あれってそれって何処だったっけ ~ 歴代、アジア大陸で安定国家を築けた3つの国
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「夏」「殷」「周」 と 「高麗 第4代光宗の最初の8年」だとか、、、
何かで見たか聞いたか、メモに在りますので此処に残させて頂きます。。 日本の摂関政治が行われていた頃の平安時代は入らないのですね、、
-- เสถียร /sathǐan サティアン 輝いた · 安定した,持続性のある · 勇敢な ※ごったい先生作 国家 <プラテート> ※既出 ชาติ /Chāti ※G先生作
ーーーーーーーー M:【「夏」(か、拼音: Xià、紀元前2070年頃- 紀元前1600年頃)】 とは
夏とは、史書に記された中国最古の王朝。 夏后氏ともいう。
夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、★初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、★殷の湯王に滅ぼされたと記録されている。
考古学的比定
※実在性
「疑古」および「夏商周年表プロジェクト」も参照
夏が存在したとされる年代の遺跡としては、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師県(えんしけん)翟鎮二里頭村で発見された「二里頭遺跡」が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷は、この二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。 したがって、これが史書に伝わる夏に相当すると考える学者も存在する。
しかしながら、二里頭の都市文化は、★文字の出土資料がなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかは不明である。 中国では二里頭遺跡を文献史料が伝える「夏王朝」と同一視する研究者が多い一方、日本では遺跡と文献上の「夏王朝」を同一視することには慎重を期するのが望ましいとする見解が主流であり、日本の考古学者宮本一夫は「夏に当たる年代に政治勢力らしきものが実在した事」が証明された事が、史書で伝えられる「夏王朝が実在した事」を証明しえないと述べている。
台湾在住の中国古代史学者の甘懐真(国立台湾大学)は、「夏王朝の存在は疑わしい」と述べており、中国の考古学者の中にも論文で二里頭文化に言及する際に「夏王朝」という単語に代えて、「夏文化」などの曖昧な表現を用いる研究者がいる。
また、日本の古代中国史学者落合淳思は、文献資料に示された古代夏の統治範囲は「九州」すなわち沿海地域の兗州、青州、徐州、あるいは長江流域の揚州、荊州、梁州などにわたっているのに対し、二里頭文化の政治勢力は黄河中流域を支配したにすぎないことから、伝説上の夏王朝と二里頭文化には直接の関係はないとし、「日本では、このことがよく理解されて」いるとしている。
二里頭遺跡
詳細は「二里頭遺跡」および「二里頭文化」を参照
二里頭遺跡は★新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定され、当時としては世界有数の大規模集落である。 トルコ石で表現された龍、銅爵(どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されている。
「宮殿区」の南門近くにある「一号宮殿」は、回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。 この構造は、★後の中国歴代王朝の宮殿構造に近く、歴代王朝ではここで宮廷儀礼を行っていることから、宮廷儀礼もここから始まったとも考えられる。
★ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化・紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。 龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。
また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟(あわ)、黍、小麦、大豆、水稲の★五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、★気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。 これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の商(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。
歴史
以下は主に『史記』「夏本紀」、『竹書紀年』による。
禹の創業
夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人★顓頊の孫である。 帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、★黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められたとされる。
