あれってそれって誰だったっけ ~ 古田敦也氏が云うパームボールの使い手名手
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『小山正明・大野 豊・帆足・浅尾拓也・床田・石井丈裕の91,2年(肘痛める前)』 …だとか、、
オジさん世代としては、近藤貞夫氏も云って欲しかったなぁ、、と。。
リリース時に指が立っているので打者に気付かれやすく、「平成絶滅球種」とも云われたそうですが、CU(チェンジアップ)の亜種として2020年代に復活した、とも、、
全員を詳細に挙げると多分字数越えますね、、できる範囲だけにします。(あとは後日の予定、、)
-- 手のひら ปาล์ม /Pāl̒m[外] ※G先生作 手のひら,足の裏 · 逆らう,敢えて突き進む,背く(そむく). ฝ่ามือ /fàa mʉʉ ※ごったい先生作
ーーーーーーー M:【小山正明 (1934年7月28日 - )】 とは
兵庫県明石市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
優れた制球力から「投げる精密機械」と称えられ、金田正一、米田哲也に次ぐ日本プロ野球歴代3位の320勝、同5位の290完投を記録した。
通算無四球試合も鈴木啓示に次ぐ歴代2位。2001年に野球殿堂入り。
小山 正明
※大阪タイガース時代
基本情報
国籍 日本
出身地 兵庫県明石市
生年月日 1934年7月28日(89歳)
身長 183 cm
体重 73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年8月26日
最終出場 1973年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
兵庫県立高砂高等学校
大阪タイガース
阪神タイガース (1953 - 1963)
東京オリオンズ
ロッテオリオンズ (1964 - 1972)
大洋ホエールズ (1973)
コーチ歴
東京オリオンズ (1966 - 1968)
大洋ホエールズ (1973)
阪神タイガース (1974 - 1975, 1982 - 1983)
西武ライオンズ (1990 - 1991)
福岡ダイエーホークス (1993 - 1994)
阪神タイガース (1998)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2001年
選出方法 競技者表彰
経歴は以下の通り。
1 タイガース時代
小山が通った高砂高校はもともと女学校で、小山の入学する1年前の1949年に男女共学となって野球部が設立されたばかりであり、野球では全く無名であった。 小山は高校3年秋に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受ける。 なお、小山の父が息子の入団テストを依頼する手紙を監督の松木謙治郎宛に書いたが、それが大変な達筆であったと松木は数十年後に回顧しており、小山本人からはたいした印象を受けなかったとされる。 なお、小山の父・英一は★書道塾を営んでいたという。
その後、タイガースからの合否通知がなかなか届かず、自宅から近い明石市内でキャンプを行っていた★大洋松竹ロビンスの入団テストも受けたが、当時は大洋ホエールズと松竹ロビンスの球団合併で選手が増えていたこともあり不合格となった。 結局、テストから5ヶ月たった翌1953年3月になって阪神から★練習生として採用との通知が届き、★契約金なしの月給5,000円で打撃投手も兼ねたテスト生として入団。 なお、小山は阪神の球団オーナーの★野田誠三の遠縁にあたることから、お情け採用だった可能性もある。
シーズンに入ると練習生から二軍選手に昇格。さらに、8月の対近鉄戦で完投勝利を収めると、この投球が評価されて一軍に昇格した。 一軍に上がるとレギュラー陣の打撃投手を務めるが、藤村富美男・金田正泰などのベテランや後藤次男などに指名されることが多く、打ちやすいコースに投げられないと★藤村は黙って隣のケージに移動していったことが一番堪えたという。 後年「クビにならないように必死だった。★戦争帰りの人たちはとにかく怖かった」と述懐している。
制球の良い渡辺省三が先輩にいたことと、打者陣の厳しい要求に応えることで制球に磨きがかかり、1年目の1953年に5勝、1954年にはチーム最多となる11勝を挙げて先発ローテーションに定着。 1956年には17勝、防御率1.66(リーグ6位)と好成績を収め、25勝の大崎三男、22勝の渡辺省三と並んでエース格となる。 この年は速球で三振を取ることだけが投手の一番の仕事ではないと思い知り、いわゆる★「コントロール」に目覚めた年で、この頃より自分で配球を組み立てながら投げられるようになった。
1958年は開幕前に伊東でミニキャンプを張るが、シートバッティングで投げていた際に、ぬかるんだグラウンドに足を取られて右太股を肉離れしてしまう。しかし、5月から復帰すると1ヶ月の内に7勝を荒稼ぎし、シーズンでは24勝(12敗)防御率1.69(リーグ4位)と初めて20勝を達成し、阪神のエースにのし上がった。 またこの年は新たに★パームボールを覚え、日米野球で来日したセントルイス・カージナルスとの対戦で投げ、ことごとく空振りを奪ったという。
1959年も20勝、防御率1.86(リーグ3位)を記録するが、同年のシーズン中の7月に★大毎オリオンズのオーナー・永田雅一と東京で密会し移籍の勧誘を受ける。 同年オフの契約更改において、小山は球団代表の戸沢一隆に大毎移籍を訴えるが、A級10年選手でもないため移籍できるはずもなく、小山は★渋々契約更改に同意した。 戸沢はセ・リーグ会長の鈴木龍二に対して大毎の協約違反を訴えるが、契約更改が完了したということで鈴木が戸沢を宥めたという。 翌1960年も25勝を挙げて3年連続20勝以上を達成した。
1962年に監督に就任した藤本定義は、村山・小山の両者に一定の間隔を空けて登板させる★ローテーションを組む。 この頃、記者に投手のローテーションを聞かれた藤本が「★小山、村山、雨や」と答えたのが広く知れ渡った。 この年、小山はセ・リーグ記録となる5試合連続完封を含むシーズン13完封、47イニング連続無失点(2006年に藤川球児が更新するまで球団記録)を記録。シーズンでは27勝11敗、防御率1.66(リーグ2位)を挙げて、25勝14敗、防御率1.20(リーグ1位)の村山実と2本柱としてリーグ優勝に貢献し、★沢村賞を受賞した。 一方で、最高殊勲選手投票(当時は単記制)では村山に次ぐ2位だったが、実績を考慮したセ・リーグから「優秀功労賞」として表彰された。 最高殊勲選手の選考結果に小山が不満を抱えていると言われたが、そのようなことを言われることこそが小山本人には不満だったという。 なお、ロッカールームで二人きりになった際、小山は村山に対してさっと握手を求め「ムラ、おめでとう。よかったな。お前が選ばれてよかったんや」と激励。小山の気持ちを思ってつらくも感じていた村山はこの言葉に救われたという。
