好夫のブログ

奈良県に咲く花や風景を四季折々で照会させていただきます。更に僕の
趣味であるコルフ・デジタルカメラ画像を照会します。

好夫の魅力を探る

2020-02-18 22:34:59 | 日記
昭和22年は「日本国憲法が発布された年」戦後からたった二年しか過ぎていない動乱の世の中で産声をあげたのである。ただ田中家の家族は大家族で両親・兄弟を含めて8人が同じ屋根の下で育ち、好夫君は末っ子としてかわいがられていたのである。
 男4人、女2人の兄弟に恵まれていたのである。この画像は、昭和28年頃で父の社宅として「関西電力斑鳩出張所」に住んでいたころの画像です。毎年正月になると社宅の玄関先で家族そろって記念写真を写す慣例行事が行われていたのである。

 この画像は、昭和34年頃で「帯解の農家住宅が社宅として住んでいたころの写真です。
  • 元旦の行事として、家族全員で写真を撮る習わしとともに「お年玉」をいただくことも好夫にとっては大事な日々でもあったのである。
  • 親からいただくのではなく、長男からそれぞれの兄弟に「ポチ袋」に入っているお年玉を裾分けしていただいていたのである。
当時は千円札で一枚もらえる単価程度のお小遣いとしてもらっていたのである。昔は、お年玉で正月用の遊び道具(凧あげ・べった)などを買って遊んでいたのである。

その後成長した好夫君が昭和40年に奈良県庁に就職し、昭和52年に念願の彼女と結婚した時の画像である。
 アメリカ西海岸とハワイに新婚旅行に行った時のパスポ-トに貼られていた画像である。
 サンフランシスコの「都ホテル」からおそろいのカ-デエガンを着て町の観光に行く好夫君の姿であるサンフランシスコと言えば有名な橋がバックに描かれている。ただ養子として結婚した関係で、遠慮がちな好夫君が誕生したのである。彼女は同じ職場で育っていたのと「ミス桜井」として美人ぶりを振りまいていたのである。大恋愛していた昭和45年約7年間は、常に一緒の行動をしていたのである。養子先の両親からは、あまりよくみられていなかったのも事実である。百姓が嫌いな好夫君だったからなんである。子供も長男をさづかったが両親にはとってはかわいらしくなかったのも不運な昌徳君であった。
 生まれて三年後に死に至っている。

ここで過去のことではあるが、不運な昌徳君がなぜ死ななくてはならなかったかは、娘の養子娘を存続させるためには、昌徳君は養子先からすれば、いらない存在扱いされていたのである。今でも桜井に墓は存在している。
 

昌徳君の可愛かったころの画像です。好夫君の子供のころの画像である。

 好坊の子供のころの写真と比較して似ていますか。
令和時代になり、禁酒を実施しています。
 「令和の誓い」により実施しているのに、他は少ない余生を楽しく暮らすための努力は惜しまないようにしています。