タイ語板  5枚目~!!  

あれってそれってどういう意味があるの? ~ 花札の図柄

あれってそれってどういう意味があるの? ~ 花札の図柄の季節やモチーフ、呼称など
ー ※日本の遊具・カードゲーム内容含み

 
 酒屋の前で茣蓙の上、、 褞袍を着たおっちゃん達が酔いながら

変わった言葉を使って興じていたのを子供ながら見ていたのを思い出しました。。


--                                  カードゲーム เล่นไพ่ /lên phâi  ランプをする,カードで遊ぶ  ※コトバンクプログレッシブ先生作                                         เกมที่เล่นด้วยการ์ด /เกมส์ไพ่ カードゲーム  ※Glosbe先生作
ป๊อกเด้ง /ポックデーン(ป๊อกแปด ป๊อกเก้า/Pok8 Pok9ポッベ・ポッガーオ) 9日回峰が勝つタイで人気があるカブ系トランプゲーム  ※Goo先生作


ーーーーーーーーーーー                                       M:【『花札の鬼の図柄』は何? 】2018年02月06日 ニュースブログ • かるた • 全般 • 囲碁・将棋 • 花札

 皆さんこんにちは。広報のFです。よろしくお願い致します。
中略ー
さてさて、表題にもあります『花札の鬼の図柄は何』という案件です。

まず、花札に鬼の札なんてありました?と思う方もいるかもしれません。
(11月札)のカス札の一枚で、他三枚は柳の図柄に傘を差す着物姿の人の絵などですが、一枚だけ赤と黒の雰囲気の違う札があります。

これは、【鬼札(おにふだ)】と言い、『柳に雷』『化札(ばけふだ)』とも言います。
トランプのジョーカーのような役割で、『雨』以外のどの札にも、合わせる(喰う)ことの出来る万能札です。

この【鬼札】
『何故、他の雨の札と一枚だけ絵柄が違うの?』
『(雷)や(かぶり傘)の絵柄は、どんな意味?』
という疑問がわきます。
これには、花札の歴史が関係してきます。

[仮説①] 江戸時代~明治までの花札の雨のカス札は、【鬼札】は含まず、★【雨の降る柳の絵】と【雨の降る柳と短冊の絵】の二枚でした。

しかし、花札の違う遊び方に、★(ムシ)等の鬼札を特別に使用するする遊び方があり、おそらく他のルールでも使えるようにと、絵柄が変った(ミックスした)のではないでしょうか。
実際、小野道風も明治以降の絵柄で、それより前は斧定九郎でした。
(絵柄が変った理由は、また違いますけどね)

[説②] ★江戸時代、花札は御禁制の品でした。
人の多い江戸の町や、京都・大阪など幕府の目が多い賭場では、取締りが厳しく、地方の賭場に出向き荒稼ぎするプロ博徒が居た事でしょう。

しかし、その地方の賭場にも(しきたり・ルール)があり、それを無視してトラブルに発展する事も容易に想像が付きます。
なのでトラブルが起きないよう、その賭場独特のローカルルールで勝負し、よそ者を排除していた可能性もあります。
その為、地域ごとに絵柄や遊び方に違いがあり、その一つが【鬼札を使用した遊び】になったのかもしれませんね。

[説③] 飛躍した発想ですが、元々花札のルーツは★ポルトガルからやって来た、カードゲーム(南蛮かるた)です。
当然持って来たのはポルトガル人の宣教師や商人や船乗り。
★南蛮商人や船乗り達は、母国から持ち込んだ【カードゲーム(南蛮かるた)】を、航海中だけではなく日本に上陸した後も、夜な夜な手慰みに遊んでいたのかもしれません。

※➊南蛮かるたの他にも、様々な南蛮文化が流入しました。                ➋てんぷらや、➌金平糖、➍カステラ等の【食文化】、➎外科手術などの【南蛮医学】、遠く航海をして教えを広めていた【➏キリスト教】。(もしかすると宣教師達も、夜な夜な?)

ポルトガル人からカードゲームを教わった日本人がどっぷりはまり、広く普及して行きましたが、その後の★キリシタン禁止令により、この南蛮かるたで遊んでいる事自体、南蛮人との関係を疑われ、キリシタンと同一視され弾圧されたのかもしれません。
その取締りの目を盗む為に絵柄を変えたのが、現在の花札の絵柄に繋がっていったのかもしれません。

[説④] 花札の絵柄に江戸時代に中国からもたらされた(★南宋画)の影響を受け、多く用いられていますが、雨にしだれる柳(静)と雷(動)の対比の構図があったのかもしれません。(私は知りませんので、お詳しい方ご教授下さい)

[説⑤] 花札のルールで【表菅原(おもて)】【裏菅原(うらす)】と言う役があります。
これは、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として有名な『★菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』というお芝居から発案されています。

このお芝居は、菅原道真をモデルにした創作ですが、江戸時代の人気演目で、悲劇の偉人・菅原道真をしのぶ人が多かったので出来たのでしょう。
『鬼札』の図案を、この菅原伝授手習鑑つながりで、『雷』=『菅原道真』=『鬼』と推測する方もおられます。

[説⑥] かるたのルーツの一つに【道才かるた】と言う物があります。
このカルタは、★読み札62枚と絵札62枚(内、道才番号8と、20を抜くそうですが、意味が解からず)が一対になっていて、ひとつのことわざを上の句、下の句に分け、上の句を読み札に、下の句を絵札にしてあります。

読み手は、上の句だけの読札で下の句もよまなければならいという、百人一首のような遊びです。
この道才かるたには、(道才番号:30、33、54、61=四化け札)(道才番号:30、33、46、50、54、61=六化け札)という特別な力がある(喰い札)と言います。

さらに、★ことわざの中に、(道才番号30:鬼も十八)と(道才番号:50幽霊の浜風)という札があり、これも特殊な力のある札です。
この道才かるたの(化け札)(鬼)(幽霊)の特殊ルールが、花札の鬼札を使ったローカルルール(喰い)によく似ているらしく、なんらかの影響(なごり)があったのかもしれません。

上記の説のどれが正しいのか、すべて正解なのか、真実は分りませんが、色々と歴史のある物を研究する事は、ワクワクするものですね。
宜しければ、参考にしてみて下さい。
(出展; 大いに参考になりました!  /大石さんに聞いてみよし!『花札の鬼の図柄は何?』
京都大石天狗堂 ⇒https://www.tengudo.jp › ニュースブログ)
 

ーーーーーーーーーーーーー                                       M2:【花札の札・カード一覧 】

 花札を始めたいからまずカードを覚えたい!綺麗なカードだけど何か意味はあるの?このような疑問にお答えします。

この記事でわかること
・花札の札・カード一覧
・花札の札・カードの意味

それでは早速見ていきましょう!