同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでは4試合に登板、3試合に先発するが0勝2敗に終わる。 特に阪神2勝3敗で迎えた第7戦では先発して9回を無失点で抑えるが阪神も得点できずに0-0で延長戦へ突入。10回表に小山が1点を失ったため、決着が付いたと早とちりした小山はロッカールームに引き上げて風呂に入ってしまう。 しかし、10回裏に阪神が同点に追いついき延長11回に入るが、そこで小山がベンチにいないことが発覚し大騒ぎになる。 あわてて村山がリリーフに出るが、12回表に西園寺昭夫に決勝本塁打を打たれて阪神は日本一を逃してしまった(小山本人は入浴の事実は否定している)。
日本シリーズで敗れた後、藤本定義はMVPの選から漏れた小山が初めからやる気を失っていたとして、★MVPの投票結果の発表時期を日本シリーズ終了後にするようにセ・リーグ会長の鈴木龍二に直訴。鈴木もこれを受け入れ、1963年以降は日本シリーズ終了後にMVPの結果が発表されるようになった。
阪神では村山と共にタイガースのエース格として活躍したが、「両雄並び立たず」などという声も球団内からは聞かれ、1963年に14勝(14敗)防御率3.59と不振に終わると、その暮れには小山放出の噂が流れる。 小山は藤本が既に村山を残し自分は放出する意向であることを知っていたため、忘年会で会った藤本に「来年も頼んまっせ」と言われた時には大変な反発を覚えたという。
時を移さずして、★長打の打てる打者がほしかった阪神とエース投手がほしかった大毎オリオンズとの思惑が一致し、★山内一弘との「世紀のトレード」が成立して大毎に移籍。 新聞紙上で報道が過熱する中で阪神本社からは何も連絡がないことにたまりかねて球団社長宅を訪ねたところ、「大毎の永田雅一オーナーから直接電話で『小山を譲ってくれないか』と連日連夜の催促で、大弱りなんだよ」と言われ、小山がその場で「そこまで向こうが言ってくれてるんなら、僕は別に(トレードは)構いませんよ」と答えるとすぐにトレードは成立した。
後に「僕の返事を聞いたときの球団社長の、あの★満面の笑みは未だに忘れられないよ」と述懐している。 永田は小山の入団を大変喜び「君に馬(競走馬)をプレゼントしよう」と言って馬主になることを持ちかけたが、競馬をやらない小山には意味が通じず「自宅に馬を飼う場所がありません」と断ったため、代わりに外車を小山に贈った。
2 オリオンズ時代
1964年に大毎から球団名を変更した東京オリオンズは、阪神甲子園球場より狭い東京球場を本拠地球場としており小山にとって移籍は不利と思われたが、阪神時代に★王貞治を打ち取るために覚えたパームボールを駆使した打たせて取る投球で30勝を挙げ、最多勝利のタイトルを獲得。
1965年に20勝をマークし、同年の納税額から推定した収入額が3,570万円に達し、現役選手ではトップとされた。これは年俸(推定約1,000万円)に加えて、トレードによる特別ボーナスの支給が約2,500万円あったためである。1966年も2年連続で20勝を挙げる。1966年10月4日の対西鉄ライオンズ戦では87球で完投し、西鉄の稲尾和久も75球で完投、合計162球の最少投球数試合の記録を作った。
東京時代は独身寮に単身赴任しており、真面目で練習熱心な姿勢はチームの手本であった(1966年から1968年までは投手コーチも兼任)。 入団したばかりの村田兆治が徹夜麻雀から朝帰りした時にランニングへ出かける小山と鉢合わせして、村田はとっさに何も言わず自分の部屋に逃げ込んだ。その後、練習中に謝りに来た村田に対して「★お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのはさびしくないか」と言い、当時球界を代表するベテラン投手だった小山に諭された村田は感激し、真剣に練習へ取り組むようになった。
また、木樽正明が入団3年目にして肩を故障してしまい、不本意な成績で野手転向も検討された時にも、「★アイツ(木樽)ほど投手としての才能に恵まれたヤツはいない。もう一度考え直して欲しい」と当時の球団首脳に直訴し、投手としての選手生活を続行させた。 いくら大投手とはいえ、ベテランである小山にとって若手が台頭することは自らの死活問題に関わるはずだが、そんなことよりも野球人として才能を愛する人柄がよく現れている。
1970年は16勝、防御率2.30(リーグ3位)とリーグ優勝に貢献。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも3試合に登板。最終第5戦では先発し、6回2失点と好投するが、打線の援護がなく日本シリーズ初勝利はならなかった。 しかしセ・パ両リーグで日本シリーズにおいて先発登板し、日本プロ野球史上★唯一の両リーグ100勝を記録した。
1971年7月3日の対東映フライヤーズ戦では自ら決勝点となる勝ち越しの適時二塁打を記録して完投勝利を挙げ、日本プロ野球★史上4人目の通算300勝を達成。試合後にはチームメイトから胴上げされた。
1972年9勝に終わると、新監督として★金田正一を迎えたロッテは小山を大洋の鬼頭洋・安田泰一と交換しようとする。 しかし、小山は前オーナーだった中村長芳との間に約束があったとして簡単に応じず、結局ロッテから功労金を受け取ってトレードを了承した。 なお同時期★ヒューストン・アストロズのレオ・ドローチャー監督が小山の獲得に動いたが実現はしなかった。 1973年は選手兼任コーチとなり戦列を離れていたが、シーズン途中に監督の青田昇の要請で現役復帰し、同年10月24日再び引退。
3 現役引退後
引退後は➊阪神(1974年 - 1975年, 1982年 - 1983年, 1998年一軍投手コーチ)、➋西武(1990年 - 1991年一軍投手コーチ)、➌ダイエー(1993年一軍ヘッドコーチ→1994年一軍ヘッド兼投手コーチ)でコーチを歴任。コーチ業の合間を縫って、①朝日放送テレビ・ラジオ解説者(1976年 - 1981年, 1984年 - 1988年)、②サンテレビジョン解説者(1989年, 1992年, 1995年 - 1997年)も歴任。西武コーチ時代は2年連続リーグ優勝・日本一に貢献し、★入団2年目の➊石井丈裕にパームボールを伝授して素質を開花させた。