2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。 舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である★商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。
禹は姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、★➊武器の生産を取り止め、➋田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、➌宮殿の大増築は当面先送りし、➍関所や市場にかかる諸税を免除し、➎地方に都市を造り、➏煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。 その結果、中国の内はもとより、★外までも朝貢を求めて来る様になった。
更に禹は➐河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、➑周辺の土地を耕して草木を育成し、➒中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、➓古のやり方も踏襲し全国を分けて★九州を置いた。 禹は⓫倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、★45年間帝であったという。 即位後、「皋陶」に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い「益」による朝政の補佐が行われた。
なお「禹」という漢字はもと「虫」と同じ形で、★毒蛇を象った象形文字である。 『説文解字』では「厹 (禸)」という文字に従うと説明されているが、これは誤った分析である。「禸」の部分は初期の形にはなく、後の時代に追加された意味を持たない装飾的な筆画である。
最初の世襲王朝
禹の崩御後、益が後継者とされていたが、★「益」が執政に慣れていない事もあり、諸侯は禹の子である「啓」を帝位に就けた。 これが★中国史上最初の帝王位の世襲とされる。 帝位に就いた啓は、★有扈氏が服従しなかった為に討伐を加えている。
啓の崩御後、子の「太康」が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った(これを太康失邦という)」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。 太康の★5人の弟たちは「五子之歌」を作った。
「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」
— 「五子之歌」、『史記』「夏本紀」より
『竹書紀年』に依れば、★太康を国から追い出したのは羿であるとされる。
五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は★太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。 この歌より★太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。
太康の崩御後、★弟の「中康」が後を継いだ。 都は斟鄩、元年は己丑、在位年数七年。 在位五年秋九月庚戌朔に★日食が起こり、また諸侯の「羲氏」と「」和氏が淫楽に耽っていたので、「胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)」に命じ羲氏と和氏を討伐している。
『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は★特に伝えられていない。
『竹書紀年』に依ると、中康の子である「相」が跡を継いだ。 都は帝丘と斟鄩、元年は戊戌、在位年数は二十八年。 その在位八年に★夏王朝を実質的に支配していた「羿」がその妻の玄妻(純狐氏)と臣下の寒浞に殺された。二十八年には相自身も寒浞とその子の澆によって弑された。
相の遺児である「少康」は母である后緡が都でのクーデターから逃れたため、彼女の出身地である有仍国で生まれた。
少康はやがて成長すると、その息子である「予」や夏王朝の遺臣である「伯靡・有仍氏・有鬲氏」などと共に寒浞や澆・豷を討ち滅ぼした。 これを「★少康中興」という。 顧頡剛を始めとする「古史辨派」はこれを「『光武中興』を正当化する為に漢人が作った話である」という説を提唱している。
少康の子である予の都は原と老丘、元年は己巳、在位年数は十七年。在位八年に★東海と三寿を征伐し、★九尾の狐を得た。
予の子は「槐」である。都は不明、元年は戊子、在位年数は四十四年。在位二年に★九夷が来訪した。
槐の子は「芒」である。都は不明、元年は壬申、在位年数は五十八年。在位十三年に★東海にて大魚を得た。
芒の子は「洩」である。都は不明、元年は辛未。在位年数は二十五年。在位十二年に★有易氏を討伐した。
洩の子は「不降」である。都は不明、元年は乙亥、在位年数は二十五年。在位六年に★九苑を討伐した。
不降の★弟は「扃」である。都は不明、元年は戊戌、在位年数は十八年。
扃の子は「」廑である。都は不明、元年は己未、在位年数は八年。在位八年に★太陽が十つ同時に出現した。
衰退と滅亡
不降の子で★廑の従兄弟、第14代帝は「孔甲」である。都は西河、元年は乙巳、在位年数は九年。 ★性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏王朝の徳治にも翳りが出たとされている。