 花札とは
花札は、★安土桃山時代にポルトガル人によって持ち込まれまたカードゲームです。
1月から12月まで★各4枚ずつ存在し、その月の特徴を表した絵が描かれています。
和風な中にも少し洋風味を感じるデザインで、美しいですよね♪
どこにも書いてはいませんが、一枚一枚に名前がついています。
花札を目一杯楽しむには、やはりカードの名前と絵柄を一致させておくことが重要ですので、この記事を暗記用にぜひご活用ください!

 花札の札・カード一覧
それではここから、まずは月ごとに札をご紹介します。
最後にはすべてのカードを一気に見れる画像も用意しておりますので、ぜひ活用くださいね!

1月(睦月):松
※左から「五光(ごこう)」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
  ※図版はHPからご参照ください。以下同じ。
2月(如月):梅
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
3月(弥生):桜
 左から「五光(ごこう)」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
4月(卯月):藤
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
5月(皐月):菖蒲
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
6月(水無月):牡丹
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
7月(文月):萩
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
8月(葉月):芒(すすき)
 左から「五光(ごこう)」、「タネ」、「カス」、「カス」です。
9月(長月):菊
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
10月(神無月):紅葉
 左から「タネ」、「短冊」、「カス」、「カス」です。
11月(霜月):柳
 左から「五光(ごこう)」、「タネ」、「短冊」、「カス」です。
12月(師走):桐
 左から「五光(ごこう)」、「カス」、「カス」、「カス」です。

名前の種類は
・五光(ごこう)
・短冊
・タネ
・カス  の4つです。

短冊には短冊の絵が書いてあったりと、割と覚えやすいのではないでしょうか?
ぜひ絵も楽しみながら覚えてみてくださいね^
(出展; /花札図鑑 はてなブログ⇒https://hanafudazukan.hatenablog.com)

 
ーーーーーーーーー                          M3:【花札の文様  調べたら、深イイ楽しさを知りました 】

1月:松に鶴
「鶴は百年、亀は万年」と言われるように、鶴は昔から長寿の鳥として、松は、1年を通して青く茂る常緑樹から不老長寿を意味します。

2月:梅にうぐいす
★旧暦で春にあたる2月は、梅とうぐいすという春の訪れをあらわす意味と言われています。

3月:桜に幕
正確ないわれは定かではありませんが、9月の菊に盃と桜に幕で「花見で一杯」という役があることから、旧暦で春を象徴する桜に幕を引いて宴会している様子をあらわしていると考えられています。

4月:藤にほととぎす
★古今和歌集に由来されていると考えられている藤とほととぎす。
桜が終わる季節に藤の見頃がやってくる

5月:菖蒲に八ツ橋
5月頃に見頃となる菖蒲。呼び方もアヤメともショウブとも言われますが、この場合はアヤメを指すようです。
さらに、外花に網目模様がない種別を★カキツバタと区別され、その名所が八橋(やつはし)であることが由来となっています。

6月:牡丹に蝶
6月が見頃の花ではなく、あまり6月と関連性がありませんが、★「ぼたもちとおはぎ」と7月の萩を想起させるために、牡丹が使われたという見解もあります。
蝶には長寿の意味もあり、牡丹と蝶は不死不滅のシンボルとして★武士の紋章ともなっている組み合わせです。

7月:萩に猪
★秋の七草の筆頭とされる萩。
それと好対照の猪がなぜ組み合わせられたのかという由来ははっきりしていませんが、★萩の花が猪の寝床とされていた説もあるようです。
また、萩の美しさと猪の荒々しさの★対象美を描いたとされるとも言われています。

8月:芒(すすき)に月
★旧暦の15夜にあたる中秋の名月を表した絵柄が芒に月。
種札には★雁(かり)が描かれていることから、秋の風景をあらわす意味となっています。

9月:菊に盃
★9月9日は「重陽(ちょうよう)の節句」と言われ、9が重なり足すと18偶数で中国では陰数と縁起の悪い数とされてきました。
そのことから、季節の植物(=菊)から生命力をもらうことと、邪気を払うための宴を催したことによって、菊に盃という由来になったようです。

10月:紅葉に鹿
花札で最も有名かもしれませんが、「鹿がそっぽを向いている=シカト」の語源となった札とも言われています。
★新古今和歌集でも紅葉と鹿の歌が読まれていることから、古くから情景として象徴されている組み合わせと言えるでしょう。

11月:柳に小野道風
11月は光札が柳に小野道風ですが、種、短冊、カス札ともに★雨をイメージさせる札とされています。
ただ、★小野道風が書道を諦めていた頃、柳に蛙が飛びつこうとする様から、書道をやり直すきっかけを得たという逸話。

 夏鳥とされる燕(つばめ)。
そして鬼が出るときは雷が鳴るという一見すると梅雨から夏をイメージされる札がそろっているため、なぜ11月にこれらの札を模したのかははっきりとしていないようです。

12月:桐に鳳凰
桐に鳳凰も11月同様に季節感にマッチした花と生き物とは言えません。
ましてや、鳳凰とは中国神話における架空の鳥。
日本でも平等院鳳凰堂に装飾として使われている天から舞い降りる使者的象徴であること。
さらには★「ピンキリ」「これっキリ」といった最終=12月を表現した札であるとも言われています。

花札の意味も深イイですよねー。
季節や風景をイメージさせたものだけではなく、月によっては、ある種トンチをきかせたユーモア交じりの要素もありますね。
お正月や、家族が集まる時に、久しぶりに花札🎴やってみようかな😆🎶

ではでは、本日も最後まで読んで頂きありがとうございます🙇
(出展; /花札の文様調べたら、深イイ楽しさを知りました。
アメーバブログ⇒https://ameblo.jp › bonbonkeitan › entry-12830154179)


