起こる事は必然で・・真正面から、向合い・・逃げず 
 今の悩み、今の恐れは・・未来に起こる確率は低く・・今に感謝して活きる。

唱元  一蓮託生・いちれんたくしょう

2008-09-20 | 無能唱元・唯心円成会
一蓮託生・いちれんたくしょう

 私は毎日をどのようにして生きているのだろう。時にそんな疑問にふっと襲われることがある。
 そして、これから私はどのようにして暮らし行くのだろうか?そんな思いが私を悩ませる。
 とかく人間は、こういう考えが進行すると、うつ病になったり、不安神経症に取り付かれたりする。言うなれば、これは人間の常駐的不安なのかもしれない。
 それはマイナス思考である。暗い方の考え方だ。なんとかしなければいけない。
 しばらく考えていたら、ポンとその答えが出てきた。それは次のような答えだった。
 これは、私の体の中の同居人(つまり私の神さま)に質問すればよいことじゃないか。あまり深刻に考えず、ごく気軽に、私の神さまに聞けばいいことだ。
 そこで、神さまに聞いてみた。
「神さま、この生きる不安てやつは、どうやったら消えますか?」すると、即座に返事がかえってきた。
 「それは、今日一日を私に託しておけばいいことさ」なるほど、と私は思った。
「一蓮託生」という言葉がある。これは自分以外の他のものの力にすがって、生かしていただくという仏語の一つである。

「すべて」とは、どういうことか?
 それは、私の心に自然に涌きだした欲望である。そしてそれは湧き出してくるまでは、私には何かは解らなかったものだ。
 この現れたものを、瞬間に処理していただくと、今日一日は終わってしまう。すなわち、これが一蓮託生というものだ。
 こうして、今日一日が暮れて行く。
明日は何が来るのか解らない。あるいは明日は死んでしまっているかも知れない。
 これが意味するところは、私にあるものは「今日一日」だけだということである。
 考えてみれば、これは限りなく貴重な一日だ。素晴らしい一日だ。こんな一日が私に与えられているなんて、これはもう感謝あるのみだ。
 こうりゃもう、生きる不安なんかに悩んでいる場合じゃない。
 
   一蓮托生 一蓮託生 で一切お任せ申し上げます。

感謝 感謝 感謝・・ただもう、ありがたし。 かたじけなし。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<「神さま、この生きる不安てやつは、どうやったら消えますか?」すると、即座に返事がかえってきた。
 「それは、今日一日を私に託しておけばいいことさ」なるほど、と私は思った。
「一蓮託生」という言葉がある。

 公平に与えられた一日の時間・・明日がある、明日があると・・今の一日を疎かにし・・今も活きている・・明日の幸せを求めて・・今の幸せを築こうとせず・・明日があると

<これは自分以外の他のものの力にすがって、生かしていただくという仏語の一つである。

 他のものの力にすがって・・己の神・仏・・眼に観えない力に・・隣の人に依存せず・・わが いだいなる ものよ

 ゆめみる ちから が あるかぎり きっと なにかが たすけてくれる・己の神・仏
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