この前、安楽死の話がニュースになり、安楽死した周りでは、
「人が生き続けられないような状況が悲惨だ、改善してほしい」
みたいな論調になっているのを見て、またかとうんざりしました。
『人が生き続けられないような状況』だけが問題ではないでしょう。
なぜそこで、『生きる』ことだけを第一目標に設定しているのかの
意味がわかりません。
『生きたいと思う人が生きて、死にたいと思う人が死ねる
という状況ができていないことが悲惨』なのです。
死にたいと思って死のうとして。
死に損なったのを発見されたら、とどめもさしてもらえずに
無理やり生きるようにさせられて、
何で死のうとしたのか、生きたくても生きられない人もいるのにと
侮辱される世界が間違いです。
安楽死について問題にするなら、関係者は、
「安楽死の何が問題なのか。
自由意志で死のうとした人が、他人の力を借りて死んだだけ。
命を生む際も、人はほぼ他人の力を借りなければならない。
それと同じことをしたのにとがめようとすることが問題だ」
といった内容を述べるほうがよっぽど健全です。
生きたいと思う人が生きるのはいい、
生きてる人が生きたいと思えなくなるのもしかたないことです。
でも、死にたいと思う人が死ぬのにも苦労し、
せっかく自分で死のうとしても、途中で見つかれば
本人の意思なんてまったく無視をされ、
無理やり生かされるという残虐行為を強いられることが、
わたしには許せません。
人に、『生きる義務』でなく、『生きる権利』を。
『生きる権利』は『死ねる権利』と表裏一体です。
『死ねる権利』のない生なんて単なる『生きる義務』です。
何が何でも生きることを、生きればあとはどうでもいいようなのは
『生きる義務』、あるいは『生かす義務』であって、
それは『生きる権利』とはまったく違うものです。
なぜそれがわからないのでしょうか。
「人が生き続けられないような状況が悲惨だ、改善してほしい」
みたいな論調になっているのを見て、またかとうんざりしました。
『人が生き続けられないような状況』だけが問題ではないでしょう。
なぜそこで、『生きる』ことだけを第一目標に設定しているのかの
意味がわかりません。
『生きたいと思う人が生きて、死にたいと思う人が死ねる
という状況ができていないことが悲惨』なのです。
死にたいと思って死のうとして。
死に損なったのを発見されたら、とどめもさしてもらえずに
無理やり生きるようにさせられて、
何で死のうとしたのか、生きたくても生きられない人もいるのにと
侮辱される世界が間違いです。
安楽死について問題にするなら、関係者は、
「安楽死の何が問題なのか。
自由意志で死のうとした人が、他人の力を借りて死んだだけ。
命を生む際も、人はほぼ他人の力を借りなければならない。
それと同じことをしたのにとがめようとすることが問題だ」
といった内容を述べるほうがよっぽど健全です。
生きたいと思う人が生きるのはいい、
生きてる人が生きたいと思えなくなるのもしかたないことです。
でも、死にたいと思う人が死ぬのにも苦労し、
せっかく自分で死のうとしても、途中で見つかれば
本人の意思なんてまったく無視をされ、
無理やり生かされるという残虐行為を強いられることが、
わたしには許せません。
人に、『生きる義務』でなく、『生きる権利』を。
『生きる権利』は『死ねる権利』と表裏一体です。
『死ねる権利』のない生なんて単なる『生きる義務』です。
何が何でも生きることを、生きればあとはどうでもいいようなのは
『生きる義務』、あるいは『生かす義務』であって、
それは『生きる権利』とはまったく違うものです。
なぜそれがわからないのでしょうか。