呼吸を止める準備は整っていた。
慟哭する準備はできている。
涙を飲み干す呼吸はまだかもしれない。
そんな言葉がなんとなく浮かんだ。
呼吸を止める準備は整っていた。
慟哭する準備はできている。
涙を飲み干す呼吸はまだかもしれない。
そんな言葉がなんとなく浮かんだ。
一昨日、デヴィット・リンチの訃報に関する記事を眼にした。
デヴィット・リンチは「ツイン・ピークス」や「マルホランド・ドライブ」で有名な監督だ。
リンチ作品は、レンタルDVD文化がなくなりつつある事もありまだ鑑賞できていないものもあるのだがツイン・ピークスは一番最初に私が眼にした作品だ。
ローラ・パーマーという田舎で一番の完璧なバービー人形のような少女の死の謎とチェリー・パイ、そして赤い部屋と謎の男ボブ。
ストーリーは難解そうだがリンチ自身は「自分の作品は難解でもない」と語っている。
確かに、ツイン・ピークスの映画を見ればTVシリーズのストーリーもローラは実父から性的虐待を受けていてその傷から非行に走り、ローラが母親に告げ口すると思った父のリーランドが娘を殺してしまいローラの魂は地獄に堕ちた、そういうストーリーなのだ。
マルホランド・ドライブは華やかなハリウッド・ドリームに夢破れた女優が別人格を作り出し、現実に戻った彼女は耐えきれず、死を選んだ。
こう解釈すると非常に簡単だ。
リンチは「ストレイト・ストーリー」のような兄弟に会いに行くために年老いた男が芝刈り機に乗って旅をするという愛と優しさに満ちあふれた実話を元にした作品も制作している。
この映画は特別な装置もなければ、派手な演出もないのだけれど、「病気の兄弟に会いたい」というヘッセの「賢者の贈り者」のような純朴な優しさで満ちている。
延々と連なるトウモロコシ畑が美しい印象を覚えている。
リンチは「イレイザー・ヘッド」のようなカルト作品も世に送り出した。
カート・コベインも大好きだった映画監督、デヴィット・リンチ。
あなたに、最大の敬意と愛を示します。
昨日、一度会って遊んだこともあるSNS上の友人からブロック解除されていた。
元々彼女は忙しくて疎遠になっていたけれど一昨年、年賀状を私から出したのが最期になった。
それでもLINEであけましておめでとうの挨拶を交したし、交流があった時は数回ほど会って一緒に居酒屋で雑談したり映画を見たりした。
友人との別れというもの、というよりSNSの交友関係ほど悩まない人を年層問わず見てきた私は友人のなかには、幼なじみから酷い縁の切り方をされたという相談を受けた友人もいる。
そうならなくてよかったと思うし、好きなものも違っていたのもあると私は思っている。
けれど彼女を恨んだり悲しんだりしていないし、むしろ楽しい思い出だけが残っている事に感謝をしたい。
彼女とは、本や映画の話もたくさんしたし、一緒に古着屋を見たり心残りに悪い印象のない事だけが残っている。
しかし今思うと微妙に遠慮しがちな部分がお互いにあったと思う。
これは悲しみではない。
彼女は当時美術大学に通う大学生だった。
年明けから卒業制作にともない、忙しくなると少し寂しそうに笑っていた。
彼女と親しくなったのは彼女がまだ高校生の時で、きっかけは江森備の「私説三国志 天の華・地の風」の大ファンである私のSNSアカウントをフォローしてくれた事だった。
リプライでやりとりをしていくうちに親しくなり、LINEを交換してからはほぼ毎日、同じ熱中している事の話だけではなく日々の何気ない会話も楽しんだ。
彼女が課題で制作した作品も見せてもらったり美術展に行った時の作品の写真を見せてもらったりもした。
進撃の巨人を私がすすめてからは一緒に熱中し、アニメの感想を交したり彼女がイベントに出たりしたこともあった。
(彼女の本は2作品とも持っている)
だから縁が切れても彼女の進撃の巨人の同人誌が手元にあるし、美しい思い出だけが残っている。