阪神コーチ1期目には➋谷村智博にパームボールを伝授したほか、移籍してきたかつてのライバル・米田哲也を登板間隔に気を使いながら起用し、米田はそのおかげで調整がやりやすくなった。 2期目には福間納にチェンジアップを取り組ませ、3期目には投手陣に投げ込みを課して故障者が続出した。
3期目退任後の1999年からはサンテレビ解説者に復帰し、2001年からは③デイリースポーツ評論家としても活動。 サンテレビ解説者は2017年限りでレギュラー解説から勇退し、2018年からゲスト解説として出演しているが、デイリースポーツ紙上では評論を継続している。
選手としての特徴は以下の通りである。
※小山正明の投球フォーム(1961-1962年頃)
飄々とした★無駄な力の入っていない投法で、村山の顔をゆがめ全力投球するスタイルとは対照的だった。
精密機械と称された制球力のみならず、直球の威力も本人は「★ゆったりしたフォームからビュッとホップする球が来るから打者も面食らったんじゃないか」と語り、バックで守っていた吉田義男は「小山の調子がいい時は内野手はヒマだった」(飛球が多いため)、「★針の穴を通す」という巧妙な制球力と証言している。また、球団の先輩選手から「真っ直ぐはいつまでも続かんぞ」と言われたことと、小山自身も直球とカーブだけでは力が衰えた時に対処できなくなると考え、ナックル、フォークなども試してみたが、★アメリカの雑誌を参考にしたパームボールが一番掌にしっくりくるとしてこれを習得。 小山はパームボールを阪神時代から投げるようになっていたが、広い阪神甲子園球場から狭い東京球場に本拠地が替わった東京オリオンズ移籍後はパームボールを本格的に駆使するようになりテスト生から300勝投手になった。なお、本人曰く★3種類のパームボールを投げ分けていたという。
他の大投手と同様に★走り込みによる下半身強化の重要性を説き、「コマは心棒がしっかりしていてこそ安定する。投手も同様に下半身の安定があって初めてボールをコントロールできる。下半身を鍛えること、これがワシの生命や」と度々コメントしている。後輩の木樽正明によると、小山のマウンドでのスパイク跡は全く同じ場所に踏み出されており、★土が全く掘れていなかったという。
1954年3月21日の中日とのオープン戦で、ノーヒットノーランを達成したことがある。 公式戦においてはノーヒットノーランを達成したことは無いが、1安打完封勝利が5度あり、そのうち1956年6月6日の大洋戦では1回無死から先頭の沖山光利にヒットを打たれた後に残りの27人をノーヒットに抑え完封勝利。オリオンズに移籍した1965年7月15日の阪急戦では無安打のままで迎えた9回2死からウィンディにヒットを浴び、ノーヒットノーランを逃している。
阪神時代は★王貞治を苦手とし、王が新人で「三振王」と揶揄された頃の天覧試合でも本塁打を打たれており、1962年は自身は27勝11敗、防御率1.66という好成績にもかかわらず一本足打法に切り替えた王から、1試合3被本塁打を含む7被本塁打を記録した。 対王貞治13被本塁打。 このため王対策としてパームボールを徹底的に活用。1963年は14勝14敗、防御率も3点台とシーズン成績は芳しくなかったが、★王からの被本塁打を0に抑えた。
★江本孟紀は小山のフォームを参考にし、肩をあまり動かさず、手首を「ピュッ」と利かせてボールを切る、無駄と無理のない投球を心掛けた。もっとも「針の穴(を通すような制球)」は最後までマネできなかったという。
投球の★テンポが良く、捕手からの返球を受けるとすぐに振りかぶって次の投球動作に入っていた。★複雑なサインをやりとりするのは自信のないヤツがすること、との自負心もあったと言われる。
人物像としては、妻は★阪急軍初期の名選手だった宮武三郎の娘。 小山が合宿所で★猿を飼いたいと思い立ち、週刊誌面にて猿を譲渡してくれる人を募集したところ、宮武家から返事があり、宮武家を訪れたことがきっかけだという(当時、宮武三郎は既に亡くなっており、小山自身も当初は宮武三郎の家とは知らなかったという)。
★芥川比呂志に似ていると言われ、芥川も「テレビあれこれ」という随筆で「われながら、見れば見るほどよく似ている。 横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。 自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見ると尚更らしい」と書いている。
★真夏でも熱いお茶しか飲まないなど徹底した健康管理に努め、ライバルであった村山実ですら「小山さんのプロとしての姿勢は勉強になった」と賞賛した。 また、小山には★煙草を吸う習慣がないため、天覧試合で配られた★恩賜の煙草も自分では吸わずに父親に手渡した。
「一言居士」な一面もあり、青田昇によると1962年の阪神優勝の際に、優勝記念として選手に純金のプレートが配られたが、小山はそのプレートに優勝年月日や球団名が彫られていることに対し『★削られた分の金はどうなる』とクレームを入れたことがあるという。
2012年には兵庫県立高砂高等学校の★同級生の計らいにより、小惑星に自らの名前(13553 Masaakikoyama)が命名されたことに驚き、「大きな土地をもろたよ。行かれへんけどな。」「現在、過去と生きてきて、天体とは全く縁がなかった。驚いてる、ビックリしてるというのが正直な感想。一度は見てみたいかな。」と語っている。 ※成績は略 (Wiki)
ーーーーーーーーーー M2:【大野 豊 (野球)(1955年8月30日 - )】 とは
★島根県出雲市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。現在は野球解説者として活動している。
1977年から1998年まで、広島東洋カープにおいて中継ぎ、先発、抑え投手として22年間フル回転し、昭和最後の沢村栄治賞を受賞している。
大野 豊
※広島東洋カープヘッド兼投手コーチ時代
(2011年3月5日 マツダスタジアム、左は福井優也)
基本情報
国籍 日本
出身地 島根県出雲市
生年月日 1955年8月30日(68歳)
身長 177 cm
体重 75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト外
初出場 1977年9月4日
最終出場 1998年9月27日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
