直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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俳句というもの

2013年06月06日 | ちょこのひとかけ


俳句というのはなかなか微妙なもので、
どんな駄作に見えるものでも、
その手の権威が「すばらしい」といえばすばらしくなります。
とてもうさんくさいものです。

最近なにかで俳句を目にし、『俳句』ってなんなのかなあと、
考えるでもなく考えていたところ、わたしなりにふと理解しました。

たとえば旅行記とか紀行文的なものがあったとします。

『旅行○日目。野宿もアレなので、
見かけた家に屋根を貸してもらえないかと頼んだ。
厩を貸してもらえた。
わらがあって屋根もあり、露天で寝るよりはよっぽどましだが、
のみとしらみがすごい。馬は枕元で放尿して音がすごい。
しぶきまで飛んできそうだ。

……という場所がこれ』

と書いて、わたしならそこで写真を貼ります。
でも写真がなかったかつての人ならどうするでしょうか。

というところでこんな風に書くかもしれません。

『そこにて詠める歌、
蚤虱 馬の尿する枕もと』

そんな風に考えて思ったのが、『俳句は写真』なのだということ。

考えてみれば、基本的に写真に解説など入れません。
写真を撮るには撮るだけの心のふるえがあって、
それは見る人にもそれなりに伝わるものです。

たとえばわたしが好きな、秋の野原いっぱいの金色の穂が
風に揺れるような景色を見て、こころ震えたから写真を撮る、
こころ震えたから俳句を詠む。
おそらく、同質の行為なのでしょう。

そう思ったら、俳句が理解できるような気がしました。
いい写真というのは、おもしろい構図で、
撮った人が何を撮りたいか明らかで、
色味もよく出ているものでしょう。
よい俳句というのは、おもしろい着眼点で、
詠んだ人が何に心動かされたか明らかで、
その情景が色鮮やかに浮かんでくるようなものでしょう。

だから俳句には、止めで終わらせる感情語なんていらないのです。
直接感情を詠まなくても、その句を詠むこと自体が
感情のゆれを表現するからです。
それは写真の対象物に、あとから矢印を入れて
『これがかわいい』、『これがきれい』なんて
書き込まないのと同じことです。


詠めるか詠めないかは別としても、俳句というものがちょっとわかってきました。

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