ーーーーーーーーーー                         M4:【小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう) とは 】

 ★平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。
参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。官位は正四位下・内蔵頭。

それまでの中国的な書風から脱皮して★和様書道の基礎を築いた人物と評されている。
後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「★三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。

 凡例
小野道風
小野道風(伝頼寿筆、鎌倉時代、三の丸尚蔵館所蔵)
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 寛平6年(894年)
死没 康保3年12月27日(967年2月9日)
官位 正四位下・内蔵頭
主君 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇
氏族 小野氏
父母 父:小野葛絃
兄弟 好古、道風
子 奉時、長範、奉忠、奉明、公時
特記
事項 一説には小野小町の従弟

  ※小野道風公誕生地碑(愛知県春日井市の道風公園)
  ※小野道風(鈴木春信画)

 経歴
小野葛紘が尾張国春日井郡上条(現在の愛知県春日井市松河戸)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。
史実としては確認できない、あくまで伝承の類であるが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていた。

 醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会の屏風の色紙形を書く。
延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年)右兵衛少尉に任ぜられる。
延長3年(925年)少内記となるが、同年に勧修寺で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后・藤原胤子の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢される。
以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく。
延長4年(926年)興福寺の寛建が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われる。のち、醍醐朝では書家として以下の活動がある。

延長5年(927年)2月、大納言・藤原清貫の60歳の賀にあたり、小野忠則とともに金銀泥下絵の色紙に『法華経』『薬師経』などを書く。
延長5年(927年)12月、円珍に智証大師の諡号が贈られた際、諡号の勅書を浄書(智証大師諡号勅書)
延長6年(928年)6月、清涼殿南廂の白壁に漢唐の名君賢君の徳行を揮毫。
延長6年(928年)12月、内裏の屏風六帖に、大江朝綱の漢詩を浄書。なお、この下書が『屏風土代』である。
延長6年(928年)醍醐寺の西大門、東大門の額を揮毫。南大門にも道風の草書があげられたが、得意の草書を選定した醍醐天皇の鑑識眼に対して、道風は「あな、賢王や」と感激している。
延長7年(929年)9月、紫宸殿の障子の賢臣像の銘を書き改める

朱雀朝では従五位下に叙爵され、内蔵権助や右衛門佐を務めた。朱雀朝での活動には以下がある。
承平2年(932年)11月、大嘗祭において屏風の色紙型を揮毫[8]
承平3年(933年)8月、康子内親王の裳着で屏風の色紙形を揮毫
天慶2年(939年)11月、『慈覚大師伝』を書写
天慶5年(942年) 4月、醍醐寺釈迦堂の門額を揮毫

村上朝に入ると、天慶9年(946年)★右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風は贖銅2斤の刑に処される。さらに、翌天暦元年(947年)には★障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に参加しなかったため解官の憂き目に遭った。その後は以下の活動を行っている。

天暦3年(949年)11月、屏風の色紙形に『坤元録』の屏風詩20首を書く
天暦7年(953年)8月、朱雀院御周忌の一切供養に際して『目録之外廿六巻』を分担執筆
天暦8年(954年)8月、文章博士・橘直幹の民部大輔を兼任を請う申文を清書
天徳元年(957年)右大臣・藤原師輔の大饗において屏風の色紙形を書く

天徳2年(958年)正月に道風は山城守への任官、あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じる。
その願いは叶わなかった一方で、その文章は平安時代の代表的な詩文集を集めた『本朝文粋』に収められている。
同年3月に新たに乾元大宝が鋳造されることになったが、★眼病(老人性白内障か)の進行により細字を書くことが困難になっていたため、銭文の土代(字様)を書くことができなかった。

しかし、第一の能書としての評判は変わらず、翌天徳3年(959年)5月に藻壁門の額字を揮毫。さらに、8月に清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを望む。そこで、左方は勅令により道風が清書し、右方は右兵衛督・源延光の邸宅に強引に連れ込まれて酒でもてなされたあげく道風が清書させられている。
しかしこの時の清書も「能書之妙」「義之再生」と絶賛された。

天徳4年(960年)9月に内裏が火災によって焼亡する。 村上天皇は道風が書いた橘直幹の申文を★大切にしており、この火災においても「直幹が申文は取り出でたりや」と発言したという。
まもなく内裏再建計画が立てられ、道風は木土頭の官職にあったものの、健康不良により急遽発生した激務には耐えられず、10月初旬には内蔵権頭に遷った。
応和元年(961年)再建された内裏の承明門額や殿舎の額を揮毫している。

康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。

 人物
★能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。
『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。
没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

 空海筆の額字について「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したという。これは、空海が筆力・筆勢を重んじたのに対して、道風は字形の整斉・調和を重要視したという書に対する姿勢の違いや、道風の書が天皇や貴族に愛好され、尊重していた自負によるものと想定される。

晩年は健康を壊して随分と苦しんだ。★中風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。
その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「★道風のふるい筆」といっている。

勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている。

 主な作品
道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その★筆跡を「野跡」という。 醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。

真跡
『智証大師諡号勅書』(東京国立博物館蔵、国宝)
『屏風土代』(部分、三の丸尚蔵館蔵)
『玉泉帖』(巻頭部分、三の丸尚蔵館蔵)

三体白氏詩巻 - (国宝) 正木美術館蔵
 白氏文集を楷行草の各書体で揮毫したもので、八紙を一巻として、巻第五十三の詩六首分が現存する。
ちょうど二首分ずつ、楷・行・草の順に調巻されるが、享禄二年(1529年)の伏見宮貞敦親王の識語によれば、当時すでに、楷書二首、行書二首、草書二首という現在の形であったことが分かる。

智証大師諡号勅書 - (国宝)東京国立博物館蔵
寛平3年(891年)、少僧都法眼和尚位で寂した延暦寺第5世座主円珍が、36年後の延長5年(927年)、法印大和尚位を賜り、「智証大師」と諡されたときの勅書である。文は式部大輔藤原博文の撰、道風34歳の書で、藍の檀紙に行草を交えて太い弾力性のある文字である。

