大体の人は、自分の死を真正面から受け止めることはできない
と言われています。
あまりにも恐ろしいものであるため、
死に直面した人は、4段階の機序をもって、
脳の回路を不可逆的に壊していくのです。
幼いこどもも、生きていれば死なんてうすうすわかっていきます。
まだ何にも知らずにお幸せに生きられる時間に、
わざわざ嫌なことなど教えることもないでしょう。
「(自分含め)だれだれは死ぬの?」
なんてこどもに聞かれたら、
「死なないよ、ずーっと一緒にいるよ」
で充分です。
それがやさしいうそ、あるいは方便であることは
生きていれば否応なくわかるからです。
死とは悪いサンタさんのようなもので充分です。
という話にいきついたのは、自分の過去を思ってです。
うちは両親と祖父母の仲が悪いほうだったので、
そのやつあたりなり、ゆがみの噴出なりがわたしに向かいました。
わたしがしゃべれば「早死にするからその分を今しゃべってる」だの
皮膚の病気にかかれば「前に死んだ親戚もそんなのができてた」だの
とにかくわたしと死を結び付けたがりました。
わたしは毎日死が恐ろしく、死なないようにおいのりをして、
死が理不尽で、生もあやふやなものの上に成立しているんだと理解して、
四段階に頭が壊れていきました。
その結果出てきたのが、
『わたしは死ぬけど、代わりに、書いたものを残して生きてもらおう』、
『書いたものがいきつづける様な、ものかきになろう』、
というような考えです。
そこに思い至ると、わたしが小学3年あたりから小説を書き出したのも、
ギネスブックに載りたくて3000本くらいショートショートを書いたのも、
論文誌に載りたくて研究を論文にしていたのも、
それらが何にもならなくてがっかりしていたのも、
全部ひとつの筋にまとまりました。
わたしは『書かなくてはいけない』という気持ちがあって
半ば義務感でいろいろ書いたり研究してたりしましたが、
根本は好きだからやっているわけではなく、
それが最後の死への抵抗だから、やっていたに過ぎなかったのです。
わたしは昔から、将来の夢とか、将来の自分にメッセージをとか
タイムカプセルに何か文をとか、進路指導で未来の目標をとか
言われたところで、まったく何も書けないし、
答えられないできました。
周りはいろいろ考えて、なりたい自分や夢があって
幸せそうですごいなあと思っていましたが、それもそのはずです。
みんなには、生きる時間と、生きて楽しくなる先があって、
それをわくわくと期待していたのです。
一方わたしは、小学2・3年のころには書かなきゃいけないと
思っていたので、そのころから生きるのを諦めて、
死ぬ前に遺書を書いているような時間を送っていたようです。
わたしは生きていませんでした。
それを思うと意味が出てくるのが、
『何にもなれずに死ぬのは嫌』
という言葉。
恩師と話していても言ってしまって、
何にもなれないことはないだろうと返されましたが、
わたしの一番奥にある言葉は、たぶんこの、
『何にもなれずに死ぬのは嫌』だったのです。
『わたしは死ぬけれど、代わりに文を残して生かしたい』
は、
『何にもなれずに死ぬのは嫌』
とほぼ同義です。
わたしの根本、わたしの根源は、たったこれだけのものだったのかと
すごくわびしい気持ちになりました。
ずーっと死ぬ死ぬ言われ続けて生を諦めていたので、
わたしにあるのは現在と過去だけ。
未来なんてないと思っていたので将来設計もできるわけなく、
ただ現在だけに精一杯生きてきました。
わたしの分身、わたしの命は書くことだけなので
基本的には書くことしか考えず。
なので、会社にも自分にも希望なんてなく、
適当にどうにか会社に入り。
そこでは、給料の1/3を中抜きされて使いつぶされて。
その前の大学は行きたくもないところにただ入ってひどいめにあって。
高校は行けと言われたところに入って、
記憶が飛ぶほどひどいめに合わされて。
中学は2年の終わりから3年の終わりに
人の名前と顔を失って。
頭がおかしくなりそうなほど勉強もして。
小学はいろんな寄せ集めで厳しくて
行きたくないといっても無理やり行かされて。
幼稚園あたりから喘息で夜も寝られないような時期があり。
たまにぼんやりと、いつかの過去に戻れたら
わたしの人生はまともになったことがあったのだろうかと考えて、
