前回はライアン・ゴズリングが私にもたらしてくれる”濃い異文化中和効果”を発見して、節目にライアンを注入しているという話をしていましたが、ここでは「ブルーバレンタイン」のライアンに着目したいと思います。
先月「メイドの手帖」を観ました。「メイドの手帖」では、主人公アレックスの夫のショーンが出てくると、「ブルーバレンタイン」でライアンが演じたディーンが重なってしまって、何なら名前の語呂も似てるので、ショーンの人物像がぼやけるようにさえなっていました。私の脳内の記憶領域で、ショーンの情報を既にディーンの情報が入っているのと同じフォルダに入れようとしているような。これは40代になってから増え続ける現象で、脳内の情報処理がめんどくさくなっているのか、新たに取り込もうとする情報に過去の何かとの類似性を検知すると、私自身の認識できていないところで脳が勝手に情報を仕訳して同じところに”重ねて”収めようとするのです。とは言っても脳の中は見えないので、そういう風に感じるという話です。
引き続き概念の話になります。ショーンとディーン(ライアン)が格納されているフォルダは、どういう仕訳ルールになっているのかな?と、通勤バスの中で考えてみました。よくよく掘り下げてみると、そのフォルダには既存データが入っています。どうやら20年弱前のデータのようです。階層を一つ上がってフォルダ名を確認してみたらびっくり、なんと元夫の名前が書いてありました!そうか、そういうことだったのか。
どういうことだったのかと言うと、元夫は若かりし頃、ショーンとディーン(ライアン)を重ねて、それぞれのパートナーと離れる原因となった幾つかの出来事をもうちょっと悪く、うるさく、激しくしたことを何度もやらかしました。つまり2つの動画の二人の登場人物によって、過去に葬っていた記憶が刺激されてしまったのです。それでもDVとかアル中というキーワードだけで一括りにして切り離せないところもあって。小さな子供の存在も強い意味を持っていて。
元夫の名前が付いているフォルダの仕訳ルールは、強いて言えば、自尊心の輪郭が絶望的に薄れていく中で判断や決断をすることへの迷いと揺らぎ、それでも終わりにしなければいけないことを終わらせるためのプロセスを生きる苦味、かつて一度は自分の最大限の無防備を曝け出した相手ともう二度と一緒に思い出を振り返ることはないんだということを理解する痛み。身体的な痛みとは分離された、だからこそ記憶の中でとても鮮明な、固有名詞に収まらない、遠い日々のあの気持ちなんだろうな。