屏風土代 - 三の丸尚蔵館蔵
土代とは「下書き」の意で、内裏に飾る屏風に揮毫する漢詩の下書きである。
延長6年(928年)11月、道風が勅命を奉じて宮中の屏風に書いたときの下書きで、大江朝綱が作った律詩八首と絶句三首が書かれている。
署名はないがその奥書きに、平安時代末期の能書家で鑑識に長じていた藤原定信が、道風35歳の書であることを考証しているので、真跡として確実である。巻子本の行書の詩巻で、料紙は楮紙である。処々に細字を傍書しているのは、その字体を工夫して様々に改めたことを示している。書風は豊麗で温和荘重、筆力が漲り悠揚としている。

玉泉帖(ぎょくせんじょう) - 三の丸尚蔵館蔵
白氏文集の詩を道風が興に乗じて書いた巻子本で、巻首が「玉泉南澗花奇怪」の句で始まるのでこの名がある。楷行草を取り混ぜ、文字も大小肥痩で変化に富む。

絹地切 - 東京国立博物館ほか分蔵

 伝承筆者
古来、道風を伝承筆者とするが、疑問視されているもの
継色紙(つぎしきし) - 東京国立博物館蔵
寸松庵色紙(伝紀貫之筆)、升色紙(伝藤原行成筆)とともに★三色紙といわれ、仮名古筆中でも最高のものといわれる。色紙型の料紙二葉を継ぎ合わせたものに、古歌一首を散らし書きしたのでこの名がある。
紫、藍、赭(赤色)、緑などに染めた鳥の子紙に、白もまじえた粘葉本の断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。

秋萩帖 - (国宝)東京国立博物館蔵
「安幾破起乃(あきはぎの)…」の書き出しによりこの名がある。草仮名随一の名品であり、平仮名へ変遷する過渡期のものとして大変貴重である。10世紀末頃の作とされている。

本阿弥切
愛知切
綾地切
小嶋切
大内切
八幡切

その他
集古浪華帖 (道風の消息を集めて、木版で模刻刊行したもの)

 逸話
 小野道風と蛙
道風が、自分の才能が足りないことを悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。
ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。

道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。
道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。
ただし、この逸話は史実かどうか不明で、★広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる。
その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった。

この逸話は多くの絵画の題材とされ、★花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としている。
また現在では東名高速道路・名古屋第二環状自動車道上での春日井市のカントリーサインの絵柄にこの絵が採用されている。

 旧跡
 神社
道風を祭神として祀る神社がいくつか存在する。
小野道風神社 - 滋賀県大津市にある神社。
道風神社 - 京都市北区にある神社。

 官歴
 中圭子「小野道風」による。
延喜20年(920年) 5月5日:非蔵人、昇殿
時期不詳:正七位下
延喜21年(921年) 3月13日:右兵衛少尉
時期不詳:正七位上
延長3年(925年) 8月:少内記
時期不詳:従五位下
天慶2年(939年) 日付不詳:内蔵権助
天慶4年(941年) 3月28日:右衛門佐?[19]
時期不詳:従五位上
天慶9年(946年) 8月7日:贖銅2斤[20]
時期不詳:次侍従
天暦元年(947年) 12月20日:解却[21]
天徳元年(957年) 正月18日:見木工頭
天徳2年(958年) 正月11日:見従四位下[22]
天徳4年(960年) 日付不詳:正四位下。10月9日:内蔵権頭
康保3年(966年) 12月27日[注 6]:卒去(正四位下行内蔵権頭)

 系譜
父:小野葛絃
母:尾張国の里女
生母不詳の子女
男子:小野奉時
男子:小野長範
男子:小野奉忠
男子:小野奉明
男子:小野公時

 登場作品
 テレビドラマ
『風と雲と虹と』(1976年、NHK大河ドラマ、演:小池朝雄)
(出展; /Wiki)


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M5;【花札 】とは

 日本のかるたの一種。 別名:花かるた、花がるた、花めくり。
一般に花札といえば八々花(はちはちはな)のことを指し、一組48枚に12か月折々の花や草木が4枚ずつ描かれ、花鳥風月が表現されている。

古くは「武蔵野」「花骨牌(はなかるた)」「花牌(はなふだ)」「花符(はなあわせ)」「花軍(はないくさ)」「花競(はなくらべ゜)」「花合戦(はながっせん)」「闘花(とうか)」とも表記され、「菅原」「弄花(ろうか)」「さしえん」「しば」「だめ」「相撲取り板」「かき餅焼き」「屋根板」「夜会」と隠語で呼ばれていた。

48枚というカード構成は、★ポルトガルのトランプが伝来した名残である。
2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせという遊び方が一般的で、広く海外へも伝播する。
★100種類以上の遊技法が確認されており、愛好家には多人数で遊べる遠州花や八八の評価が高い。

 歴史としては、日本に➎カードゲームが初めて伝播したのは★16世紀後半(室町時代末期)で、★南蛮貿易を契機にポルトガル人によって、➊鉄砲や ➋キリスト教、➌カステラ、➍タバコ等と共に齎された。
「カルタ(歌留多,加留多,骨牌)」とは、ポルトガル語でカードを意味する外来語で、札を裏貼りする製造法やゲームの進行が反時計回りなのも、この頃の名残である。
★天正年間(1573〜1591年)にカルタは国産化され、当時の天正かるたが1枚だけ現存し、兵庫県にある滴翠美術館に所蔵されている。

カルタを用いる賭博行為は、江戸時代を通じて一貫して禁止されていたが、それでも一向に減らないため、★安永年間(1772〜1781年)に江戸幕府が小売店や製造元を一斉摘発したことで、以降は公然とは売買ができなくなった。
一方、百人一首などの歌かるたは教育的なものとして公許されており、花かるたは★禁制からの抜け道として、一部のカス札に古歌を入れて歌かるたに偽装、メクリかるたの代用品として、遅くとも寛政年間(1789〜1801年)までには、★京都の山口屋儀助(井上家春)により「武蔵野」という名称で商品化され、江戸を中心とする武蔵国へ供給された。

4スート(種)×12枚であったメクリかるたを、花かるたでは12スート(月)×4枚にして数字を隠してしまったわけで、メクリかるたの遊技法をそのまま踏襲することができた。
様々なローカルルールが生み出され、製造元の物流事情により★「地方札」が誕生した。

