直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
研究のまとめはカテゴリ『自作本』から。

肉を削いで骨を取る

2009年05月06日 | ちょこのひとかけ



肉を削いで骨を取る――すなわち、削肉取骨ですね。
見かけをはいで本質に近づくことを言いますが……
……ええ、もちろん今適当に考えただけなので
そんな言葉もなければそんなことも言いません。

まあ それはさておき。

かつてシナリオの勉強にと
一年間で映画を356本くらい見るなどという
無茶をした結果、見ているうちに
映画の類型が見えてしまって楽しめなくなることが増えたのは
逆に手痛いダメージでした。

その後も自分でショートショートの練習などをやりつづけ、
肉を削いで骨を取るような見方を鍛えてきました。
観念的に言えば、
見た目上は違うもの同士の中に共通して含まれる、
同じ構図を抜き出すこと、の訓練です。
具体的にたとえるなら、資本主義と愛情などです。

わたしは基本的に、『持たざるもの』です。
家はずっとお金がないと言われてきたし、
欲しいものがあるときは、それを『欲しい』と思うよりも
『欲しくない』と思うように方向付けられてきました。
手持ちのお金が足りず、すこし稼げば買えるというとき、
わたしはそれは稼ぐための動機にはならず、
あきらめることで過ごします。

たとえば誰かすてきな人がいて、
なにかをがんばれば自分に振り向いてもらえるかもしれないと
思うとき、わたしは努力するのではなく、
心からあきらめるほうを選びます。

どうせお金も愛情も、わたしには埒外だという
諦観みたいなものがいつもちらついています。


さて、そんなお金と愛情、わたしにとっては
基本的に同じものに見えてしまいます。

資本主義において一番大事なのはお金です。
お金をたくさん持っている人は、
使うべき時に使え、手に入れた物品を売るなどすることで
さらにお金を得ることができます。
これが拡大再生産にもつながる図式です。
一方、お金のない人は品物を買うこともできないので、
まずしいままです。

それと同じに、
愛情をたくさん持ってきた人は、
愛を使うことも上手で、愛を受け取ることも上手です。
そのために人からまた愛され、
愛に満たされることになります。
愛を知らない人は愛することもできず、
愛されても信じることもできず、豊かになることはできません。

わたしが理解できるのは恋までで、
愛だのなんだのは想像すらできません。
自分で理解できないので、告白されたところで
逆にうさんくさく感じてしまいます。
ほめられるのも同じことで、
むかしから誉められることはなかったので、
わたしは誉められることがすごく苦手です。
基本的にはお世辞だとか嘘だとか、
そういう方向性からの言葉にきこえるので
誉められるだけでも裏をかんぐってしまって
いちいち疲れます。

でもそんなわたしとは裏腹に、
世の中には誉められ上手みたいな人がいます。
軽く誉めても、すごく嬉しそうに、
なんの他意もなくきらきら笑って受け止める人です。
ああいう人を見ると、
『持てる者・持たざる者』の落差を感じて
いっそう自分が惨めになります。

なにかを持っている人は、持っていることで
より豊かになり、
なにかを持っていない人は、もっていないことで
より貧しくなっていくのです。

わたしの目は、他の人にはそう見えないものも、
わたしにとっての類型化を勝手に行ってしまうせいで、
世界はみじめな構図が何十にも重なった、
くだらないもの以外には見えなくしてしまいます。


……それはさておき。

そんなこんなでわたしにとって見られる映画と
見られない映画のタイプも、それなりに
わかってしまうようになってしまいました。

たとえばだめな映画は、ただ単にカテゴリーをなぞるもの。
探偵モノにするためだけに、探偵を出し、
謎を作るようなものです。
一方探偵ものでも面白いものは、
キャラを出し、謎があり、
その謎をといたりするために探偵がいるようなものです。
たとえカテゴリーの典型にはまっていたとしても、
それを感じさせない、もしくはカテゴリーがあるからこそ、
安心して見ていられる様な安定感があるものはいいです。

今まではそういう目は映画を見ているときにしか
発動しなかったのですが、
最近アニメを連続して見るようになっていたら、
アニメを見ていても発動するようになってきました。

そんななか、最近わたしが類型として
とらえたものがあります。
それは、こんなのです。

・惨殺系
・痴情系
・箱庭宇宙系

今回はその話です。


まず『惨殺系』ですが、これは、ただ殺すシーン、
殺されるシーンだけを見せ場としているものです。

初めてこれを見たときに、わたしは頭をひねりました。
筋らしい筋はまるでなく、なにをやりたいのかが
まったくわからなかったのです。

たとえば映画で、『ドーン オブ ザ デッド』。
ただゾンビを殺し、ゾンビに殺され、
主役たちもエンドロール最中に殺されるだけ、という
不愉快極まりないものでした。

その他、映画の『ゴーストシップ』。
なんの解決もないまま、ただ人が無残に殺されていきます。
最後も殺していた者の正体はわかりますが、
また続くような描きかたですっきりもしません。
むごたらしいひどい映像ばかりでした。

昔は殺す、殺されるには理由があったように思えるので、
この変化がなんだか衝撃的です。
たとえば人がつぎつぎ殺されていくプレデターでは、
殺人は、プレデターへの憎しみを増すための
装置として使われていましたが、
上記の映画では確固とした対象も情動もなく、
ただ殺されるような印象です。


