どんな些細な不具合やら失敗やら落ち込むことなど、私から少しでも元気を奪う何かは全て更年期障害のせいにしている今日この頃。なんか嫌なことを考え始めてしまったら、記憶の中からちょっといい話を引っ張り出してきて、今の今から現実逃避をしています。
出勤前の犬の散歩中にふと思い出した昔のちょっといい話を書いておきます。
20年前くらいの昔々、元夫と結婚したばかりの頃にロンドンのカムデンタウンに住んでいたことがあります。元夫はロンドンから少し南にある郊外の出身で、ロンドンと言えばカムデンだと言い張り、カムデンに住んでいると友達に言いたいがために、やたらに狭くて間取りも良くない、しかも夜中はクラブになるバーが入っている建物の最上階に部屋を借りました。窓からカムデンタウンの駅が見えましたが、窓辺は鳩のフンだらけで、週末は積もり積もった鳩のフン越しに賑わう街を眺めていました。
このカムデンの駅から北へ向かうバス停の近くに、セインズベリーズというスーパーマーケットがあって、当時の我が家の食料品と生活用品はほぼここで調達していました。このカムデンのセインズベリーズ、今もあるのかどうか最近の事情はわからないけれど、突然記憶の表面に浮かび上がって来ました。
このカムデンのセインズベリーズには、「THE BEST OF LUCK!」(幸運がありますように、と訳しておきます)と大きな声を張り上げながら買い物をする大きな黒人の男性が出没しました。イメージに一番近いのは、ゴースト・ドッグに出ていた頃のフォレスト・ウィテカーです。彼はゆったりとしたペースで店内を歩きながら、店内にいる間中ずっと同じ言葉を同じピッチで繰り返し発声していたのです。叫ぶのとも違うし、唱えるのとも違うし、動詞に迷った挙句、「発声する」が一番近い感じになりました。誰かが彼に話しかけたとしたら、普通に会話ができた人だったと記憶しています。最初は「なんだあのキチガイ」的な意地悪な反応をしていた元夫が、からかうつもりで話し掛けたことがあったような無かったような。私も最初は「なんだあのキチガイ」って思っていたと思います。
結構な頻度であの声を聞いていたので、彼は当時の私と同じように、毎日その日のものをこまめに買い物するタイプの人だったようです。彼の姿が見えなくても、「THE BEST OF LUCK!」(幸運がありますように)が店内に響き渡ると、店内の空気が少し優しくなるような感じさえしました。いつの日か、「THE BEST OF LUCK!」(幸運がありますように)に対して、心の中だけで「あなたにも!」と自分でも唱えるようになりました。
そんな私たちも娘が生まれてカムデンからもう少し北の方へ引っ越し、あのセインズベリーズには行かなくなってしまってしまいました。その後はと言えば、誰も気づかないくらい毎日ほんの少しずつ家庭が崩壊して行って、しばらくは家庭の瓦礫の下に埋もれもがいていたので、あの黒人のことを思い出すことは何年も何年もありませんでした。
早朝の朝日が昇る気配の中で、てけてけ歩く犬の隣を歩く幸せを噛み締めていた時に、あんなに淡々と他人の幸運を祈り歩いていたあの人を思い出し、彼が祈った他人の幸運が巡り巡って彼のところへ届いているといいなと思いました。