孔甲の子は「皐」である。都は不明、元年は庚辰、在位年数は三年。在位元年に★孔甲が滅ぼした豕韋氏を復国させた。
皐の子は「発」である。都は不明、元年は乙酉、在位年数は七年。在位七年に★泰山で地震があった。
発の子は「桀」である。都は斟鄩と河南、元年は壬辰、在位年数は三十一年。★人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事で人心の離反を招いた。又、商の「天乙 (湯) 」を呼び出し夏台に投獄している。 天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、遂には桀を倒した(★鳴条の戦い)。
桀は鳴条に逃げたが客死した。この桀に関する伝説は殷の帝辛(紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。
近年の考古学調査によれば、紀元前1628年にテラ島の噴火により地球規模の気候変動が起きていたことがわかっており、史書にも桀年間の天候不順が記録される。 合わせて、夏の遺跡である望京楼遺跡からは★殷による激しい破壊と虐殺の跡があり、宮殿以外は全て破壊され、出土する遺骨も多くが★手足が刃物で切断されていたり、顔が陥没するなど、深い加害のあとがしのばれる。
このようなことから、実際には力によって、殷は夏にとって代わったことがわかる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する。
天乙は帝位に即位すると夏の血を引く者を夏亭(『史記正義』による)に封じた。周代に於いては、杞に於いて諸侯に封じられている。
※※建国:黄帝の三苗征服伝説との対応 以降略 (Wiki)
ーーーーーーーー M2:【「殷(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)】とは
殷とは、中国大陸にあった王朝。考古学的に実在が確認されている中国大陸最古の王朝である。
殷代、商(しょう、拼音: Shāng)、商朝、殷商とも呼ばれる。
文献によれば、天乙(湯王)が★夏(の桀王)を滅ぼし建立したとされる(紀元前16世紀以前)。 紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に★周によって滅ぼされた(殷周革命)。
王朝名の殷
殷墟から出土した甲骨文字には、王朝名及び「殷」は見当たらず、★殷後期の首都名は「商」と呼ばれた。 周は先代の王朝名として「殷」を用いた。
「殷」は★商の蔑称であるとする説があるが、殷の字義や出土文献の用例からはそのような要素は見出せない。 また殷の時代には「中国」という言葉の使用は確認されていない(「何尊」を参照)。
考古学的比定
※殷の位置(華北平原内)
(二里頭)
(二里頭)
二里岡
二里岡
盤龍城
盤龍城
殷墟
殷墟
三星堆
三星堆
呉城
呉城
殷代の主な遺跡(二里頭は殷に先行する時代の遺跡)。殷王朝の都城は、二里岡、殷墟(安陽)。
二里岡文化
詳細は「二里岡文化」を参照
鄭州市の二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)は、★大規模な都城が発掘され、初期の商(殷)王朝(鄭州商城、建国者天乙の亳と推定)と同定するのが通説である。
偃師商城
詳細は「偃師商城遺跡」を参照
偃師の尸郷溝で、商(殷)王朝初期(鄭州商城と同時期)の大規模な都城が見つかっている。これは二里頭遺跡から約6km東にある。
洹北商城
殷墟のすぐ北東(洹水北岸)に、殷中期の都城の遺跡が発見されている(花園荘村)。★文字を刻まず占卜した獣骨が出土している。殷中期に至っても★文字資料はほとんど全く出土していない。
殷墟
詳細は「殷墟」を参照
現在の安陽市の殷墟(大邑商)は紀元前1300年頃から殷滅亡までの★後期の首都。 洹水南岸にあり、洹北商城のすぐ南西。 甲骨文字が小屯村で出土することが契機で発掘が始められ、その地区が宮殿および工房と考えられ、首都の存在が推定された。
都城の遺跡は見つかっていない。 洹水を挟んだ北側では22代王の武丁以降の王墓が発掘されている。甲骨文からもここに都を置いたのは武丁の代からと考えられるが、『竹書紀年』では19代王の盤庚によるとある。
甲骨文字
詳細は「甲骨文字」を参照
殷の考古学的研究は殷墟から出土する殷後期の★甲骨文字(亀甲獣骨文字)(漢字の源)の発見により本格的に始まった。 これにより、『史記』にいうところの殷の実在性が疑いのないものとなった。甲骨占卜では「上甲 」が始祖として扱われ、「天乙(名は唐)」が建国者として極めて重要に祀られている。
★22代目の武丁より以前の殷の文字はほとんど出土がない。 ただし、筆や木簡・竹簡を表す漢字が甲骨文字に確認できることから、文字が以前から用いられた可能性を認める説もある。
殷の実在した最初の王は「湯王(天乙・大乙)」とされるが、『史記』では「微(上甲)」以前に「契(神話上の祖)」、「昭明」、「相土」、「昌若」、「曹圉」、「冥」、「振」がいたとされる。 しかし、この7名は殷後期の甲骨文字では祭祀の対象となっていない。 加えて、7名に用いられる文字は甲骨文字に存在していないため、彼らやそれに付随する神話は周以降に創造されたと考えられる。
★甲骨文においては、上甲が筆頭になっており、彼が殷代における「始祖」であったということになる。 ただし、上甲、匚乙、匚丙、匚丁、示壬、示癸の6名も、十干の通りであるため、形式的に作られた神話であるとする説がある。 特に、上甲から匚丁は、示壬以降とは異なり、甲骨文字に配偶者の祭祀に関する記録がないため、この★4名はほぼ確実に神話であると言える。