人の顔がわからなくなる中2ごろに、
なにか奇跡的なことが起こってそれが回避されれあるいは、
とも思っていましたが。
そこを回避できても意味はないとわかりました。
小学校のころにはもうだいぶおかしくなっていたので
それ以前でなくてはいけません。
でも、今の記憶を持って幼稚園生になっても、
すでに生死の部分が壊れているのでなんにもならず。
今の記憶を持たないまま幼稚園生に戻っても、
他人の言葉を防御できる心も知恵もないため、
それまでどおり死を押し付けられておかしくなっていくだけ。
……つまり、わたしの人生がまともになる目は、
今生にはなかったのです。
今までの人生でよかった時期は、と思い出すと、
中学校でも一番おしあわせでわけのわからないメンバーが
そろった組と言われる中学1年のころと、
オンラインゲームを初めてやって熱中できた序盤のころくらいしかありません。
わたしは冗談でもかっこつけでもなく、
本当に人生なんてどうでもよく、
寝てる間に殺してくれるなら今日でも明日でも死んで構わない、
程度の気分で毎日すごしています。
人生がいい方向に向くことなんてないし、
いちおう努力はしてみるけれど、
どうやったって何もならないというのは常に感じています。
大学のころには、もう生きていなくていいと言ってしまっていましたが、
それ以前からそんなものだったとは。
そういえば最近、昔を思い出し、
ちいさいころも雑誌とかを読ませてもらえたときだけ読み、
お菓子なんかも基本的に自分では買わず、
誰かがくれたとき食べる、みたいなことをしていて、
どことなく寄進で生きる外国の僧侶みたいだと思っていましたが。
そうではなく、お供えされたものを口にする、
すでに死んだ人のようなものだったのだと思い至りました。
外国の僧侶も食べ物をもらい歩くというのは、
自分では何もできない、死んだ人と同じような立場になって暮らす
という意味があるのかもしれません。
わたしはわたしの人生というものをまったく生きてこず、
死んでないだけの暮らしを送らされてきました。
その原因はなんとなく、いつぞやのご先祖さまが誰かを殺し、
七代末まで祟ってやると言われたすえの
七代目がわたしだからではないのかとぼんやり思っていましたが。
そんな遠い話でもなく、こどものころに言われ続けた、
「おまえは早死にする」
みたいな言葉が呪いとなってわたしを殺し続けていたとは思いませんでした。
ずっと、いつ死ぬかわからないと思って
びくびくとその日暮らししてきたのに、
これだけながく生かされて、正直逆に困ります。
昔からずっと死人みたいなものでしたから
生きるためのことなんて何も知らないし、
死人なんだから一人では何もできないし、
この先どうやって生きていくのなんて言われたって困ります。
わたしは現実問題として生きられないし、
心情としてもまったく生きていたくないのです。
一切理解されませんが。
だから、自分が我慢できるところまではとりあえず生きて、
これ以上はもう我慢していたくないなと思ったところで死にます。
手段はたぶん首吊りでしょう。
……ということで、こどもには、
本人の死をつきつけないほうがいいと思います。
こども本人が死に向き合って頭の回路を壊したら、
もうまともに生きることはできないからです。
たとえば人生が車に乗っているようなものだとしたら、
普通の人はそれがおでかけのドライブで、
どこか楽しい場所に向かっていて、
道中もお菓子を食べたり楽しかったりすると思います。
でも、頭の回路が壊れた人にとっては、
それは自分が場へ連れて行かれる道行なのだ
というようにしか思えなくなります。
これから殺されに行くのに、その途中の何が楽しいのか
この先に何を期待できるのか、という気持ちです。
これがわたしの人生で、人生観とも言えるもの。
毎日ごとごと荷馬車に揺られてろくに寝られもせず、
揺れが止まったらそこで殺されるのがわかっているので
とまってほしくないような、でも、だらだらつれまわされるなら
いっそ早く殺してほしいような。そんな毎日。
こどもなんて、自分の無限の可能性と未来を信じて、
のほほんと生きていればいいのです。
遺書を書きながら死んでいないだけの時間を送る暮らしなんて
すごさせるものではありません。
なのになんでわたしはあんな呪いの言葉を浴びせられ続けなければならなかったのか