1807年(文化4年)12月に山形の幕府領内で出された御触書に「花かるたを使用して博奕をしてはならない」とある。
1819年(文政2年)の大坂の濵松歌國の雑記に「當春、花合停止、武蔵野ともいふ歌留多也」とある。
1831年(天保2年)2月に「花かるたは、メクリ札と紛らわしき品なので購入せぬこと」品川宿や新吉原遊廓の名主に通達が出される。

1842年(天保13年)12月に京都で出された御触書に「お正月の婦女子の慰と言いながら、 花合せを賭け事に使用せぬこと」とある。
1844年(弘化元年)に名古屋で出された御触書には「近頃、花合などと呼ばれるカルタを売り出し、賭け事ができると聞いている。 今後は百人一首を除き、花合などと呼ばれるカルタは一切売り出さぬこと」とある。
1860年(万延元年)11月、福井でも花合せの販売が禁止されている。

1881年(明治14年)12月31日までは、花かるたの売買は勿論のこと、★所持することすら法律で禁止されていたが、1882年(明治15年)1月1日に施行された★刑法典には明記されなくなった。
1883年(明治16年)に大坂の虎屋万壽堂が新聞広告を出して「四季の花合せ」を販売した。

1885年(明治18年)11月15日 大阪の書肆・綿屋(わたや)の当主・前田喜兵衛は、12月25日に内務省へ届け出ることで、★東京京橋に「八八屋花戦堂」を開店して花かるたを販売した。
以降、花かるたの製造販売が事実上の解禁となる。
1890年(明治23年)には、トランプのダブルバック(裏面の色違い)から着想を得て、★赤(茶)裏貼りのタイプも作られるようになった。

1902年(明治35年)4月5日に★骨牌税が制定されると、骨牌一組につき一律20銭(現在の価値で約620円)の収入印紙を製造業者に事前購入させ、商品に添付するよう義務付けた。
1957年(昭和32年)6月14日、骨牌税法を全文改正した★トランプ類税法が施行された。
1985年(昭和60年)のトランプ類税による税収は約10億円。このトランプ類税は、★1989年(平成元年)4月1日からの消費税導入に伴う間接税の整理により廃止となり、製造許可制度もなくなったため、誰でも自由に花かるたを製造販売することが可能となり、様々なキャラクターを用いたデザインの花かるたが販売されることとなった。

1902年(明治35年)に京都商業会議所が発行した『商報 135号』によると、この当時の一年の平均産出高は250万個で、主に裏張りは女性の内職になっており1500人が従事している。
主税局統計年報告書の骨牌製造組数を比較すると、1923年(大正12年)がピークで、昭和時代に入ると右肩下りで衰退していくのがわかる。
1954年(昭和29年)発行の『京都市の産業 : 京都市産業実態調査報告 第3輯』には骨牌業界について報告されている。

1957年(昭和32年)に総理府大臣官房審議室が出版した『娯楽に関する世論調査』では、「花札をどの程度やっているか?」という質問に対して、「よくやる」が2%、「たまにやる」が7%である。
1965年(昭和40年)発行の『京都府産業の展望』によると、全国で生産されるカルタは約300万個で、全国の製造業者はトランプのみが5社、花札のみが5社、両方が2社の計12社、そのうち★京都市所在が10社で、全体の95%以上を占めている。

『京都市の経済 1965』によると、花札、トランプ、麻雀の製造メーカーは、京都に9社あって従業員千名、年間生産高は42億円。 そのうち花札の年間生産高は15億円で、花札製造メーカーの企業数は7社、印刷と裏貼り工程は外注である。
『京都市の経済 1968』には、花札の生産高は年間6億円の352万組。京都が花札生産の全国に占める割合は100%と独占状態であった。

任天堂の1960年(昭和35年)の売上高は3億8700万円、事業内容はトランプ68%、花札32%だったが、1979年(昭和54年)8月期の売り上げ構成を見ると、花札・トランプ類は、わずか5%で7億円強、その比重はかなり小さくなっている。

1950年(昭和25年)までには表紙の機械印刷が浸透して、★合羽摺り(ステンシル)による製法は完全に途絶えていた。
1975年(昭和50年)に京都の松井天狗堂が手摺りによる製造を復活させたが、2016年(平成26年)12月5日に三代目当主・松井重夫が死去したことで再び途絶えた。
2020年(令和2年)に京都府長岡京市にある鈴木天狗堂が、手摺り花かるたを復活させてネット販売した。
2024年(令和6年)、兵庫県芦屋市に住むスウェーデン人デザイナーのマルクス・リケルト(リケルトかるた)が、手摺り花かるたを製造販売している。

現在、花かるたを製造販売している企業としては、➊大石天狗堂、❷任天堂、❸田村将軍堂、➍エンゼルプレイングカードがある。
ダイソーやセリアといった100円ショップでも廉価版が販売されている。

明治時代の警察当局は、花かるたが賭博用具であることから「花札」と★蔑称で呼んでいた。
製造元の広告や価格表では「花かるた」と表記されていたが、「花札」という呼称に侮蔑的な意味合いが込められていたという認識は次第に薄れ、昭和時代になると書名でも「花札」という名称が使われ始める。
現代では製造元の大石天狗堂や任天堂のサイトでも「花札」と表記しており、一般名詞となっている。
それでも、ヤクザや賭博との結びつきがイメージされることから、修学旅行に生徒がトランプを持参して遊ぶことは許可されても、花札は禁止するといった慣習が残っている。

明治時代に八々花の図柄が確定して以降、製造元でも新機軸を打ち出すことは少ないが、2003年(平成15年)には任天堂がクラブニンテンドーのポイントのグッズ交換用景品として、自社のビデオゲームに登場するキャラクター「マリオ」をあしらった「マリオ花札(非売品)」を製造した。
2015年(平成27年)11月には、景品版とは異なる全ての札がオリジナル柄の「マリオ花札」が商品化された。

 種類として、日本各地には以下のような花札がある。
八々花
江戸時代や明治時代の人々は、「武蔵野」の柳に描かれた妖怪・雨降小僧を『仮名手本忠臣蔵・五段目』に登場する盗賊・斧定九郎と認識していたため、1886年(明治19年)、花かるたを合法的な商品として一般販売しようと目論む前田喜兵衛が、イメージアップを図るため、京都や大阪の製造元に掛け合って、斧定九郎から平安貴族で能書家・小野道風へと図柄を差し替えた。