また、『史記』で王とされる天乙の子・中壬や太甲の子・沃丁も、甲骨文に現れないため、後世の創作であるとする説がある。 そして、後期の甲骨文に現れる9代目の王・雍己、11代目の王・卜壬、12代目の王・戔甲は、初期に現れないため、殷後期に系譜に追加された王であるとする説がある。
加えて、後世の甲骨文における2代目の王・卜丙、7代目の王・小甲も、他の王に比べて記述される例が少ないため、当初は祖先とされても王位についていなかったと考えられていたと思われる。 つまり、★殷の当初から王として実在が確認できるのは、大乙、大丁、大甲、大庚、大戊、中丁、祖乙の7名である。
『史記』や『尚書』では、19代目の盤庚が現在の殷墟の地に遷都をし、国内の混乱を治めたとされているが、殷墟から出土した甲骨文には、22代目の武丁より前の王の時代のものが存在しないため、★19・20・21代目の殷王は殷墟にはいなかったと考えられ、『史記』や『尚書』の記述は事実ではなかったこと、そして国内の混乱を治めたのは武丁であったことが明らかとなった。
甲骨文では、上甲、成(大乙・湯王)、大丁、大甲、祖乙が「五示(5人の直系先祖)」とされ、祖乙以降の「直系先祖」が祭祀されていない。つまり、これ以降は系譜が成立しておらず、祖乙から武丁までが国内が混乱していたということになる。
『史記』や『尚書』では、祖乙が名君であったとされるが、これは祖乙は殷初期の安定した時期の最後の王であり、各勢力が「祖乙の子孫であること」を正統性の根拠としていたからであると考えられる[6]。
『史記』や『尚書』では、湯王が「亳(二里岡遺跡)」に都を置いた後、中丁が「囂(隞)」、河亶甲が「相」、祖乙が「耿」に遷都したとする。しかし、内紛が始まったのは祖乙以降であり、また甲骨文に亳以外の地名が見られないため、★遷都の話も後世に作られたと考えられる。
上甲は『国語』の中で「上甲微」とされ、殷の末裔とされる宋の初代王は「微子」、2代目王は「微仲」とされる。また、「微」は殷代の甲骨文において「殷王朝の支配下の土地またはその領主」を意味している。これらのことから、落合淳思は殷の系譜の成立について、
1殷王朝の支配下にあった微は、周が殷を滅ぼした際に周に加担して、その後「殷の末裔」として認められた。
2「殷の末裔」としての正統性を主張するため、自己の系譜を殷王朝に繋げた。 3『史記』で殷王朝の祖とされる契から上甲微の父・振は微の始祖神話であり、殷王朝の祖である上甲を振の子として系譜に繋げた。また、宋の初代王・微子が帝辛の庶兄とされた。
4微子の孫が宋に領地を得てその君主になった。
という過程を考察している。
史書上の歴史
以下、大部分は『史記』に基づく。
商の名前
商の名前は『通志』などで殷王朝の祖の契が商に封じられたとあるのに由来するとされ、『尚書』でも「商」が使われている。
創建以前
★伝説上、殷の始祖は「契」とされている。 契は、有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が★玄鳥の卵を食べたために産んだ子とされる。 契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。
有娀(有戎)の「戎」は★西方の遊牧民を意味し、有娀(有戎)の娘である簡狄の「狄」は★北方の狩猟民を意味する。 女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで妊娠し、男の子を産むというのは、北アジアの狩猟民や遊牧民に共通の始祖伝説である。
なお「帝」は、上古の五帝、もしくはそれらに準じる者を意味し用いる字。
その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。また、契から天乙(湯)までの14代の間に8回都を移したという。
契(始祖)
昭明 - 契の子
相土 - 昭明の子
昌若 - 相土の子
曹圉 - 昌若の子
冥 - 曹圉の子
振 - 冥の子
上甲微(微) - 振の子
報乙(匚乙) - 上甲微の子
報丙(匚丙) - 報乙の子
報丁(匚丁) - 報丙の子
主壬(示壬) - 報丁の子
主癸(示癸) - 主壬の子
天乙(湯) - 主癸の子
殷王の一覧
殷商王室系図
代数 名(諡号含) 在位年 在位年数
1 天乙(成湯) 前1558年?- 前1546年? 12年/29年
* 太丁
2 外丙 前1546年? - 前1544年? 2年?
3 仲壬 前1544年? - 前1540年? 4年?
4 太宗太甲 前1540年? - 前1528年? 12年?
5 沃丁 前1528年? - 前1509年? 19年?
6 太庚 前1509年? - 前1504年? 5年?
7 小甲 前1504年? - 前1487年? 17年?
8 中宗太戊 前1487年? - 前1413年? 74年?
9 雍己 前1412年? - 前1401年? 11年?
10 中丁(仲丁) 前1400年? - 前1391年? 9年?
11 外壬 前1391年? - 前1381年? 10年?
12 河亶甲 前1381年? - 前1372年? 9年?
13 祖乙 前1372年? - 前1353年? 19年?
14 祖辛 前1353年? - 前1339年? 14年?
15 沃甲 前1339年? - 前1334年? 5年?
16 祖丁 前1334年? - 前1325年? 9年?
17 南庚 前1325年? - 前1319年? 6年?
18 陽甲 前1319年? - 前1315年? 4年?