と言われています。
あまりにも恐ろしいものであるため、
死に直面した人は、4段階の機序をもって、
脳の回路を不可逆的に壊していくのです。
幼いこどもも、生きていれば死なんてうすうすわかっていきます。
まだ何にも知らずにお幸せに生きられる時間に、
わざわざ嫌なことなど教えることもないでしょう。
「(自分含め)だれだれは死ぬの?」
なんてこどもに聞かれたら、
「死なないよ、ずーっと一緒にいるよ」
で充分です。
それがやさしいうそ、あるいは方便であることは
生きていれば否応なくわかるからです。
死とは悪いサンタさんのようなもので充分です。
という話にいきついたのは、自分の過去を思ってです。
うちは両親と祖父母の仲が悪いほうだったので、
そのやつあたりなり、ゆがみの噴出なりがわたしに向かいました。
わたしがしゃべれば「早死にするからその分を今しゃべってる」だの
皮膚の病気にかかれば「前に死んだ親戚もそんなのができてた」だの
とにかくわたしと死を結び付けたがりました。
わたしは毎日死が恐ろしく、死なないようにおいのりをして、
死が理不尽で、生もあやふやなものの上に成立しているんだと理解して、
四段階に頭が壊れていきました。
その結果出てきたのが、
『わたしは死ぬけど、代わりに、書いたものを残して生きてもらおう』、
『書いたものがいきつづける様な、ものかきになろう』、
というような考えです。
そこに思い至ると、わたしが小学3年あたりから小説を書き出したのも、
ギネスブックに載りたくて3000本くらいショートショートを書いたのも、
論文誌に載りたくて研究を論文にしていたのも、
それらが何にもならなくてがっかりしていたのも、
全部ひとつの筋にまとまりました。
わたしは『書かなくてはいけない』という気持ちがあって
半ば義務感でいろいろ書いたり研究してたりしましたが、
根本は好きだからやっているわけではなく、
それが最後の死への抵抗だから、やっていたに過ぎなかったのです。
わたしは昔から、将来の夢とか、将来の自分にメッセージをとか
タイムカプセルに何か文をとか、進路指導で未来の目標をとか
言われたところで、まったく何も書けないし、
答えられないできました。
周りはいろいろ考えて、なりたい自分や夢があって
幸せそうですごいなあと思っていましたが、それもそのはずです。
みんなには、生きる時間と、生きて楽しくなる先があって、
それをわくわくと期待していたのです。
一方わたしは、小学2・3年のころには書かなきゃいけないと
思っていたので、そのころから生きるのを諦めて、
死ぬ前に遺書を書いているような時間を送っていたようです。
わたしは生きていませんでした。
それを思うと意味が出てくるのが、
『何にもなれずに死ぬのは嫌』
という言葉。
恩師と話していても言ってしまって、
何にもなれないことはないだろうと返されましたが、
わたしの一番奥にある言葉は、たぶんこの、
『何にもなれずに死ぬのは嫌』だったのです。
『わたしは死ぬけれど、代わりに文を残して生かしたい』
は、
『何にもなれずに死ぬのは嫌』
とほぼ同義です。
わたしの根本、わたしの根源は、たったこれだけのものだったのかと
すごくわびしい気持ちになりました。
ずーっと死ぬ死ぬ言われ続けて生を諦めていたので、
わたしにあるのは現在と過去だけ。
未来なんてないと思っていたので将来設計もできるわけなく、
ただ現在だけに精一杯生きてきました。
わたしの分身、わたしの命は書くことだけなので
基本的には書くことしか考えず。
なので、会社にも自分にも希望なんてなく、
適当にどうにか会社に入り。
そこでは、給料の1/3を中抜きされて使いつぶされて。
その前の大学は行きたくもないところにただ入ってひどいめにあって。
高校は行けと言われたところに入って、
記憶が飛ぶほどひどいめに合わされて。
中学は2年の終わりから3年の終わりに
人の名前と顔を失って。
頭がおかしくなりそうなほど勉強もして。
小学はいろんな寄せ集めで厳しくて
行きたくないといっても無理やり行かされて。
幼稚園あたりから喘息で夜も寝られないような時期があり。
たまにぼんやりと、いつかの過去に戻れたら
わたしの人生はまともになったことがあったのだろうかと考えて、
人の顔がわからなくなる中2ごろに、
