いちおう竹取物語解釈は通しで終わったので
しばらく時間を置いて、頭を冷ましてからまた手入れです。
というところで、時間を置くついでに
邪馬台国の解釈話に手を入れてみていますが、
意味あるのか面白そうに見えるのか悩みます。
なんで他人のものだとおもしろそう、おもしろくなさそうがわかるのに
自分のものになるとまったくわからなくなってしまうのでしょうか。
●はじめに
いわゆる邪馬台国はどこにあったのか、というのは古代日本史にとって
とても大きな関心ごとです。(これより後は『いわゆる』を省きます)
しかし、これまでにも数多くの人々が探してきたにも関わらず、
その場所はいまだ確定されていません。
なぜ確定されないのか、その大きな原因は、
これまで古文にあたってきた者たちが
『古文の厳密な読み方』や『古文の解釈法』を知らない、という
その一点にあると思います。
ところで、現在、邪馬台国関連でもっとも有名で人気のあるものは
『三国志』魏書の烏丸鮮卑東夷伝倭人条、
いわゆる魏志倭人伝であることでしょう。(これより後は『いわゆる』を省きます)
多くの人が文章にあたりつづけ、いろいろな訳や解釈が出て、
煮詰まっているように見える魏志倭人伝ですが、
現在常識として言われていることと、
文字で実際に書いてあるものの中には、
大きな食い違いをもつ箇所がいくつかあるのに気づくでしょうか。
たとえば、邪馬台国関連の年号と出来事です。
解説にはすこし前提知識がいるため、その説明をしたのちに
しっかり具体的に述べていくことにしますが、
今の魏志倭人伝の訳、魏志倭人伝の解釈には、
中国語や中国古文の素人であるわたしでさえ
見つけられるくらいの大きな誤りがあるのです。
なぜ、日本の古文を専ら読むだけのわたしが誤りに気づけて、
なぜ、外国語も読め、その古文まで読めるような人が誤りに気づけないのか。
それは、『古文の解釈法』を知っているか否かの差だとするのが
最も合理的に思えます。
なぜなら、わたしが鍛え、学び、日本の神道の文書を読んできた、
その古文の解釈法で誤りを見つけることができたからです。
でも、自由に使えるのが日本語だけのわたしは、
日本語で書かれていない魏志倭人伝の完全な解読を行うことはできません。
簡単な誤りを見つけるくらいが限界でしょう。
かといって、わたしでさえ簡単に誤りを見つけられるような、
魏志倭人伝の既存訳を使って解釈を試みても、正しい結果が出るわけもありません。
よって、邪馬台国のことを探るのに、魏志倭人伝を使う意味は薄いと考えます。
代わりに、使えそうなものは思いつきます。わたしの得意とする、古い神道です。
日本人は昔から、力のあるものは、善でも悪でも、人でも事物でも、
神として祭ってきました。
そんな民族が、これほど有名で外国の文書にまで登場する
いわゆる卑弥呼を神として祭っていないということがあるでしょうか?
(こののちはいわゆる、を省きます)
日本人や日本の歴史を考えるなら、まず、ありません。
考え、調べてみる価値は充分にあると思えます。
神と神社がわかれば、邪馬台国の位置も自然と明らかになるはずです。
ここからは、古い神道をメインにし、卑弥呼や邪馬台国について
考えていくことにしましょう。
……というようなお話です。
まとめているものは『自作本』カテゴリを見てください。
しばらく時間を置いて、頭を冷ましてからまた手入れです。
というところで、時間を置くついでに
邪馬台国の解釈話に手を入れてみていますが、
意味あるのか面白そうに見えるのか悩みます。
なんで他人のものだとおもしろそう、おもしろくなさそうがわかるのに
自分のものになるとまったくわからなくなってしまうのでしょうか。
●はじめに
いわゆる邪馬台国はどこにあったのか、というのは古代日本史にとって
とても大きな関心ごとです。(これより後は『いわゆる』を省きます)
しかし、これまでにも数多くの人々が探してきたにも関わらず、
その場所はいまだ確定されていません。
なぜ確定されないのか、その大きな原因は、
これまで古文にあたってきた者たちが
『古文の厳密な読み方』や『古文の解釈法』を知らない、という
その一点にあると思います。
ところで、現在、邪馬台国関連でもっとも有名で人気のあるものは
『三国志』魏書の烏丸鮮卑東夷伝倭人条、
いわゆる魏志倭人伝であることでしょう。(これより後は『いわゆる』を省きます)
多くの人が文章にあたりつづけ、いろいろな訳や解釈が出て、
煮詰まっているように見える魏志倭人伝ですが、
現在常識として言われていることと、
文字で実際に書いてあるものの中には、
大きな食い違いをもつ箇所がいくつかあるのに気づくでしょうか。
たとえば、邪馬台国関連の年号と出来事です。
解説にはすこし前提知識がいるため、その説明をしたのちに
しっかり具体的に述べていくことにしますが、
今の魏志倭人伝の訳、魏志倭人伝の解釈には、
中国語や中国古文の素人であるわたしでさえ
見つけられるくらいの大きな誤りがあるのです。
なぜ、日本の古文を専ら読むだけのわたしが誤りに気づけて、
なぜ、外国語も読め、その古文まで読めるような人が誤りに気づけないのか。
それは、『古文の解釈法』を知っているか否かの差だとするのが
最も合理的に思えます。
なぜなら、わたしが鍛え、学び、日本の神道の文書を読んできた、
その古文の解釈法で誤りを見つけることができたからです。
でも、自由に使えるのが日本語だけのわたしは、
日本語で書かれていない魏志倭人伝の完全な解読を行うことはできません。
簡単な誤りを見つけるくらいが限界でしょう。
かといって、わたしでさえ簡単に誤りを見つけられるような、
魏志倭人伝の既存訳を使って解釈を試みても、正しい結果が出るわけもありません。
よって、邪馬台国のことを探るのに、魏志倭人伝を使う意味は薄いと考えます。
代わりに、使えそうなものは思いつきます。わたしの得意とする、古い神道です。
日本人は昔から、力のあるものは、善でも悪でも、人でも事物でも、
神として祭ってきました。
そんな民族が、これほど有名で外国の文書にまで登場する
いわゆる卑弥呼を神として祭っていないということがあるでしょうか?
(こののちはいわゆる、を省きます)
日本人や日本の歴史を考えるなら、まず、ありません。
考え、調べてみる価値は充分にあると思えます。
神と神社がわかれば、邪馬台国の位置も自然と明らかになるはずです。
ここからは、古い神道をメインにし、卑弥呼や邪馬台国について
考えていくことにしましょう。
……というようなお話です。
まとめているものは『自作本』カテゴリを見てください。