19 盤庚 前1315年? - 前1287年? 28年?
20 小辛 前1287年? - 前1284年? 3年?
21 小乙 前1284年? - 前1274年? 10年?
22 高宗武丁 前1274年? - 前1215年?
前1190年? - 前1132年? 59年/58年
* 祖己
23 祖庚 前1215年? - 前1204年? 11年?
24 祖甲 前1204年? - 前1171年? 33年?
25 廩辛 前1171年? - 前1167年? 4年?
26 庚丁 前1167年? - 前1159年? 8年?
27 武乙 前1159年? - 前1124年?
前1148年? - 前1113年? 35年?
28 太丁 前1124年? - 前1111年?
前1113年? - 前1102年? 13年/11年
29 帝乙 前1111年 ?- 前1102年?
前1102年? - 前1076年? 9年/26年
30 帝辛(子受) 前1102年? - 前1050年?
前1076年? - 前1046年? 52年/30年
易姓革命
夏の桀王は暴政を敷き、その治世はひどく乱れた。 これに対し、殷の湯王(契から数えて14代目、天乙ともいう)は天命を受けて悪政を正すとして、賢人★伊尹の助けを借りて蜂起、鳴条の戦で夏軍を撃破し、各都市を破壊、こうして夏は滅亡した。
現代の考古学調査によると、夏の都市のひとつであった望京楼遺跡では、殷による激しい破壊と虐殺の跡が見つかっている。 遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり、顔が陥没しており、実際には殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取ったことがしのばれる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する。
※歴代の治世以降は略 (Wiki)
ーーーーー M3:【周(シュウ、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年) 】とは
古代中国の王朝。国姓は姫。
当初は殷(商)の従属国だったが、★紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)で殷を倒し周王朝を開いた。 ★紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から★秦に滅ぼされるまでを東周(春秋戦国時代)と区分される。
周の歴史は春秋時代以降に成立した書経や『史記』などに記されていて、かつては周代に関する研究やイメージのほとんどはそれらを準拠したものであった。 一方で、現代では考古学調査の進展により、史書において知ることができなかった数々の新事実が判明し、人々の周代へのイメージは急速に変遷しつつある。
歴史
周の始まり
周国の伝説上の始祖は后稷であり、五帝の舜に仕えて、農政に功績があったという。
古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。
古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。 季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。
その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は句呉と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。 なお、この南方の僻地は日本だったという伝説もある(太伯・虞仲#日本に関する伝承)。周王朝の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、 このことから周は元々羊の遊牧文化を持つ非定住農耕民であったという説がある。
中国戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として、舜は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている。
銘文から見る当時の周
遺跡からの出土品に記された銘文の中での周は、殷の外地に位置する方国の一つとして位置付けられ、時には殷による征伐の対象となった、しかし一方で、周に命令を下した甲骨文や「周侯」と記された甲骨文も残されており、周は殷に服属していたことを表している。また、殷王の妃に「婦周」という人物が見るため、周は武丁期以降に殷への服属と通婚を経て、殷王室の親族の一つとして上層貴族の地位を獲得し、言語文化信仰を殷と同じくするようになっていったと考えられる。また、周王(文王あるいは武王)は、帝乙の宗廟で殷王朝初代の湯王を祀っている。
克殷
詳細は「殷周革命」を参照
季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。
姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦・太公望・召公奭ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。
成康の治
詳細は「成康の治」を参照
武王は建国後すぐに死去する。 後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は★未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。 ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。
周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。
成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。
衰退
詳細は「共和 (周)」を参照
その後は徐々に衰退する。 4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。
5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。
6代共王(在位:前922年 - 前900年)、7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に★礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。
しかし、夷王は紀侯靖公の讒言を信じて斉の哀公を★釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。
10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には★大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。
王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。 ちなみに、★現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制#語源・用法)。
なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。
やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。 しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。
12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。
幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。 そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。
★周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は「★東周」と呼ばれ、時代区分では★春秋時代に移行する。
春秋戦国時代
詳細は「春秋戦国時代」、「春秋時代」、および「戦国時代 (中国)」を参照
春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで★没落した。 平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。