私が同人誌を出した時も手伝ってくれたし、今でも表紙絵と挿絵が本当に美しいと思っているし感謝している。
SNSの人間関係こそリアルよりも狭いけれど、喧嘩別れではなかった事がよかった。
もしそうだったら、わだかまりが残り彼女に対して偏見しか残らなかったかもしれないから。
これからはお互い生きていく道は違くとも、彼女の生きていく道をそっと心の中で応援したいと思っている。
もしかしたら、またいつかどこかで縁が巡ってくるかもしれない。
それは分からないけれど、もしそうであればいいな、と今だけは少し余韻に浸る事を許してほしいと思う。
Oasisの「Stop Crying Your Heart」にこんな歌詞がある。
「僕らもみんな星なんだ
みんな消えていくけど
心配しなくていいんだよ
いつかきっとまた会える」
この歌詞を彼女との美しい交友の思い出に捧げたいと思う。
前述の記事で自分の性格の自己分析を記述したけれど、自分の性格の大半を占めているのはどちらかといえばネカディブ面の方が多いように思う。
特に自責の念は、他人が気にしていないと言っても「傷ついたと言うと気にしてしまうから言っているのだろう」という最低な思考回路に陥る事がある。
「お前のせいだ」という「呪い」の呪縛に縛られ続けてきたせいで、「ああやっぱり自分は失敗したのだ」となりやすい。
沖さやかの「マイナス」という漫画がある。
ストーリーは主人公の恩田さゆりが「嫌われた」と思い込むとどんな手もいとわず暴走してしまうという物語だ。
あそこまでは行き過ぎないが、「嫌われた」と思い込むとどうにしかして相手に謝罪しなければならない、という思考の面では恩田さゆりとは正反対だが変らないところがある。
自己肯定感の低さも、この思考に関しては関係している。
母親に「生まなければよかった」と言われ、「私だって望んでいなかった」と11歳か12歳の頃になると、周囲の世界が灰色になった記憶がある。
この頃から、振り返ると同級生や他の人間に常に怯え、気をつかい「すいません」が口癖になり身を小さくして踏み潰される羽虫のように生きていた気がする。
もちろん長年の友人は「謝罪の頻度の必要性」についてアドバイスをくれたが、それでも癖になっているような気がするのだ。
「自己を省みて、反省をする」という行為ができない人間が世の中には沢山いる。
それに比較すれば、と強迫観念のようになっている気がする。
もうこれ以上、なにをこれについて書けばいいのかわからない…。
このテーマについて、あまり触れたくなかったのだけれどそれではこの日記をはじめた意味がないので書くことにします。
自分の性格を自己分析してしまうと、あまりにも自分の醜悪さに気付いてしまうのが怖いからだ。
それでも、なにかの物事に対して向き合わないよりかはいいと思う。
ポジティブ面
・何か一つの物事に対して集中し、研究できる
・困っている人に手を差し伸べられる
・人を傷つけた時などに自己内省ができる
・読書が好き
・比較的冷静沈着に問題解決に向き合える
・中立的思考ができる
・人のアドバイスを聞ける
・メンタル面が落ちた時に頼れる長年の友人がいる
・父にメンタルの具合が悪いから夕飯の支度ができないと素直に話せる(最近自己発見した)
・音楽に詳しい
ネガティブ面
・常に誰でも良き自分であろうとする
・酷くショックが出来事が起こると、アルコールに過度に走り「自分なんか早く消えてしまえばいい」と自己破滅願望にかられる
・自分なんて、自分なんかという自己肯定感の低い思考になる
・疑心暗鬼にかられると、人を信用できない
・DVをされても「黙っていれば終わるから」と自己防衛の仕方をできなくなる
・常に「自分のせいだ」という思考は謝らなければいけない場面に直面した時謝罪ができない人よりはできる人間の方がいいと思っている
・「自分のせいで誰かに迷惑をかけた」という思考が不当な理由で他人に過度にせめられた時に消えない