震災のニュースを見ていたら、
水の配給場面が映り。
そこの人が
「久しぶりに生水が飲める」
というようなことを言っていました。
……え? 配給の水って生水なの?
驚いて即座に検索しましたが……
『生水』ってなんだと思います?
旅先で生水を飲むな
などと使われる生水。
わたしは、
『(飲料用に)加工していない 水』
の概念を持っていましたが、
辞書を調べると
『火にかけていない 水』
だそうです。
だから、沸騰させているわけではない
配給の水も、水道の水も、
辞書の定義では全部『生水』なのだそうです。
これを知って、あれ? と思いました。
ここにある気持ち悪さは、この前述べた
『生野菜』とは何か、に通じるものだったからです。
わたしの中の生野菜とは、
『状態が変化していない 野菜』
です。
これに合わせれば、わたしの中の生水とは
『状態が変化していない 水』
です。
辞書の定義だとたぶん、コップにいれっぱなしの生水は
腐っても生水。
水道水も生水で、
山の湧き水も生水。
わたしの定義だと、
山の湧き水は無加工なので生水。
腐った水は状態変化後なのでくさった水。
水道水は状態変化後なので水道水(飲料水)。
山の水を汲んで、寄生虫とか毒成分とかを排除した
ペットボトルの水は飲料水。
生水に塩を入れたら塩水。
海水も海水だけど、塩水。
わたしの定義、わたしの概念は、
『生』は『未加工』に近いもののようです。
でも、他の人の定義・概念は
『生』は『非加熱』に近いもののよう。
わたしの定義では『生酒』とは
『それ以上発酵が進まないように手を加えたもの』になりますが
他人の定義では
『熱を加えたもの』
になるのでしょう。
なんだかすごく気持ち悪く思えたので、
単語の分析と、解釈を行ってみました。
では、ここで。
生娘(きむすめ)や、生蕎麦(きそば)、
生(うぶ)、生放送(なまほうそう)
とはなんなのか、考えてみてください。
生娘とは、余計なものが加わっていない
という娘さんをさします。
言い換えれば、状態変化させられていない娘さんです。
加熱されていないわけではありません。
生蕎麦とは、加熱されていない蕎麦ではありません。
余計なものが加わっていない
という蕎麦を指します。
生とは、余計なものが加わっていないと
伝わるようなことをいいます。
生放送とは、流したくない部分などに
手を加えたものではない放送を意味します。
では、生水、生野菜とはなんでしょうか。
生娘
生蕎麦
生
生放送
が、『加えていない』の概念を持つのに対し、
生水
生野菜
が、『加熱しない』となる理由・根拠・必然性は
どこにあるのでしょうか。
生娘
生蕎麦
生
生放送
と同じく、
生水
生野菜
も、『加えていない』の概念を持つのだ、と
説明するほうがよっぽど妥当性が高いでしょう。
たとえば、江戸時代の人、
あるいは、江戸の人が
『生水を飲むな』
と言ったとして。
それは、
『煮沸していない水、加熱していない水を飲むな』
という意味だったと思いますか?
そもそも江戸の水だって、
煮沸した水を配っていたわけではないし、
水を汲んだ人が、飲む前に全部煮沸していたわけではありません。
生水 の定義が、非加熱 だと文脈的にも常識的にも、
意味が通じないのです。
でも、生水が『加えていない』の概念なら。
『生水を飲むな』
は適当にそこらで汲んだ水……生水を飲むな、という意味だと解釈できます。
では、飲んでいい、生水ではない水は?
『(手を)加えた水』。
飲むために上水など作って手をかけた水……非生水(飲料水) や
生水を、沸騰させるなどして手を加えた水、です。
文脈的にも常識的にも、何の問題もなく意味が通ります。
古語から考える、歴史から考えるなら、
『生』は『純粋』『非加工』に近い概念の言葉です。
『加熱』・『非加熱』なんてくだらない概念の言葉ではありません。
生水を、加熱していない水、とするのは誰でしょう。
生野菜を、加熱していない野菜、とするのは誰なのでしょうか。
過去の言葉を、文脈を、常識をたどらなかったのでしょうか。
すこしは古文でも読めばいいのにと思ってなりません。