名前のない足跡

独り言や思考の日記。

愛というもの 2

2025-01-11 03:07:27 | 日記

「ぽるとがるぶみ」は17世紀のフランスでポルトガルの修道女であるマリアンナに対して彼女を置き去りにしてフランスに帰国した士官のシャミリーに対してマリアンナが書き送った五通の手紙をシャミリーが見せびらかし、嘲笑し、のちに小冊子にされフランス国内で書簡文学としてヒットしたものである。

シャミリーははっきり言ってしまえば、最低な男だ。

幼い頃戦火を逃れるために修道院に預けられ、それ以来俗世と無縁になった神に仕える清純な乙女の心を持て遊び、破壊したのだ。

信用性に欠ける事で有名なサン・シモンにさえ軽蔑されるほどの男とはどれほどのものなのだろう…。

とにかく、マリアンナは彼がポルトガルに滞在中に恋に落ち、シャミリーは彼女の手紙によるとフランスに連れて行き結婚の約束までしたらしい。

最初の手紙の中では、マリアンナはまだシャミリーに対して愛憎が混在し、シャミリーが自分に手紙をくれると信じているのが分かる。

3通目くらいから、マリアンナはだいぶ塞ぎ込んでしまい、修道院長のすすめで散歩をしたりするようになっている。

そしてとうとう5通目では、シャミリーが彼女に愛の証として贈った腕輪などの贈りものと手紙をともに送り「さようなら、さようなら、もう結構です!充分です!さようなら」と結ばれている。

もしシャミリーが誠実な男であれば、この名作は生まれなかったかもしれない。

福島とマリアンナはどちらも振り回され、傷つく恋をしているのに前者は引きずっているが、後者は気持ちに整理をつけているところである。

時代背景や状況が違うと言われればそれまでだがマリアンナは信仰の道に再び見失っていた自分を見いだす事で救われたのだろう。

そこが、ルイ14世の愛妾であったルイーズ・ド・ラヴァリエールと似ているのが面白い。

マリアンナとシャミリーの二人と似たような話といえば、ルイ14世の王弟であったフィリップと彼の愛人のシュヴァリエ・ド・ロレーヌが理由はともあれ修復不可能な痴話喧嘩になった時にシュヴァリエはフィリップに「もう三ヶ月も口をきいてくれない、理由も話してくれないし、私は何をしてもつまらないし、眠れません。いい加減にしてくれないか!」という内容の手紙が実際に残されていて、文字のところどころが涙なのかインクによるにじみなのかは分からないが滲んでいる。

この二人は「Versailles」という歴史ドラマでも時にシリアスに、時にコメディチックにフィクション寄りの描写だが私も大好きなドラマでメインキャラクターである。

歴史的に記録されているシュヴァリエの手紙を何通かに目を通して、「駄目だよシュヴァリエ、すぐに腹を立ててあなたに真摯に向き合わないような男なんて一緒にいても居心地が悪いだけ、早く彼から離れたほうがいい」と何度も共感した。

それでも彼はムッシューに縋り、痛切な気持ちを綴り、訴え時にインクが滲んでしまうほどの心を文字に込めた。

ムッシューはもしかしたらシャミリーがしたようにそんなマリアンナのような心を書き綴った手紙を他の愛人たちに見せびらかして嘲笑したかもしれない。

300年前の男に、私はひどく共感し、共に泣き惹かれてしまう。

勇敢で、無下にされようと一人の男を愛し続け、誰よりも尽くしムッシューの死を正妻よりも悲しんだあなた。

私が元恋人に対し「まあ、せいぜい頑張ってね!」と気持ちに整理をつけられたのはまさしくあなたのおかげなのだ。

いつかシュヴァリエに関する研究本が日本でも出たら買いたいと思う。

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愛というもの

2025-01-11 02:27:52 | 日記

ずっと積読していた福島次郎の「三島由紀夫 剣と寒紅」を読み終わったので、なぜか佐藤春夫の「ぽるとがるぶみ」を読みたくなり急いで注文して一昨日、一日で読み終わってしまった。

どちらも報われない愛について綴られているが、前者が三島由紀夫に対しての「悲哀、愛憎、尊敬、空虚」が感じられるのなら後者は「悲哀・軽蔑」で成りたっている。

「剣と寒紅」の著者である福島次郎は群馬県出身の高校教師をするかたわら文筆業にもたずさわり「バスタオル」「蝶のかたみ」「現車」といった名作がある。

彼は三島由紀夫の愛人であったが、三島は彼に対して瑶子夫人との結婚後は自身が同性愛者である事を恥のように振る舞い、福島は言葉に表せない程傷付いたそうだ。

三島は人間的には不完全でも、小説家・思想家としては一流である。

瑶子夫人も、周囲にも三島が同性愛者である事はとっくに気付かれていたのではないというのは私も福島と全く同じ意見だ。

福島は自身と三島の「破局」について目に見えない何かが二人をすれ違わせてしまったのだろうと分析していた。

福島次郎は、内容が内容だけに遺族に訴訟されてもいるのだがこれだけの心情を本にして出版するのは相当な苦悩があったものだと思う。

ところどころの行間から、「三島さん、死ななくても良かったじゃないですか。同性愛者だと後ろ指をさされても気にしなければよかったじゃないですか。どうしてそんなに周囲を怯えていたんですか」という悲痛な嗚咽が聞こえてくるようだった。

私自身も、苦しい恋を二度も経験している。

福島次郎の晩年を思うと、空虚感にかられる。

あの市ヶ谷の事件と、三島に「捨てられた」という男の悲哀が胸を打つものがある。

三島がもっと自分に素直であれば、福島とも晩年は穏やかに過ごせたのはではいと思ってしまうのは私の勝手だろうか。

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