わたしは将来のことを考えるのがすごく苦手で、嫌いです。
一週間後・二週間後の予定ならまだ立てられますが、
一か月やその先の予定は、考えるときにすごく嫌なものを感じます。
わたしの手が届くのは、ほんの短い時間の気がします。
なぜかと考えたら、わたしは自分の命を信じていないからだと
わかりました。
一二週間くらいなら生きているだろうとは思えますが、
その先になるとよくわかりません。
そんな刹那主義で、半ば捨て鉢に生きてきました。
正直、常に死はすこし先につねにちらついている気がしました。
たとえば一か月先に死ぬとして、
「おまえ専用の高価なデジカメが欲しいか」
と聞かれたら、すぐに自分で使えなくなるものなんて
別にいりません。
贅沢して高い食事を食べたとしても、一か月後には
意味がなくなるのなら、別に食べたくもありません。
すぐに死ぬと考えれば、すべては無駄なのです。
『無駄』
わたしが大体いつも持ってる思いです。
わたしには高い服は無駄。
わたしには高い食事は無駄。
わたしには高い旅行なんて無駄。
常にわたしに対して行われるものは無駄だと感じてきましたが、
この無駄はわたしにへばりついている死によるものだったようです。
死がわたしから人生の楽しみも未来感もほぼすべて奪っていったせいで
わたしは刹那的な安い喜びしかわからなくなっていました。
『生きている』ではなくて『死んでいない』だけの生活。
なんでわたしはこんなに死がこびりつくまで
死ぬ死ぬ言われ続けなければいけなかったのか。
そして、なんでわたしはここまで生き続けているのか。
生きる心構えも蓄えもないし、正直生きることにとまどうばかりです。