すごい時間がかかりながらもちっとも終わりの見えなかった、
Flash用のイラストに ようやく終わりが見えてきました。
でもまだ何日かはかかりそうです。
前回が同じくらいのコマ数を使いながらも
それなりな時間で完成できたのは、
デザインの差のようです。
向こうは基本的に素肌とウェーブ髪とワンピース。
今回はウェーブ髪と着物とエリとソデと
フリルとエプロンとコルセットと紐と
足袋と鼻緒とゲタ。一枚上げるのに
かかる時間が段違いです。
一枚絵ならまだしも、枚数が必要なときは
デザインはなるべくシンプルにしないとだめだと
今回で思い知りました。
今までは自分のできる最大のことを
最大の手間をかけてやっていたのですが、
今回があまりにつらかったので、
完成しても大したことがなかったら
もうこんなことはしばらくやらないと
かたくこころに決めました。
というのを思ったら、
この構図はどこかで見た気がします。
そうして考えると、評価主義と社会主義でした。
たとえば基本的な労働における資本主義では、
がんばればがんばった分、
対価が増えることになっています。
基本的な、ということで、
労働時間を増やすことでがんばれば、
賃金がその分ふえるという意味です。
一方の社会主義では、どれだけがんばっても
賃金が増えることはありません。
そのため、もっとも効率よくお金を稼ぐには、
お金のもらえる最低レベルの仕事だけを
するのがもっともよいのです。
それも原因の一端となって社会主義は
崩壊したと言われています。
そして評価主義。
最近は賃金切り詰めからこの形式に
移行したいようですが。
ここには主観と客観というものが混在しています。
その軋轢の中にこそ、問題も潜んでいるようです。
たとえばある人が、
普段なら一時間でささっと描く絵を、
クライアントの要求を満たすために
十時間かけて緻密にしあげました。
その人は主観として、普段の十倍がんばったので
十倍の評価がほしいと思います。
でも客観、評価としては、
一人のクライアントの仕事しかしていないので
いつもと同じものにしかなりません。
同じ結果を出すのに、その行程にどれだけの
エネルギーが必要かは考慮されないのです。
評価主義、成果主義はそこが問題の気がします。
たとえば評価前の査定が
まともに行われていない状態で、
一つの仕事が求められたとします。
成功条件:1年以内に1kmの橋を一本かけろ!
成功報酬:100億円
これが、周りに民家もないただの荒野の
平地に橋をかけるのか、
それとも間に1000メートルの谷がある
山の間にかけるのか、
流れが急な深さ300メートルの海の上に
作るのかで、結果を出すまでの
困難さは天地ほどの差があります。
でも評価者がおかしい場合、
その行程は省みられず、
ただ結果のみにしか目が行きません。
それで単なる結果のみをださなくてはいけないとしたら。
途中の大事な部分をはしょってでも
結果だけをだすのが一番早いでしょう。
橋さえできればいいというのなら、
基部なんて手を抜いて、たとえ10年で壊れるとしても
橋という形だけ作ればいいのです。
すなわち、評価主義でもっとも効率よく評価を稼ぐには、
『評価になる部分にしか手間をかけない』
ということです。
これは、社会主義と同じ構図ではないのでしょうか?
がんばりが評価に直結するのであれば、
人はがんばるでしょう。
でも評価が正当にされないのならば、
人はがんばれません。
評価主義という内容が練られないまま、
社会に蔓延するのはやめてほしいと思ってなりません。
……まあ、それはさておいて。
わたしがいつもがっかりするのは
評価主義の軋轢によるものみたいです。
わたしが精一杯手間をかけるのは、
今まで10時間かけたものが再生300なら、
100時間かけたら再生3000行って欲しいと
願っているのかもしれません。
でも決してそんなことはないので
がっかりするのでしょう。
そんなことを思っていたら、
マクロスFのOPっぽいものが頭に浮かんできました。
♪泣き虫弱虫連れて まだやるんだと思うわたし
ほめられるより 得るものより
失うほうがずっと大きい自分が悔しい