島根県立出雲商業高等学校
出雲市信用組合 (軟式)
広島東洋カープ (1977 - 1998)
コーチ歴
広島東洋カープ (1999, 2010 - 2012)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者 選出年 2013年
得票率 84.3%(273票)
選出方法 競技者表彰
経歴は以下の通り。
1 プロ入り前
実家は★海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。 ★母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する。」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くための実学が商業高校であれば学べるということで出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、既にプロ入り後とほとんど変わらないフォームであった。 高校3年の夏には島根県でも注目され、強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。 しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある★出雲市信用組合へ就職、3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。 1976年、島根★県準優勝の島根県立出雲高等学校と練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し母親を楽にさせたいという気持ちを持った。
その3か月後の1976年秋、出雲★市内で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の★山本一義打撃コーチと主戦投手★池谷公二郎が講師として参加。 軟式野球部員は★手伝いをすることとなり、大野の高校時代の★監督が山本打撃コーチと法政大学野球部の先輩・後輩の関係であったため、高校時代の監督へプロへの道を作っていただけないかと頼んだ。 恩師に頼んだ経緯もあり、翌1977年2月に特別に受験することとなり、呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭教の立ち会いのもと1人だけの入団テストを受けて合格。3月6日、★軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たした(契約金なし、支度金100万円、年俸135万円、俸給は月額12万5千円)。
2 現役時代
1年目の1977年は9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみだったが、この時、片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど、掛布雅之からアウト一つを取ったのみで降板。 自責点5、★防御率135.00という成績で終わった。大野は後年、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。
1978年、南海ホークスから移籍してきた★江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられる形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始める。 江夏は当時の大野について「★月に向かって投げるようなフォームだった。 しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。 また、江夏は「俺と同じ『➊豊』と言う名で、俺と同じ➋母子家庭で育ち、俺と同じ➌左腕投手なのも何かの縁。 俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい!」と大野を評していた。 時に鉄拳も飛ぶ厳しい指導の末、やがて大野は★中継ぎの柱へと成長を遂げた。 同年10月9日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では2安打でプロ初完封勝利を記録したが、これはこの年の開幕から完封負けなしを続け、★史上初の「シーズン完封負けゼロ」(現在も未記録)を狙ったヤクルトをシーズン最終戦で初めて完封するという快挙となった。
1979年、中継ぎとしてリーグ最多の58試合に登板した。
1981年には、トレードで日本ハムファイターズへと移籍した江夏の後を受けてリリーフエースに抜擢され、「気の弱い大野に抑えは無理」と評されながらも同年8勝11セーブ、翌1982年には10勝11セーブを記録した。
1984年から先発に転向し、同年の日本シリーズ制覇、1986年のセ・リーグ優勝に貢献。1990年までに4度の2桁勝利を記録し、1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得、★昭和最後の沢村賞も受賞した。 13勝での沢村賞受賞は、2020年に大野雄大が11勝で受賞するまで歴代最少であった。 翌1989年にも防御率1.92を記録し、2年連続防御率1点台という出色の成績を収める。1970年から2007年までの間、2年連続防御率1点台を記録した選手は大野しかいない。
最速150 km/h近い➊ストレートに加え、★➋パームボール、 ➌真っスラ(ストレートとスライダーの中間軌道の変化球)、➍スラーブ(スライダーとカーブの中間軌道の変化球)、➎シュート、➏ドロップ、といったさまざまな変化球を駆使する様は「七色の変化球」と形容され、「精密機械」北別府学、「巨人キラー」川口和久らと共に、19★80年代広島投手王国を支えた。
1991年には、津田恒実とのダブルストッパー構想の下、リリーフに再転向するが、病気による津田の早期戦線離脱に伴い、クローザーの責務を一人で負うことになる。しかし大野はシーズンを通して抑えとして大活躍を見せ、★6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、また開幕から14試合連続セーブという日本記録(当時。開幕からの連続セーブとしては2017年現在も日本記録)も樹立。7月に札幌市円山球場で読売ジャイアンツの主砲フィル・ブラッドリーにサヨナラ本塁打を打たれストップ。 チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献し、優勝試合となった対阪神戦(10月13日)で胴上げ投手となった。