メクリカルタの偽装品であることを隠すため「武蔵野」には鬼札が付属されていなかったが、地域によっては柳の札を鬼札や化札として遊んでおり、次第に柳のカス札が赤色に着色されるようになった。
それで「八々花」では、柳のカス札に大津絵をモデルに「雷太鼓に鬼の手」を採用して、赤色で塗り潰した。

田中商會では「武蔵野」と区別するために「道風花」と呼んでいた。
初期の段階では銀彩入りの「金入花」と呼ばれるタイプもあったが、シンプルなデザインが普及一般化した。
明治時代に大流行した技法「八十八」を、関西では「八々」、関東では「横浜花」「吟味花」「綿羊花(らしゃめんばな)」と呼んでおり、この「八十八」を遊ぶための商品として「八々花」は、急速に全国へと波及した。
1890年(明治23年)頃から赤(茶)裏貼りのタイプが発売されるようになった。

 虫花
大阪を中心に遊ばれる「むし」という技法では、牡丹(6月)・萩(7月)の札を使用しないため、総数の札の厚さは48枚と合致させつつ「むし」専用札として製造された。
臼井日月堂では株札と虫花のデザインをミックスした「開化むし札」販売していたことがある。
古来、カルタ遊びのことを隠語で「虫」と呼んでいたことから、40枚の花かるたを「大阪虫」、48枚の花かるたを「京虫」というように区別されていたことがあり、最終的に「虫」が40枚の花かるたを使った技法を意味するようになったと考えられる。
「八々花」と差別化するため、鶯が小さく、鹿が前脚を曲げているなど「武蔵野」の図柄が採用されている。現在では絶版となり、流通品を残すのみ。

 越後花
新潟県で使用された。
「武蔵野」に金銀彩を施した豪華版で、歌かるたに偽装するために一部のカス札には古歌が記されており、柳の光札は妖怪の雨降り小僧(江戸時代の人たちは斧定九郎として認識)である。
あまめはぎが描かれた鬼札が付属する。
菊のカス札にある「本四枚」とは、芯紙3枚と表紙1枚を貼り合わせて作られていることを意味する。

新潟県で製造されていたわけではなく、★京都から供給されていた。
「金画花」とも呼ばれ、「北海花」や「備前花」の祖型にあたる。
 主に「大役」「小役」という技法で遊ばれたが、★「小役」の遊び方は記録が残されていないこともあり不明である。
現在では大石天狗堂から復刻版が販売されている。
1890年(明治23年)頃から赤(茶)裏貼りのタイプが発売されるようにな次第になった。

 越後小花
新潟県の上越地方および佐渡地方で使用された。
一般的なサイズより★小さく、柳の光札には蓑笠を被った★妖怪・雨降小僧が描かれており、狸の尻尾が見えている。
芒のカスの1枚には小さな月が描かれ、桐にも短冊の札があり、あまめはぎが描かれた鬼札が3枚あるのが特徴。
新潟県で製造されていたわけではなく、京都から供給されていた。

 オランダロッテルダムの博物館に収蔵されている江戸時代に製造された現存最古の「越後小花」は、越後花同様の古歌が記されており、鬼札は1枚のみ。どのような遊び方だったのかは不明。昭和後期(1970年頃)までは大石天狗堂や任天堂で製造しており、得意先は上越や糸魚川の色町の芸者衆であったと伝承されている。現在では大石天狗堂から復刻版が販売されている。

 北海花
北海道で使用された。
「金画花」とも呼ばれる。
明治時代に屯田兵として全国から北海道へ人々が集まったため、出身地によって札の月順が異なる不都合が生じていた。 その問題を解消するため、「越後花」の図柄をベースに月数を丸印で入れることで対処した。
札に月数を入れるスペースの関係で★鶴の首が短くなり、鹿の脚が真っ直ぐになるなどの特徴が見られる。

また、短冊札にも月数が書き込まれている。
北海道で製造されていたわけではなく、★京都から供給されていたが、「八々花」の普及により、★昭和初期の時点で絶版となっている。
1920年(大正9年)発行の赤田猩々屋の『御注文便覧』、1928年(昭和3年)発行の任天堂の『かるた原価表』に掲載されている。大石天狗堂が製造した札が現存する。

 備前花
岡山県を中心に中国地方で使用された。「金画花」とも呼ばれ、「北海花」から古歌を排除したもの。
岡山県で製造されていたわけではなく、京都から供給されていたが、★現在では絶版。
1926年(昭和2年)発行の田中商會の『かるた大卸値段表』、1928年(昭和3年)発行の赤田猩々屋の『かるた卸売原価表』、1930年(昭和5年)発行の任天堂の『かるた原価表』に掲載されている。
岡山県浅口郡玉島(現・倉敷市)の榮玉堂が京都の田中商會に製造させた札が現存する。

 越前花
つちや書店の『花札を初めてやる人の本』『マンガで覚える 図解 花札の基本』『イラストでまるわかり!花札であそぼう!!』では、まるで「越前花」が存在したかのように書かれており、その根拠は、1920年(大正9年)発行の赤田猩々屋の『御注文便覧』に「越前花」と記載されているからであろうが、これは★「備前花」の誤植であって実在しない。

 松引花
「武蔵野」の図柄をベースに古歌を排して、松と芒、梅と桜を区別できるように、赤や青の横線が複数引かれている。
柳のカス札が赤色で塗りつぶされているが雷太鼓ではない。
金銀彩の入った「備前花」をより簡素にしたタイプ。
1926年(昭和2年)発行の田中商會の『かるた大卸値段表』に掲載されている。
★昭和初期の時点で絶版となっている。田中玉水堂が製造した札が現存する。

 阿波花/金時花
徳島北東部が発祥地であることから「阿波花」と呼ばれ、★金太郎の札があることから「金時花」とも呼ばれる。
1886年(明治19年)以降に、★阿波市の坂東笑和堂が製造して、四国、中国地方を中心に流通していたが、坂東笑和堂の廃業に伴い京都の製造元が製造するようになった。

