三哲神社の祭神は千葉秀胤、寛文6年(1666)に大湯より十二所に移り住んだ、
文学、武芸、医術に優れていたため、人々から「三哲さん」と呼ばれていました。
常に領民を苦しめていた城代塩谷民部が病を患ったさい、
報酬として米10石を三哲は城代に要求、それを渋々了承し、三哲の治療を受け完治した、
しかし城代は約束を反故、そこで城代への上納米の10石を奪い、貧しい人たちに施した。
城代は逆恨みして怒り、大滝温泉で入浴中の三哲を襲い補縛、
そのときの傷が原因で、二日後に三哲さん遺骸は蝦夷森にと残し亡くなったのでした。
4年後の延宝4年(1676)、十二所に大火があり町は全焼してしまった。
村人は三哲の霊に大いに恐れ、改めて蝦夷森の中腹に葬り祀った。
そして蝦夷森は、のちに三哲山と呼ばれるようになったという。
そんな由来のある鹿角と大館の境近くの三哲山に行ってきた。
下見に来たとき、地元の人から「クマに気をつ付けろ」と、忠告されたらしい。
それを裏付けるように、ミズナラなどの木には熊棚がいくつも見られた。
頂上より麓の十二所から大滝温泉・大館方面を望む、
雪解け水で増水中の米代川が、ゆったりと流れていた。