1992年も、26セーブでリーグ最多セーブを記録(36歳で開幕を迎えたシーズンのセーブ王獲得は20年後に岩瀬仁紀が37歳で開幕を迎えてセーブ王を獲得するまで最年長記録)。 9月16日の阪神戦において★新庄剛志にサヨナラ本塁打されたパームボールについて、その打たれ方のタイミングや飛距離からもう通用しないと判断したことをきっかけに同球種の使用を封印した。
1993年シーズンオフ、★MLBのカリフォルニア・エンゼルスから広島に、38歳になる年でありながら、大野を獲得したいという公式オファーがあった。 年俸100万ドル、専従通訳と住宅付きで1年間のレンタル契約、代わりの外国人選手を広島に1人紹介するという破格の内容だった。 しかし、当の本人はその翌年開幕時で38歳となる高齢などを理由にこれを固辞。 カープに愛着があり移籍するつもりはなかったことと、若い時にフロリダの教育リーグに行き、アメリカの大きくて滑るボールが自分の指になじまなかったことから、話を★聞いたその場でオファーを断ったという。 当時はまだ野茂英雄がアメリカで旋風を巻き起こす前であり、メジャー球団から日本の現役選手に、正式にオファーが掛かることは★史上初であった。
1995年、開幕から調子が上がらず、佐々岡真司と入れ替わる形で再び先発に転向した。 オールスター前までは先発でも今ひとつの内容が目立ったが、オールスター後は閉幕まで★6連勝を記録した。10月8日の対巨人戦、盟友原辰徳の引退試合では原の最終打席でワンポイント登板し★打ち取った。
1996年、40歳で迎えたシーズン、6年ぶりに★開幕投手を務めて8回3安打2失点の好投を見せたが、この試合を含めてなかなか勝利投手になれず、5月10日の登板6試合目に完封でシーズン初勝利を挙げた。 その後もローテーションをほぼ守り投げ続けていたが、8月中旬から約1か月間、★左上腕部動脈血栓症により戦列離脱。 本人によれば、「投げていてもボールに血が通っていない気がした。温かさも感じられない状態だった」という。 血栓の除去手術を受けた後、再発防止のため、それまで練習中一切行わなかった★水分摂取を行うようにした。当初は体が受け付けずに下痢を起こしたこともあったが次第に慣れていったという。
1997年、★41歳にして開幕を迎えながら好調を持続し、防御率2.85で2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。 タイトルは獲得したもののシーズン終盤に左腕は再び★血行障害の兆候が出ており、本人はタイトル獲得もかかっていた事もありなんとか規定投球回をクリアするために投げていた事を引退後に語っている。
1998年4月3日の広島市民球場での中日ドラゴンズとの開幕戦で、★史上最年長となる42歳での開幕投手を務めた。 同年4月12日に通算146勝目を記録。これにより記録した21年連続勝利は2009年に山本昌に更新されるまではセ・リーグ記録であった。 だが、持病となっていた血行障害が悪化し、8月4日の巨人戦においてワンポイントリリーフで登板した相手の当時新人だった★高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意した。
9月27日の自身の引退試合(相手球団は同年の日本シリーズを制覇する横浜ベイスターズ)は、既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員であった。 登板は中根仁に対するリリーフだけであったが、初球のストレートは★146 km/hを記録し、最後は142 km/hのストレートで空振り三振に切って取った。 中根は、引退試合の礼儀から対戦前から三振することを決めていた。しかし、初球の146 km/hのストレートを見て「これは★本気でぶつからないと失礼だ」と感じ、全力で向かい三振に終わった。 試合後の挨拶では、対戦した横浜の選手もセレモニーに参加し、その中で「★我が選んだ道に、悔いはなし!」と答え、ファンの大歓声を受けた。
引退当時の年齢は43歳、チーム在籍年数22年。通算148勝138セーブ、★生涯防御率2.90。生涯防御率2.90は、投球回数2000イニング以上の投手の中では歴代30位の成績である。
※北京オリンピックでの大野豊(2008年)
3 引退後
引退直後の1999年、広島の一軍投手コーチを務めたが、チーム防御率は4.78と前年の4.01より更に悪化。 3年連続でチーム防御率がリーグ最下位になるなど投手陣が低迷し、同年に責任を取って退団した。 退団後の2000年からはNHK解説者・スポーツニッポン大阪本社評論家を務める傍ら、2001年に始動したプロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに参加。村田兆治同様、引退後も現役時代と変わらぬ体格を維持し続け、マスターズリーグにおいても140 km/hを超える直球を投げるなど、50歳を越えても現役時代を彷彿とさせる姿を見せた。開幕初年度、★46歳ながら146 km/hの投球を見せ、ファンの度肝を抜いた。これは★マスターズリーグの最高球速記録である。 社会人野球・鳥取キタロウズのアドバイザーも務めた。
2004年のアテネオリンピック、2008年の北京オリンピックにおいては、星野仙一監督の下で野球日本代表の投手コーチを務め、アテネでは銅メダル獲得に貢献したものの、北京ではダルビッシュ有、涌井秀章、川上憲伸、岩瀬仁紀ら、そうそうたる選抜メンバーを擁したが、★中継ぎ専門投手を1人も選考せず、代わりに先発投手に中継ぎをやらせるなどした結果、投手陣崩壊を招き、金メダルを期待されながらメダル無しに終わった。
2010年より、野村謙二郎が監督となる広島のヘッド兼投手コーチに就任したが、前監督マーティ・ブラウンが導入した練習時の★➊投げ込み制限等を撤廃し、★先発投手には1試合で➋7から8イニングを投げるよう求めた。 さらに★ストライク先行を奨励していた前年までの配球を根本的に見直し、バッテリーには「➌ボール球を有効に使って考える」配球を求めた。このように投手陣の改革を断行した。
しかしオープン戦時点において先発投手陣の調子は全く上がらず、それをカバーするためにペナントレース開幕時には中継ぎ投手を多くブルペンに配置したが、「ブルペンでの球数制限」や「試合前にあらかじめ登板する中継ぎ投手を決めておく」等のブラウン政権時の良い点までも撤廃してしまい、代わりに「ブルペンで調子の良い投手から起用する」という方針を取った。 しかし、好調な中継ぎ投手は試合展開に関わらず連投となるなど結果的にシーズン半ばにして故障者が続出した。