なにか奇跡的なことが起こってそれが回避されれあるいは、
とも思っていましたが。
そこを回避できても意味はないとわかりました。
小学校のころにはもうだいぶおかしくなっていたので
それ以前でなくてはいけません。
でも、今の記憶を持って幼稚園生になっても、
すでに生死の部分が壊れているのでなんにもならず。
今の記憶を持たないまま幼稚園生に戻っても、
他人の言葉を防御できる心も知恵もないため、
それまでどおり死を押し付けられておかしくなっていくだけ。
……つまり、わたしの人生がまともになる目は、
今生にはなかったのです。
今までの人生でよかった時期は、と思い出すと、
中学校でも一番おしあわせでわけのわからないメンバーが
そろった組と言われる中学1年のころと、
オンラインゲームを初めてやって熱中できた序盤のころくらいしかありません。
わたしは冗談でもかっこつけでもなく、
本当に人生なんてどうでもよく、
寝てる間に殺してくれるなら今日でも明日でも死んで構わない、
程度の気分で毎日すごしています。
人生がいい方向に向くことなんてないし、
いちおう努力はしてみるけれど、
どうやったって何もならないというのは常に感じています。
大学のころには、もう生きていなくていいと言ってしまっていましたが、
それ以前からそんなものだったとは。
そういえば最近、昔を思い出し、
ちいさいころも雑誌とかを読ませてもらえたときだけ読み、
お菓子なんかも基本的に自分では買わず、
誰かがくれたとき食べる、みたいなことをしていて、
どことなく寄進で生きる外国の僧侶みたいだと思っていましたが。
そうではなく、お供えされたものを口にする、
すでに死んだ人のようなものだったのだと思い至りました。
外国の僧侶も食べ物をもらい歩くというのは、
自分では何もできない、死んだ人と同じような立場になって暮らす
という意味があるのかもしれません。
わたしはわたしの人生というものをまったく生きてこず、
死んでないだけの暮らしを送らされてきました。
その原因はなんとなく、いつぞやのご先祖さまが誰かを殺し、
七代末まで祟ってやると言われたすえの
七代目がわたしだからではないのかとぼんやり思っていましたが。
そんな遠い話でもなく、こどものころに言われ続けた、
「おまえは早死にする」
みたいな言葉が呪いとなってわたしを殺し続けていたとは思いませんでした。
ずっと、いつ死ぬかわからないと思って
びくびくとその日暮らししてきたのに、
これだけながく生かされて、正直逆に困ります。
昔からずっと死人みたいなものでしたから
生きるためのことなんて何も知らないし、
死人なんだから一人では何もできないし、
この先どうやって生きていくのなんて言われたって困ります。
わたしは現実問題として生きられないし、
心情としてもまったく生きていたくないのです。
一切理解されませんが。
だから、自分が我慢できるところまではとりあえず生きて、
これ以上はもう我慢していたくないなと思ったところで死にます。
手段はたぶん首吊りでしょう。
……ということで、こどもには、
本人の死をつきつけないほうがいいと思います。
こども本人が死に向き合って頭の回路を壊したら、
もうまともに生きることはできないからです。
たとえば人生が車に乗っているようなものだとしたら、
普通の人はそれがおでかけのドライブで、
どこか楽しい場所に向かっていて、
道中もお菓子を食べたり楽しかったりすると思います。
でも、頭の回路が壊れた人にとっては、
それは自分が場へ連れて行かれる道行なのだ
というようにしか思えなくなります。
これから殺されに行くのに、その途中の何が楽しいのか
この先に何を期待できるのか、という気持ちです。
これがわたしの人生で、人生観とも言えるもの。
毎日ごとごと荷馬車に揺られてろくに寝られもせず、
揺れが止まったらそこで殺されるのがわかっているので
とまってほしくないような、でも、だらだらつれまわされるなら
いっそ早く殺してほしいような。そんな毎日。
こどもなんて、自分の無限の可能性と未来を信じて、
のほほんと生きていればいいのです。
遺書を書きながら死んでいないだけの時間を送る暮らしなんて
すごさせるものではありません。
なのになんでわたしはあんな呪いの言葉を浴びせられ続けなければならなかったのか