基本的な図柄は「北海花」を模倣しつつ、短冊札と素札(カス札)に月数を入れ、札が識別しやすいように、松と芒のカス札だけに古歌が残された。
鶴は左向き、桜の幔幕には菊の紋章が描かれ、柳の光札は「八々花」を真似て小野道風を採用している。
山城與三郎商店が明治初期に製造していたメクリカルタの「赤八」には、金太郎の図柄の鬼札が付属しており、坂東笑和堂がそれを真似て採用したと考えられる。
現在では大石天狗堂から復刻版が販売されている。

 山形花/奥州花
山形県を中心に東北地方で使用され、江戸時代から★山形で製造されていた。「越後小花」と同様、桐のカスの1枚に短冊が描かれ、芒のカス札の一枚には小さな月が描かれており、5点の短冊札とする「秋田花(あきたばな)」という技法で遊ばれた。
また2枚あるカス札のうち1枚には黒点が打たれ、メクリカルタのオウルのスートであることを暗示している。
ぽっちゃりとした彩色が特徴。 山形市の製造元の廃業に伴い、京都で製造するようになったが、現在では絶版。

 花巻花/南部花
岩手県を中心とする東北地方で使用され、★寛政年間(1789〜1801年)までには花巻で製造されていた。
「奥州花」と同系統で、骨擦りは「武蔵野」を忠実に再現しているが、芒の満月そのものを赤く着色するなどの特徴を持つ。
鶴田屋が製造した豪華な金彩を施した「金入花巻花」も販売され、芒のカス札の一枚には小さな月が描かれていることから、この札は短冊扱いだった可能性が考えられる。
花巻市の製造者の廃業に伴い、京都の任天堂で製造するようになったが、現在では絶版。

 敷島花札
1922年(大正11年)に日本骨牌製造が売り出した八々花と株札とメクリカルタの札のデザインをミックスさせたオリジナル。現在では絶版。

 金入花/惣金花
昭和初期に日本骨牌製造が製造した八々花に金銀彩を施した豪華版花かるた。柳は小野道風。現在では絶版。

 小花/豆花/豆型八々花/懐中花/道中花
携帯しやすいように小型化した花札。

 薄手花/薄口花/東京花
手の小さい女性でも扱いやすいように薄く作られた花かるた。
東京の花柳界で使用されていたが、現在では絶版。

 十三月花/十四月花/七々花
4人でも遊びやすいように札の枚数を増やした花かるた。
十三月は笹、十四月には蓮が描かれている。
特注により、松井天狗堂で製造されたが、現在では絶版。

 外国に伝播した花札もある。
 大連花
元々は明治時代に大阪の製造元が作っていた「鱗花」と呼ばれていたもので、赤短は「青海波」、くさは「射線」、青短は「三崩し」の背景模様が特徴。
国内で大量に★売れ残っていた関係で、日本から★満洲国の大連や奉天へ輸出された。 在住邦人に使用され、満洲国では骨牌税が免税だったこともあり、日本へのお土産品としても重宝がられた。

初期のタイプは柳の短冊にも背景模様が描かれていたが、租界地用として製造されるようになると、柳の短冊札からは背景模様が消えた。
租界地から内地へ持ち帰った場合には、税関による許可印(横浜、神戸、門司など、通過させた税関、左から昭和年、月、日の順)が押された。
大石天狗堂や任天堂では、手摺りから機械印刷への切り替わり時期ということもあり、2つのタイプが現存する。

大石天狗堂の機械印刷の草短の斜線が左上から右下へと逆に変更されている。 満洲国で製造されていたわけではなく、京都や大阪の製造元から供給されていたが、現在では絶版。製造元や供給地においても「大連花」とは誰も呼んでおらず、後世に研究者がつけた呼称であり、大連に限定して供給されていたわけでもないので適切な呼称とは言えない。

 花闘(ファトゥ:화투)
日本から朝鮮半島へ李氏朝鮮末期に伝えられた花札。
現在はプラスチック製で、商標が桐ではなく、薄の光札(20点札)の満月内に書かれている(メーカーによる)、★藤の札が逆向きになっている(これもメーカーによる)といった細かい違いがある。
赤短には「紅短(ホンダン、홍단 / 紅短 / hongdan)」・青短には「青短(チョンダン、청단 / 靑短 / cheongdan)」という字がそれぞれハングルで書かれている。

光札には漢字で「光」と書かれた赤い丸印が入っている。
また桐を11月、柳(雨)を12月とみなす。
ほかにパックの中に柳のカス札の予備や、ジョーカーに似た特殊なカス札がはいっていることがあるが、実際のゲームには使わないことも多い。
特殊なカス札は、手札やめくり札の中に出てきたら、それを自分の取った札に追加して(カス2枚または3枚に相当する)、山からもう一枚引くことができる。

日本では伝統的なカードゲームといった地位に落ち着いた印象だが、韓国では現在でも「3人集まれば必ず花札をする」と言われるほど★人気があり、「国民ゲーム」と称されるほどであるが、戦後、韓国で花札賭博が横行し社会問題になった。
こいこいを元にした「★ゴーストップ」がもっとも盛んであるが、ほかに「六百間」や、おいちょかぶ系統の「ソッタ」なども行われる。
韓国の他、延辺朝鮮族自治州などの朝鮮系住民の間でも行われているが、★北朝鮮では禁止されているという。

 サクラ(ハワイの花札)
各札の点数や、どの役に使えるかを示すインデックスが札の上に書かれていることがある。
ハワイでは短冊が10点・日本で通常10点とする札が逆に5点になる。
また、柳に小野道風の札も5点と数える。カス札は0点である。ハワイの花合わせは「さくら」と呼ばれ(肥後花とも)、不如帰・八橋・猪(クサと同じ月の5点札)のように見慣れない出来役がある。

 パラオの花札
パラオ共和国では、花札が盛んにプレイされており、「Hanakuda(ハナクダ)」とも呼ばれている。
「梅に鶯」は光札、「黄桐」は種として扱う。
「ニソロ」「アサヒ」など独自の出来役がある。
2 - 4人でプレイでき、4人の時は2対2のチーム戦で遊ばれている。

