里山遊歩

かづの野遊び研究所

晴れた日は、野に、山に、川に、
部屋の中にとじこもっていてはもったいないもったいない。

ダボハゼ

2012-04-06 | 水辺
 
 
池にはもう一つ小さな子どもの相手をしてくれる魚がいた。
頭でっかち寸胴の魚、清んだ水を通して手が届きそうな水底は一面の砂利、その砂利の上に点々といる。
木の枝(のちに駄菓子屋で3本継ぎ竹竿、30円で買ってもらった)に木綿糸を縛り、
小さな石を見つけてオモリにした。
どうしても買わなければならなかったのが鉤だけ、セロハンで鉤の部分を三角に包んである束をそっと開け、
絡まないように1本づつ丁寧に取り出して木綿糸に結ぶ。
それにミミズを小さく切ってつけ、大きめの黒い魚を探してその前に落す、
ススッーと寄ってきては大きな口でさっと飲み込んで簡単に釣れた、
それならと味もなくなったガムを丸めて同じように落とし魚の前で揺らすとひょいと食らい付いてきた。
さらにフナ金鉤はチモトを赤い塗料で固めてあるのでガムの要領を覚えると、空鉤でも釣れるようになった。
子供達の遊び相手だったその魚は、悪食で名を成すダボハゼ、私たちは短くしてダボと呼んでいた。

京浜工業地帯のネガティブポイント「機械船・仙寅」の池は、
日本の高度成長期、砂利採った窪地は逆に都市から出た産業廃棄物で埋めたてられていった。
釣りをするほかときに私たちは池の色が変わり独特な臭気が漂う池に建築廃材を筏に漕ぎ出た。
どんどん狭くなっていくなかゴミの斜面に釣り坐を定め最期まで釣り続けた。
窪地は完全に埋められ、できあがった荒野に建物が建った。南機械船は風呂屋と宅地に、
北機械船は公設市場に、仙虎の池は映画のオープンセットが建てられたあと、問屋街と流通基地となった。
そんな光景もすでに半世紀も前のこと、
東京から川1本越えた地はその時代その時代を反映し姿を変えてきた。
いま国道の両側に、子どもたちが遊んでいた広大な窪地と池があったという面影は何も残っていない。


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