キャンプから自己流の調整法を貫いた前田健太が投手3冠(勝利数・防御率・奪三振)のタイトルを獲得する奮闘を見せたものの、最終的なチーム防御率は前年から1.5点近く悪化させて4.80となった。 投手陣指導の最高責任者として去就が注目されていたが、広島球団はヘッドコーチの肩書きを外し投手チーフコーチとしての残留を発表した。 Aクラスやポストシーズン再び逃した2012年、背番号24を受け継いだ河内貴哉の2年半ぶりの支配下選手登録と5年ぶりの一軍登板を土産に同オフ退団した。
2013年にプレーヤー部門表彰で野球殿堂入りした。 同年からは再びNHK野球解説者・スポーツニッポンの評論家を務める[17]。これを記念し、母校の島根県立出雲商業高校で講演会を行った。
2014年の秋季キャンプでは阪神タイガースの臨時コーチを務める。
2021年12月5日、広島のOB会長に就任した。
プレースタイルとしては、★腰を極端に低くして、大地に踏ん張るように軸足を深く沈み込ませてタメを作る、独特の投球フォームだった。 このタメと数々の変化球によって打者のタイミングを外すことを得意としていたが、このフォームは★下半身を安定させることが難しく、真似をしようとする投手は現れなかった。 また、入団当時★広島のヘッドコーチだったドン・ブレイザーからは「それを直さない限り(試合で)使わない」と言われ、本人も矯正に努力していたそうだが、結局うまくいかず、かえって持ち味がなくなるということで諦めたという。
顔を隠すように右腕を掲げ、左腕を腰の後ろ側まで回す独特な上半身の動作は、先輩である★池谷公二郎のフォームと共通点が多く、大野自身は「豪快」と言われる池谷のフォームを評して「僕を右にしたようなフォーム」と述べていた。 若手時代はこの特徴が更に極端で、右腕は真上に突き上げて顔も上を向くような動作をしていたが、江夏の勧めにより前述の形に矯正したという。
投球時には「ストレートを投げるときのみ、足を上げるタイミングで★グローブをグッと握る」という癖があった。 これを当時巨人のスコアラーだった★三井康浩に見つけられ、それが原因で現役晩年は巨人にカモにされてしまった。 本人は癖の存在を現役当時は知らなかったようで、引退後NHKの解説者時代に三井と顔を合わせる機会があった際に、三井がそれを伝えたところ「お前ら汚いな(笑)」と語ったという。
人間関係として、広島のスカウトだった木庭教とは高校時代に知り合ったが、大野は高校卒業まで父方の姓を名乗っていたため、木庭は入団時に「大野豊」の名前を聞いた際、すぐには誰のことか分からず、改めて対面して初めて分かったという。
師匠とも言える江夏豊については「フォームや配球だけでなく★ロジンバッグの置き方に至るまで、本当に細かく指導された」「テスト生だった選手に、当時のスター選手がコーチをしてくださることは★夢のようだった」と感謝・尊敬の念を語り、引退後も『プロ野球リリーフ大鑑』(ベースボール・マガジン社)などで対談を行っている。
ただ、気難しい性格ですぐ手が出る部分については「ついていけないと思った」とも述べている。 なお、江夏は大野の大成について「彼の努力以外の何物でもない」と語っている。
親友でありチームメイトでもあった★達川光男や、掛布雅之、江川卓らと同学年である。 大野が現役晩年に最優秀防御率のタイトルを獲得した時(シーズン閉幕時点で42歳)は、既に引退して解説者として名を成していた彼らと比較して「現役で一軍にいることすら驚異的な年齢であるにもかかわらず」と語られることがしばしばあった。 彼らの学年は多くのスター選手を輩出したことで知られ、高校3年時が昭和48年だったことから“★花の48年組”とも呼ばれている。
野球では左投げ左打ちであったが、★ペンは右手で持つ。
2023年6月にチームメイトであった北別府学が死去した際、彼の葬儀で弔辞を読んだ。(Wiki)
※ 以下からは時数の関係上、お題の「パームボール」関連項目のみ ーーーーーーーーーー M3:【帆足和幸 】
選手としての特徴
スリークォーターの変則的なフォームから投げられる平均球速は約137km/h、最速146km/hのクセのある速球に、代名詞とも呼べる独特の★パームボール、カーブ、シュートなど多彩な変化球を使い、打者の低めに集める制球力や、思い切りのよいインコース攻め、ランナーを背負ってからの粘り強い投球などが持ち味である。
ウイニングショットのパームボールは、★指が短くフォークボールが習得できなかった帆足が★三井高校時代に必死にマスターし、生命線としていた。 同校の先輩も決め球にしており、その人物の★実家のハンバーガー店の屋号にちなんで「ビッキー」と命名していた。帆足のパームは軌道がスライダーに似ているため、スライドパームとも呼ばれる。
2008年キャンプでは、後輩の★岸孝之に頭を下げ、右打者対策としてチェンジアップを習得した。 2010年9月からカットボールも投げている。
人物・エピソード
高校時代はレスリング選手の池松和彦と3年間同じクラスであった。 九州三菱自動車時代は営業マンの傍らで野球に打ち込んでいた。
長髪がトレードマークだったが、2011年から選手会長就任したのを機にショートヘアにした。
漫画「ONE PIECE」の大ファンで、西武時代は高山久らとONE PIECE会を結成するほどで会長も務めていた。
尊敬している・理想像の選手は★工藤公康、高橋建、豊田清。
左投左打だが、★食事と筆記は右利きである[73]。
近鉄と楽天の両方を含む、★西武以外の12球団から勝ち星を挙げた。 ソフトバンク移籍後に古巣の西武に勝利すれば全球団勝利とともに工藤公康、杉内俊哉、寺原隼人の★3人に続く4人目の「13球団からの勝利」も達成するところであったが、西武から勝利することができないまま引退したためいずれも達成できなかった。(Wiki)
ーーーーーーーーーー M4:【浅尾拓也 】
選手としての特徴
※投球フォーム(2013年8月3日 横浜スタジアム)
細身の体から繰り出される平均球速約149 km/h、最速157 km/hの速球が最大の武器。 ストレートと縦に曲がるスライダー、平均球速約138 km/hの高速フォーク(握りが浅く、SFFに近い)、★120 km/h台のパームを持ち球として打者のタイミングを狂わす投球を持ち味としている。 但し本人は「スライダーに自信はない」、「★パームは抜けることが多いのでリリーフになってからはあまり投げていない」と発言している。
