まんじゅうの起源はマントウと言って、
人の頭を模したものだと言われることがあります。
諸葛亮孔明が川を渡るときに、いけにえの首の変わりに
食べ物で欺瞞の頭、略して『瞞頭』を作って投げ込んだとかいう
伝説も残るようなものです。
この前中国の話の番組を見ていたら、
殷王朝あたりの話で、
案外距離のある場所から『羌』の国の人を捕まえてきては
甲骨占いで首を切るかどうか占っては頭を切り落として神にささげた
みたいな内容をやっていた気がします。
殷の神が頭を食べるとか?
そのときは、そうなんだー 的な気分で流してしまいましたが、
その後ぼんやり考えていたら、ふと、饅頭の話に思い至ったわけです。
日本のいけにえというのは、全人を以ってそれにあてます。
たとえば代表的なものは川の神ですが、
これは人間自体を好むので、工事の基礎杭に
生きた人間をくくりつけて水に投げ込んだりして命を捧げます。
墓のときのいけにえも同様で、偉い人が死んだときは、
お供の『生け贄』として、生きたまま人を周りに埋めました。
それが残酷だ、別のものにしよう、として
日本では埴輪が作られ、墓の周りに置かれた、という伝説があります。
その伝説と同じ構図が、先の諸葛亮です。
中国では、
川に人を殺して頭を捧げるのは残酷だ、改めよう、として
饅頭を作って捧げるようになった。
日本では、
生きたまま、死ぬことをさせて贄として捧げるのは残酷だ、改めよう、として
ヒトガタ(埴輪)を作って捧げるようになった。
中国と日本を比べると、日本の伝説のほうが素直です。
なぜ、中国は頭を切り落とす、という一手間をかけているのでしょうか。
……と考えた場合、中国の神は、頭だけ欲しがる存在だったのではないか
と仮定することができます。
インカの神様に祭壇で生け贄の心臓をほじくりだして捧げた、
というのと通じるものがあるからです。
すると、頭を投げ込んだ川の神と、
頭を好む殷の神は、何らかの関係があるのではないでしょうか?
なんとなく考えると、人間は神様に自分を重ねるものなので、
そこらへんも関係しているのかと思います。
アイヌとかだと獣の脳みそはごちそうで、
新鮮なうちしか食べられない、重要なものだったとか。
すると、自分たちが好きで、日持ちのきかないものだから
神様も好きだろうと考え、神様にも頭を捧げる……
というのはわかります。
でも、それなら、獣の頭を捧げればいいだけで、
人間を捧げることはありません。
自分の大切なものを捧げることで、自分たちの覚悟をみせることで、
神への願いを通すというのはインカの心臓や、日本の川の神系いけにえの
考え方です。
死後の奴隷として召使になるものを生け贄にする、というのは
日本の墓送りの考え方です。
では、わざわざ奴隷を捕まえてきて頭を切り落として捧げる、
というのは、どういう概念から発生するものなのでしょうか。
神様がその民族を好きだから殺して食べるのか、
それとも、その神様を殺そうとした民族だから、
立場が逆転した際には殺して贄とするのか。
何かしらそこには意味があるはずで、
その意味をほぐせたら、神様の正体に近づけそうですが、
なにぶん中国の話だと資料も手に入らないのが難しいところ。
中国にも神社とか縁起書みたいなのがあったりするんですかねえ。
なぜかは知りませんが、やっぱりわたしは古い神様には
変に興味を引かれてしまうようです。
人の頭を模したものだと言われることがあります。
諸葛亮孔明が川を渡るときに、いけにえの首の変わりに
食べ物で欺瞞の頭、略して『瞞頭』を作って投げ込んだとかいう
伝説も残るようなものです。
この前中国の話の番組を見ていたら、
殷王朝あたりの話で、
案外距離のある場所から『羌』の国の人を捕まえてきては
甲骨占いで首を切るかどうか占っては頭を切り落として神にささげた
みたいな内容をやっていた気がします。
殷の神が頭を食べるとか?
そのときは、そうなんだー 的な気分で流してしまいましたが、
その後ぼんやり考えていたら、ふと、饅頭の話に思い至ったわけです。
日本のいけにえというのは、全人を以ってそれにあてます。
たとえば代表的なものは川の神ですが、
これは人間自体を好むので、工事の基礎杭に
生きた人間をくくりつけて水に投げ込んだりして命を捧げます。
墓のときのいけにえも同様で、偉い人が死んだときは、
お供の『生け贄』として、生きたまま人を周りに埋めました。
それが残酷だ、別のものにしよう、として
日本では埴輪が作られ、墓の周りに置かれた、という伝説があります。
その伝説と同じ構図が、先の諸葛亮です。
中国では、
川に人を殺して頭を捧げるのは残酷だ、改めよう、として
饅頭を作って捧げるようになった。
日本では、
生きたまま、死ぬことをさせて贄として捧げるのは残酷だ、改めよう、として
ヒトガタ(埴輪)を作って捧げるようになった。
中国と日本を比べると、日本の伝説のほうが素直です。
なぜ、中国は頭を切り落とす、という一手間をかけているのでしょうか。
……と考えた場合、中国の神は、頭だけ欲しがる存在だったのではないか
と仮定することができます。
インカの神様に祭壇で生け贄の心臓をほじくりだして捧げた、
というのと通じるものがあるからです。
すると、頭を投げ込んだ川の神と、
頭を好む殷の神は、何らかの関係があるのではないでしょうか?
なんとなく考えると、人間は神様に自分を重ねるものなので、
そこらへんも関係しているのかと思います。
アイヌとかだと獣の脳みそはごちそうで、
新鮮なうちしか食べられない、重要なものだったとか。
すると、自分たちが好きで、日持ちのきかないものだから
神様も好きだろうと考え、神様にも頭を捧げる……
というのはわかります。
でも、それなら、獣の頭を捧げればいいだけで、
人間を捧げることはありません。
自分の大切なものを捧げることで、自分たちの覚悟をみせることで、
神への願いを通すというのはインカの心臓や、日本の川の神系いけにえの
考え方です。
死後の奴隷として召使になるものを生け贄にする、というのは
日本の墓送りの考え方です。
では、わざわざ奴隷を捕まえてきて頭を切り落として捧げる、
というのは、どういう概念から発生するものなのでしょうか。
神様がその民族を好きだから殺して食べるのか、
それとも、その神様を殺そうとした民族だから、
立場が逆転した際には殺して贄とするのか。
何かしらそこには意味があるはずで、
その意味をほぐせたら、神様の正体に近づけそうですが、
なにぶん中国の話だと資料も手に入らないのが難しいところ。
中国にも神社とか縁起書みたいなのがあったりするんですかねえ。
なぜかは知りませんが、やっぱりわたしは古い神様には
変に興味を引かれてしまうようです。