家事や雑用をしながら「オールナイトニッポンMusic 10 」をタイムフリーで聞いた。2時間聞いたのは、初めて。
「Music 10 」は、次の女性の方たちが担当されている。私は月曜の森山良子さんと水曜の名取裕子さんが好きだ。お二人とも優しくて、ちょっと天然で、声がきれい。
3月28日(月)放送の番組では、森山良子さんが、とうとう「カムカムエブリバディ」について語った。ようやく、話すことができて、とてもうれしそうだった。「今日はFM COCOLOのスタジオから放送しています」と言っていた頃、大阪の難波のホテルに1ヶ月半宿泊して「安子」を演じておられたそうだ。脚本が素晴らしくて、色んな思いにさせてくれるドラマで、ひと時、ひと時を大切に生きていこうという気持ちにさせてくれた、と語っていた。ジャズトランペッターのお父さんは、日系二世で、ルイ・アームストロングが日本に来ると、必ず羽田まで車で迎えに行かれてたそうだ。ドラマでは、来週「安子」と「るい」が会うはずだ。深津絵里さんが、”On the Sunny Side of the Street”を歌う場面も楽しみにしている。ドラマの主題歌、アルデバランは、森山直太朗作詞作曲であることを、最近知った。
私は2006年から2年間、高校を休職して、大阪外国語大学のリカレントコースで勉強した。修士論文は日系人についてだった。リカレントコースというのは、現役の英語の先生を受け入れるためのコース。国立大学が独立行政法人化され、大阪外大のような小さな大学は経営が苦しくなり、このようなコースを設けたりして収入を増やそうとしたようだ。ところが結局は、大阪大学に吸収合併されることになり、大阪大学の外国語学部として再スタートを切った。入学して2年目の秋に、大阪大学になったので、論文の表紙は大阪大学になっている。卒業式には鷲田清一総長が式辞を述べた。
論文は、日系人が第二次世界大戦中に収容された施設を保存するための法律が制定された、ということについて書いた。新しい発見もなく、内容の薄い論文だったが、私にはこれが限界だった。英文論文の書き方という本を買い、形式だけは整えた。日本語での要旨の後に、年表、序論、本文、結論で50枚くらい書き、文献リストも10枚くらいつけた。1日に1枚くらいしか書けなかったので、完成するか不安だった。その頃、長女も薬剤師の国家試験のためにガリ勉していたが、彼女が「そんな誰も読まないような論文に一生懸命になることないよ」と言った。少し気が楽になった。
身の程知らずで大学院に入学してしまい、大変な2年間を過ごしたが、楽しいこともあった。2年目の春休みと夏休みにロサンゼルスに行った。夏休みはUCLAの1ヶ月の夏季英語コースに入り、コース後は長女と観光をした。そして、ロサンゼルスに住んでいる友人にこの方を紹介してもらった。日系二世のエースさん。
これはチャイニーズシアターの前で写した写真。当時80歳代だった。エースというのはニックネームで、ずば抜けて優秀な人なので、この名前がついたそうだ。大戦中はマンザナール収容所に収容されていた。戦後は、航空機会社でエンジニアをされていたが、日系人だということで差別されたので辞めた、とおっしゃっていた。それでも特許をいくつか持つ優秀なエンジニアだった。私がお会いした頃も、垂直に離陸する飛行機を作ったり、地雷発見装置の研究をされていた。私が日系人の強制収容について論文を書くつもりだというと大変喜んでくれて、観光地を車で連れて行ってくれたりした。
UCLAの英語コースが終わったら、スーツケースを持ってホテルニューオータニに長女と泊まることになっていた。その前に、娘を空港まで迎えに行かなければならない。当時のロサンゼルスではUberタクシーなどなく、日本のように流しのタクシーもなかった。電話で予約しても、来てくれるかどうかわからない、と聞いた。どうやって寮から出ようかと悩んでいたら、エースさんから寮に電話がかかってきた。車で空港とホテルに連れて行ってくれるとのことだった。なんて親切な人なんだろう。エースさんの車にスーツケースを積んで、ロサンゼルス空港に向かった。ところが、空港まではすぐに着いたが、空港が広くてなかなか目的地に着けない。同じところを何度も回り、ようやく娘が降りてくるはずの所に着いた。英語が喋れない娘が、飛行機を降りて、元気にこちらに向かってきた時には本当にうれしかった。その後、3人でホテルニューオータニに向かったが、近くまで来たが、またたどり着けない。車はホテルの裏の道路に入った。なんと一方通行、逆進だった!カートに荷物を積んでいる人に軽く当たり、荷物が落ちた。怪我はなかった。その人は、おじいさんの運転だから仕方がない、という感じで許してくれた。アメリカでは何歳になっても、車を運転しないと生活ができない。
1988年にアメリカ政府が、大戦中の日系人収容は誤りだと認め、一人2万ドルを補償した。エースさんは、2万ドルなんかで済ませられるものではないと考えていて、独自に活動されていた。詳しくは覚えていないが、下院議員宛に書いた請願の手紙を見せてもらったこともあった。その数年後に事故で帰らぬ人となってしまわれたが、エースさんに出会えたことは、私の人生の宝物となった。
鎌倉での新人ガイドの研修会の様子が、毎日新聞の夕刊で報じられた。3月20日には、NHKニュースで浅草寺での研修が報道された。講師は今回も松本美江さん。ガイド業界では有名な方だ。ガイド向けの本も何冊か出版されている。早くインバウンド、戻らないかなあ。「大仏さま お待ちかね」