次に、『痴情系』。
恋愛系の中の一系統です。

昔から、映画を見ても漫画を見ても、
恋愛モノでくくられるものの中に、
どうしても見ていられないものがありました。
傍目では『恋愛モノ』として一本で括られるため
ずっとわからなかったのですが、
ようやく骨をつかむことができました。

もともと、わたしは少女漫画は恋愛物でも結構好きです。
純粋に恋愛だけしか描いておらず、
他にまったく内容がなかったとしても、意外と好きです。
正しい恋愛モノ漫画の骨子は、
女の子の、『恋愛による自己変容』。

たとえば自分の恋にきづいていなかったとしても、
すでに悩んでいたとしても、
主役が向かうのは、告白など勇気を出す行為。
主役は悩んで、それでも解決するために
前へ進もうとします。
そのため、見ていてさわやかです。

一方、痴情系は、
わたしが恋や愛だと言いたくない感情を、
ひたすらもてあそぶ事を主題にしています。
あっちが好きだけどこっちも好き、
好きだけどどうにもせず、
嫉妬させるためにとりあえず不倫してみる、
そんなただぐだぐだとしたものを
描き続けるのが痴情系です。

わたしが本当に苦痛で、見ていられなかったのは
こういうものだったのかと
思い至ってすっきりしました。

たとえば以下です。
『ハチミツとクローバー』
『いちご100%』
『School Days』
『true tears』
『おねがい★ティーチャー』
『とらドラ』



そして『箱庭宇宙系』は、最近微妙にはやってる気がして
なんだか嫌です。

内容としては、主役と誰かが特別な関係になると、
世界が特別な安定状態へと移行する、といったものです。

ドラマツルギー(描写の紋切り型手法)としては、
かつての女の子が夢に見たような、
『いつか王子様が』を反転させたようなものが
よくもちいられます。

かつての、『いつか王子様が』では、
『お姫さまである女の子を、いつか白馬に乗った王子様が
迎えに来て、閉じ込められた世界から
知らない世界へと連れて行ってくれる』という構成でした。
これを反転させると、
『王子様である男の子をいつかお姫さまが迎えに来て、
閉じ込められた世界から連れ出してくれる』と
なりそうですが、それを一段 落とします。
『ただの一般人である男の子を、いつかお姫さまが
むかえに来て、閉ざされた世界から連れ出してくれる』
といったような形であることも多い気がします。

たとえば、アニメ『夜明け前より瑠璃色な』。
一般人の男の子に、かつて会っただけの月の王女様が
なぜかしらずっと愛情を持ち続け、
高校生くらいで再開して適当に愛情を確かめ合った後は、
即座に結婚話にまでなります。
地球と月とで戦争が起きそうな空気でしたが、
『二人がうまくらぶらぶしていたら、
月も地球もらぶらぶでうまくまとまっちゃうんじゃない?』
というような空気が湧き上がったので、
そのままらぶらぶを通してみんな大団円を目指します。


それや、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』。
主役は一般人の何のとりえもない高校生の男の子。
その彼に同級生の女の子が勝手に好意を持ちます。
別の男の子でもいいと思えますが、
なぜかその子だけです。
女の子は自分の意識していない超能力のようなものがあり、
気分のよしあしが世界の存続につながるので、
好意対象である男の子がその女の子の気分を良くし、
世界を安定させるようにうまくらぶらぶするように
まわりなどからしむけられる話です。


『イリヤの空、UFOの夏』も似たような感じです。
なんのとりえもない高校生くらいの男の子が
夜のプールに忍び込んだら女の子と会いました。
実は女の子は世界を救える戦闘機乗りの唯一か、
もしくは残り二人かくらいの生き残りですが、
戦闘機への搭乗を拒否しています。
そんな彼女が男の子になぜか愛情をもったので、
周りは世界を救うために男の子を操り、
女の子を戦闘機に乗せようとします。
主役の男の子はそれに反対しながらも、
結果には反対できなかったので、
二人らぶらぶして結果として世界を救います。


『電脳コイル』は多少異なりますが、
結果としてはそんな感じです。
世界に広く見受けられる異常な事態。
最初は関係なかった女の子もそれに巻き込まれ
事情を知っていきます。
そのうち、その異常な事態を解決しなければ
いけない感じになっていきますが、
その原因は過去の自分と、一人の女の子。
とりあえず仲良くしたかったので、
原因となったもう片方の女の子と通じ合ったら
世界の異常の原因も解消して安定が戻りました、
というような話です。


どんなに大きな宇宙をだそうと、
異常も解決も、ちいさなほんの二人程度に
すべてがまかされます。
こういうのを見ると、たとえば映画館で
予告編を見ているような気持ちになります。
『総制作費50億! 制作期間5年! キャスト3万人超! 
七つの銀河の存続をかけて戦う熱い物語! 
【The 隣の奥様】、本日公開!』
……のような。
どれだけ壮大に見えようと、結局はただの
隣の奥さん同士の口げんかと仲直りを描いただけです。


そんなことを考えていたら、しみじみと思いました。
映画もアニメも、なにも考えずに見られていたころが
いちばんおもしろかったんだなあと。

そして、思いました。
なぜ外にあるものはそれなりに分析できるのに、
自分のものはそうできないのかと。
自分がまったくの他人の目をもって、
自分の書いたものを見直して修正することができれば、
書くものをずっと良くできるはずなのに。

……世の中はいつだって無情です。
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