 花札トランプ
花札、株札(10月までを使用)、トランプのいずれにも使えるもの。
任天堂はじめ複数の業者が製造している。
ユニバーサルトランプが製造した「雪入花トランプ」では、13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪[注釈 1]の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札が付属する。
花札従来の264点に36点が追加されるため、総計300点となり、一人当たりの基準点は100点となる。
製造元によっては、キングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。花札、株札、麻雀、トランプに対応した「ALMIGHTY (オールマイティ)」という商品もある。

 植物と月数の対応
めくり系のゲームでは、植物と月数の対応に関する知識は必要ないが、おいちょかぶを花札を使って遊ぶ場合には、月数を覚えていないとプレイできない。
植物と月数との対応は旧暦によるものだが、「柳に燕」や「桐」のように季節と一致しない札がある。

技法によっては、上記の構成の表とは異なる対応になっているものがある。
例えば、ひよこでは、柳が2月、桐が6月、牡丹が11月、梅が12月である。
これは★中京地方において一般的な対応であった。
臼井日月堂・当主の臼井茂助が考案しした「開化むし札」は、虫花と株札が融合しており、桐が6月、柳が7月になっている。
ただ一部の地域では、この6月と7月が逆に認識されていたりする。

 絵柄に関する注釈
^ 江戸時代中期の花かるたの短冊は、紐で枝や茎などにぶら下げられた構図で、青短冊は青(紺)だが赤短冊は白っぽい(太陽・幕の一部・盃や植物の赤色はそのまま残っている)もので文字は書かれていなかった。
明治初期に桜の短冊に「みよしの」と書かれたものが現れ、松や梅が「宇良す(うらす)」、立三本の役が成り立つ月(藤・杜若・萩)の短冊に「たてさん」、すべての短冊に「〇月(1月は正月)」表記など、様々なパターンが存在した。
また明治時代中期ごろから紐が省略され、短冊が宙に浮いた様な現在の構図になった。

^ 現在の札は「松の隙間から鶴が見える」だが、現存最古の江戸時代中期の札では「松の手前に鶴がいる」という構図だった。
^ a b 「あかよろし」と書かれている。(★「の」のように見える2文字目は「可」の草書体、いわゆる変体仮名の「か」()である。)「赤はまあ良い」という意味。
^ 江戸時代中期では鶯の札のみ紅梅で後は白っぽい花だった。
^ 現在の花札ではこの鳥の背中側の体色が鮮やかな緑でメジロに似ている(ただし目は赤い)ものが多いが、江戸時代中期の花札ではかなり鈍い色(杜若や桐の葉よりも黒っぽい)で実際のウグイスに近い色だった。明治24年以前には現在のカラーリングのものが出現している。
^ 「みよしの」と書かれている。古くから桜の名所とされた、★奈良県吉野地方の美称である。
^ ★黒豆(くろまめ)や黒飯(くろまんま)とも言う。ただし江戸時代中期の頃はかなり淡い花の色で後期頃から色が濃くなってくる。
^ 江戸時代中期の花札では背景が無く★藤の花とホトトギスのみだった。その後、明治前期に赤い雲が現れるようになり、八々花の成立に伴い「赤い三日月」が出現するようになった。
^ 八橋とは★愛知県知立市にある地名である。構図は杜若の名所で知られる★無量寿寺の庭園に因み、★在原業平の和歌でも有名である。この札のことを菖蒲と書いた書籍が多く、すっかり★杜若と菖蒲が混同されているが、正しくは杜若である。
^ 江戸時代中期の頃は得点札は白牡丹、カス札は紅牡丹のものと紅白2本という構図だった。
^ ★赤豆(あかまめ)/赤飯(あかまんま)とも言う。ただし江戸時代中期の頃はかなり淡い花の色で後期頃から色が濃くなってくる。
^ 「薄」とも書く。坊主(ぼうず)、山(やま)とも言う。 現在のものは芒の丘ようになっているが、初期図柄は、芒の原が描かれており、これが★武蔵野を象徴するイメージと重なった。樹木のないハゲ山を坊主山と言ったことから「坊主」と呼ばれるようになった。
^ 現在のものは「真っ赤な夜空」というものが主流だが江戸時代中期の頃はほぼ紙の地色で月に色を塗ってあるだけだった。 ★「無地or薄青(初期)→黄色or薄紅(幕末)→真っ赤(明治)」と変化した。 木版合羽刷り時代は、白は印刷しない部分の色なので木版合羽刷りでは周囲を塗ってそこだけ残すのが難しかったため、下か左端の裾が隠れた月だった。
^ 江戸時代と現在は3羽の雁が「く」の字に飛んでいるが、明治20年代頃の一時期漢数字の「三」のように並列に並び空を覆いつくすように飛ぶ姿に描かれ、このため雁は大きな鳥とみなされ、★鶴と鳳凰の札の3枚で「大鳥」という役があった。
^ 江戸時代中期の頃はカス札の1枚(赤菊)以外白菊だった、江戸時代後期頃から黄赤の花のものが現れてくる。
^ 無視したりすることを意味する隠語の「しかと」は、★10月の札の鹿がそっぽを向いているので、「鹿十」(しかとお)が語源である。
^ 雨(あめ)とも言う。
^ 「柳に番傘をさして走る奴」は★元々は妖怪であったが、江戸時代の人たちは『仮名手本忠臣蔵・五段目』に登場する「斧定九郎」と認識していた。
^ 現在は「黄色に赤」と派手な色の燕になっているが、江戸時代中期の頃は普通の燕の色(黒で喉が赤い)だった。
^ この札のみ他の雨札とデザインが大きく異なるが、★江戸時代から明治初期にかけては他のカス札同様に「柳の木だけ描かれている」という札であった。鬼札として機能させるため、べったりと赤で塗り潰されるようになり、八々花では大津絵の「雷光の太鼓釣り」の図像が採用された。
^ 桐のカス札のうち1枚にはよく★製造元が印刷されている(例:任天堂など)。桐のカス札の1枚は色違いとなっており、技法によっては特別な点数を持つ。
 ※※「構成」などは重複するので中略 (出展;/Wiki)


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M6;【】(出展;/)
 《参考動画のURL;/ Youtube👉》


ーーー                                         初版20250118/  字数オーバー。時節項以降は次ページに書かせて頂きます。。  <()>



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