入団時の会見では、セールスポイントとして速球よりも「牽制とフィールディング」を最初にアピールしている。 バント処理でそのフィールディングの良さが見られ、2010年4月3日の阪神戦で関本賢太郎の送りバントをダブルプレーにした際には、監督の落合博満から「あのバント処理は浅尾にしかできない」と評され、2011年にはゴールデングラブ賞を受賞している。 フィールディングを磨くため、★試合前の守備練習では吉見一起と共に遊撃手または二塁手の守備位置に入り練習を行うことが日課となっている。
投球フォームは★➊テークバックが小さく➋腕の振りが速い➌スリークォーターで、これは高校時代に投手へ転向する前にやっていた★捕手の投げ方が影響しており、浅尾曰く「何度も直そうとしたがどうしてもこの投げ方に戻ってしまう」という。 クイックで走者の盗塁を防ぐことが多く、赤星憲広も上記の牽制・フィールディング・クイックを高く評価しており、赤星の現役時代は「★浅尾選手がマウンドにいるときだけは盗塁をしようと思わなかった」と語っている。
2011年まで中日監督を務めた落合からは、「浅尾と岩瀬でやられたら仕方ないんだから。それだけ2人を信頼している」と岩瀬仁紀と共に大きな信頼を寄せられ、2009年から2011年にかけては218試合に登板。 この間は登板過多も指摘されたが、本人は「イニング跨ぎは難しいが、1イニングだけなら何試合でも投げられる」と答えている。
打撃では、投手ながらプロ初安打で三塁打を放ち、ルーキーシーズンの2007年には11打数3安打(打率.273)を記録している。
人物として、チームメイトからは主に「★タク」と呼ばれ、ファンからの愛称は「浅尾きゅん」。
大学時代は、★中部国際空港で清掃のアルバイトをしながら野球に取り組んでいた。
チームの先輩である★岩瀬仁紀と同じく、★幼い頃からずっと愛知県内の学校・チームで過ごした選手である。 プロ入り時には好きな選手として★川上憲伸(中日)・藤川球児(阪神)を挙げていた。
愛知県理容組合が発表した2011年ニューヘアのモデルとなり、「★浅尾ヘア」としてヘアサロンのメニューとなる。
オフには病院や児童養護施設へ慰問を行っている。
2009年12月28日に10年間の交際期間を経て高校時代の同級生と結婚。その後、夫人は、月刊ドラゴンズにおいて不定期で浅尾の家庭内での表情などを描いている。2012年11月10日に第1子となる★長男が誕生した。
非常に謙虚かつ礼儀正しい性格で、2011年MVPに選ばれた際の記者会見では「自分には縁のない賞だと思っていたので、喜びより驚きの方が大きい」や「吉見の勝ちを2つ消しているので、★本当なら吉見は20勝。だから、吉見が選ばれると思った」と発言している。
2011年のリーグ連覇後、中日スポーツに手記を寄せている。本人曰く、この年は開幕戦でサヨナラでの負け投手になり、その時はブルペンでストライクが1球も入らないほど最悪のスタートだったという。 その時この年から中日に加入した佐伯貴弘から5月13日の阪神戦(甲子園)で3連打されて1点を失った試合後に「俺が対戦していた時のタクはガムシャラに腕を振っていた。どんどん攻めてきた。そこが嫌だったんだよ」と言われたこと、9月23日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)で押し出し四球でマキシモ・ネルソンの勝ちを消した試合で(本人曰く、★押し出し四球はプロに入ってこの時が初めてだった)、 通路奥で帽子を投げつけたシーンをテレビで見ていた父親からプロに入って初めて試合後に電話がかかってきたこと、この二つが2011年の転機だったと語っている。 また、その佐伯からはクライマックスシリーズにて「いつも通りが今のMAX」という言葉を帽子に記してもらったが、これは浅尾本人が何か力になる言葉をくれという要望に応えてもらったとのことである。 (Wiki)
ーーーーーーーーーー M5:【床田 寛樹 】
選手としての特徴・人物 最速152km/hのストレートとスライダー、ツーシーム、★パームボールを投げる。
バッティングも良く、自らは「森下暢仁よりも打撃が良い」と語っている。
床田と同級生で岐阜学生リーグで対戦経験豊富な★吉川尚輝(2016年度プロ野球ドラフト会議にて巨人から1位指名)に、2016年全日本大学野球選手権大会で優勝した感想として「普段のリーグ戦で床田らの球を見ているので、全国のピッチャーの球が特別すごいとは思わなかったです」と言わしめた。
アクトレスガールズ所属の★女子プロレスラーの澄川菜摘は従姉妹にあたる。
兄は大阪でパーソナルジムや飲食店等を経営する経営者である。またYouTubeチャンネル「あめんぼぷらす」の動画に出演している。 (Wiki)
ーーーーーーーーーー M6:【石井丈裕 】
プレースタイル ワインドアップのアーム式スリークォーターから最速148km/hの速球を投げる一方、★体幹がブレないため社会人時代から制球力には定評があった。 静かな投球フォームは「ジム・パーマー」のようだと評され、球持ちの長い事が制球の良さに繋がっていた。
1992年にはパ・リーグで規定投球回に達した投手で最少の28四球を記録し、翌年は191回2/3に投球回が増えながら四球数は増えていない。好調時には★ストライクゾーンの中でコースの投げ分けができたという。
アマチュア時代は速球と手元で曲がる➊スライダーを武器にしていたが、西武で小山正明コーチから➋パームボールを習得し、投球の幅が大きく広がった。 パームは★薬指、中指、人差し指の第2関節より下でボールに触れ、親指1本で持ち、小指を添えるような握りだった。 主に真ん中低めに投げていたが★手首を固定するためヒジや肩に負担がかかり、ヒジを故障する原因になったという。 パームは1992年の時点で球速が120km/h程度あり、★さらに遅くし、緩急を増すことを目標にしていた。
打撃については中学時代に基礎を習わず、高校では控え投手ということもあり、練習時間がなかった。 その後の社会人、プロでも指名打者制が採用されたため、ほぼ★素人に近いレベルだったという。 1992年の★日本シリーズ第7戦がプロで初めての打席だったが、この試合で岡林洋一からタイムリーを放っている。 (Wiki)
ーーーーーーーーーー M7:【パームボール (palmball) とは 】
野球における変化球の1つ。単にパームとも呼ばれる。
投法
「パーム」とは英語で「手のひら」の意味で、指を伸ばした状態で手のひらと親指、小指あるいは薬指も使用してボールを支え、手のひらで包んで押し出すように投げる。手のひらが柔らかかったり指が短かったりする投手に向いている。一方、握りが他の球種と大きく違うため打者に判別されやすいが、手首を捻る等の動作は必要無いため、★肩や肘に負担はかかりにくい。