さらに、王室内で幾度も★王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。 現代の湖北省随州市付近にあった曽の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている。
それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(★春秋五覇)。 周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った。
しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。 例えば春秋時代の秦の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「天子」と称している。 また孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず、祭祀を主催する立場すら失っていた。
戦国時代初期の情勢
戦国時代に入ると、かつての覇者・晋や太公望の子孫である斉(姜斉)といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。
魏の惠王は「夏王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった。 東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の宋や北辺の中山国の君主までもが王を称するようになった。 秦の昭襄王と田斉の湣王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した。
滅亡
周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されていた。 ただでさえ衰えていた周王室であるが、末期には貞定王の末子掲(桓公)を始祖とする西周公(武公)とそこから分裂した東周君(昭文君)の勢力によって分裂していた。
周王朝★最後の王である赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、元の成周は東周君が支配した。 周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様であった。
赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。 西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。 このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。
西周の文公が死去すると、その★民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、★秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった。
その後も昭文君の東周は7年間存続したが、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた。『史記』の秦本紀では昭文君は殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられる。
秦の始皇帝の死後、すなわち楚漢戦争期には、各地で戦国諸侯の王族が再び擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようという動きはなかった。
前漢の武帝以降、儒学が尊重されるようになると、周王室の子孫も尊重されるようになり、姫嘉(中国語版)という人物が周子南君(中国語版)に封じられた。姫嘉の子孫は元帝の時代には周承休侯へ昇格され、平帝の時には鄭公に、後漢の光武帝の時代には衛公に封じられている。
政治
周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。金文によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。太史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。
身分制度については『春秋左氏伝』によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。また取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器の鋳造に関わっていたと考えられる。
土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。
文化
殷周の文化の変化
王国維は「殷周制度論」において、殷と周の間で諸制度の大変革があり、周の制度は周公によって定められたと主張したが、実際は、周王朝は殷王朝の礼制を踏襲し、その基礎の元に発展させていったことが、遺跡やそこから出土する青銅器によって判明している。礼制に変革が起こったのは、西周後半期であると考えられる。
周と十干諡号
殷は武丁や帝乙のように、十干で祖先を呼ぶ十干諡号を使用していた。従来の研究では、周の人は十干で祖先を呼ぶことはなく、西周期に金文において十干諡号を用いているのは殷系の人々であると考えられていた。しかし、河南省平頂山市応国墓地8号墓で出土した「05応公鼎」の銘文には、応公の号として「珷帝日丁」と見え、『春秋左氏伝』僖公二十四年の記述によれば、応国の君は武王の子孫とされているため、「珷帝日丁」とは武王のことを指してあり、周が殷と同様に十干諡号を有していたことになる。
また、2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した。
青銅器文化
★殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。
この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。
またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。
これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。
建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。
投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。
※都市と領土以降は略 (Wiki)
ーーーーーーーー M4:【光宗(こうそう、925年 - 975年7月4日) とは 】
第4代高麗王(在位:949年 - 975年)。
姓は王、諱は昭、諡号は弘道宣烈平世粛憲懿孝康恵大成大王。 父は太祖、母は神明順成王后劉氏。 恵宗の異母弟で定宗の同母弟。
(光宗 (高麗王) - Wikipedia ⇒https://ja.wikipedia.org › wiki › 光宗_(高麗王))
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⑨👉 NPB順位《セ》9/27土 22:08第27週後半終了時 1 巨 75勝58敗7分 3 M➊ 次戦 広 マツダS 2 神 72勝61敗6分① 3 次戦 ヤ 神宮S① 3 De67勝65敗3分⑤ 4.5 次戦29日神 甲子園② 4 広 66勝66敗5分③ 1 5 中 58勝73敗8分① 7.5 6 ヤ 59勝75敗4分② 0.5
※ 👉 最多消化チームの所には、残り試合数(全143試合) ※ 日木の次戦は翌日日程。そうでない場合は日付表記。※👇 ※ 👉次戦後ろの➋➌は初日からこのカードの試合数。 ①②は中数日や移動日含みの2戦、地方球場遠征や、消化試合等変則日程。
※神 残 4試合 広1・巨0・De3
広 残 6試合 巨1・De1
巨 残 3試合 De1
ー (画像・ 1上下) 上下/夏王朝と二里頭遺跡【神話と発掘調 中国語スプリクト
(画像・ 2) /1-4.2]殷・周 グシャの世界史探究授業
(画像・ 3) /古代中国~周、そして秦へ 裏切り研究所
(画像・ 4) 高麗王朝 第4代光宗 /辛旽 シンドン ~高麗中興の功臣~ - YouTube
時代劇が面白い】光宗とは誰なのか/高麗時代の人物と歴史2 | K-POP、韓国エンタメニュース、取材レポートならコレポ!Korepo
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