変化
遅い球速で回転も少なく、リリース直後から★縦に大きく落ち始める。 リリースの瞬間は手のひらを転がるため、高めに投げ出されるような錯覚を打者に与えやすく、そこから落ちることでドロップと同様に打者の視線を上下させやすい。 無回転に近くナックルボールのように揺れて落ちるものや、横回転が加わってスライダー気味に変化するものもある。風や湿度といった天候状態により変化の度合いが大きく左右され、投げる度に違う変化を見せることもある。しかし、カーブやチェンジアップと同様に球速が遅く球に勢いがないため、タイミングを合わせられると長打になりやすい。
歴史
考案者については複数の説があり、はっきりしない。少なくとも戦中戦後において米球界でジム・コンスタンティーやサチェル・ペイジが投げていたとされる。
日本においては★1948年に➊近藤貞雄が右手中指の神経の損傷をきっかけに、曲がった中指をいかしたパームで再起を果たした。 また、➋小山正明はアメリカの雑誌を参考にパームを習得しテスト生から300勝投手になった。小山は後に➌石井丈裕にパームを伝授している。
現代のMLBでは①トレバー・ホフマンが決め球としていたほか、キャリア初期において②ロイ・ハラデイも投げていた。 NPBでは➍浅尾拓也や➎帆足和幸、➏床田寛樹らが投げる。 特に帆足がサイドスロー気味のスリー・クォーターから投げるパームは、★スライダーと間違われるほど横方向にも変化するため、帆足の投げるパームボールは「スライドパーム」と呼ばれることもあった。 (Wiki)
ーーー 初版20240406 昨日の東京都心大手町最低気温10.1℃ 最高気温15.1℃、、肌寒く朝から小雨。日中は上がったが寒くてジメジメだった、、
ー時節項追記前日深夜未明迄 ※5金の内容が中心 MLB結果追記同日 ① ▷足早に進む季節 全国的に気温高く 関東以西は曇りや雨の日多い~気象庁1カ月予報 14:38木 ▷関東は 花冷え 通勤時朝を中心に所々で雨予報 6:33 > 土日のお花見は土午前に晴れ間、7日は剥く広がる予想、、 【震災関連】▷ ➊ ▶台湾地震で注目 避難所テント 配備 20:38 ▶台湾地震 12人死亡 安否不明15人 13:59 ▶▷政府 台湾地震に1.5億円規模 支援 16:15 ② ▷川勝知事後継 リニア 「進める」 17:04 ▷ライドシェア 8日開始へ 23区など 21:21木 ▷警察 事件で司法取引 初適用か 18:14 ▷静岡県知事 訓示の発言 撤回 19:03 ▷「諦めしかない」 議員処分の 街の声 16:29 ▷世耕氏 次期衆院選 鞍替え意思 19:14 > …だから制裁にならないんだって、、(呆 ▷責任は国民判断 岸田首相の発言 波紋 21:20 > 意味不明。やるだけやったから後は適当に評価しろ、とでも? ▷「アウト・オブ・ザ・クエスチョン」 群馬知事 川勝知事を強く批判 22:49木 ▷全受験者 合格 国家試験で発表ミス 22:30木 ▷裏金巡る処分 議員ら39人決定 党内で批判も 6:56 > 裸一貫で 主な処分議員ら コメント 22:09木 > 間違えて欲しくないのは彼らは「悪い事」をしたからで、処分した人も「監督不行き届き」があった上に「当然の事」を「党利」を優先させ「軽微」で済ませるべくしただけの事。何も同情も(やった事に対して)賞賛すべきことも何1つない、と云う事。。 ▷岸田首相 米で日米の未来像 演説へ 7:39 > その前に日本の未来像なんおとかしてくれ~ ➋ ▶中露「無限の協力関係」の裏で 中国の密かな侵略 プ氏を窮地に追い込む 19:30水 ▶空爆巡り イスラエル軍が将校 解任 22:02 ▶イスラエル ガザ北部検問所 解放へ 11:03 ▶イスラエル支援 米が見直し 示唆 7:35 ▶中国がお見舞いに 謝意 台湾が避難 7:19 ③ ▷ドンキ 新業態1号店 1年足らず閉店 21:43 ▷人手不足倒産 23年度は 倍増 18:06 ▷ゆうちょ 通常貯金の金利 引き上げ 18:38 ▷白菜も春キャベツも 高値 生育遅れ 19:52 ➌ ▶タイ空港使用料 24年4月1日に改定 30THB上がって730THBに 3/29金 ▶米雇用統計 市場予想 大きく上回る 22:01 ▶マック イスラエル全店を 買収へ 21:32 ④ ▷子への頭部 磁気治療は危険 声明 21:45 ▷紅麹再検証 安全と評価 できず 18:04 ▷紅麹 供給先173社 被害報告なし 20:31 ▷LSDに似た成分 摂取 飛び降り死続く 18:33 ▷紅麹問題 受診患者1000人 超える 22:09 > これ、保険診療なら税金も使ってる、、小林製薬側は補償すんの?(子供が行ったら全額だが) ▷紅麹 9月製にプベルル酸 多く検出 22:44木 ➍▶ ⑤ ▷▶高梨沙羅の焦り 北の大地に 異変 17:54 > W杯でも少雪で試合ができないことがここ数年続いている事があるからだとか ➎ ▶富永啓生 米大学の3Pコンテスト V 13:40 ▶東京五輪 南ア代表DF 射殺される 10:17 ▶▷米ツアー、バレロテキサスOP 松山E、久常1アンダー 8:38 > マスターズの前週、、 ⑥ ▷三笠市役所に 不発弾 持ち込みか~北海道 16:17 ➏ ▶南極大陸 ペンギン死骸 500羽余り 14:43 ▶仏女性不明 日本に3度目 捜査要請 20:11 ▶1日平均300隻 EEZ内違法操業中国漁船 勧告警備隊が拿捕 18:01木 ⑦▷➐▶ ⑧ ▷175R、SHOGO セブ島で生活 14:32 > 新庄みたい ▷大根切ったら青く変色 「大根青変症」は食べても大丈夫? > 農水省は(青くなる原因や物質は)解明されていないが食べても害はない、」が早めに消費 とのこと。 ▷大阪まで鉄道か飛行機 「1本で行ける」都道府県 意外な空白地帯 20:15👇 ➑ ▶TWICE・チョンヨン熱愛 事務所 認める 10:28 ▶ロックバンド「Kiss」楽曲を売却 17:54 > 就活? ▶キリスト磔系の現場に新説 学会を仰天 ある考古学者の提言 4木 ⑨ ▷神 佐藤輝決勝HRで延長戦制す 今季初の初戦勝ち 金 ▷神宮球場 屈辱的な替え歌 止めて 19:40 > いつも思うが何故? これもヤジの1つで、立派な日本野球の文化の1つなのでは? ▷巨・大勢 自己最速160㎞ どよめき 23:01 > 東京Dの応援系忖度表示ならやや信用出来んがバンテリンか、、 ▷最下位 阪神・岡田監「想定外」7:23 【NPBペナント試合結果】 《セ》▷De2‐1巨 ▷神7‐6ヤ [延長10回] ▷中1‐0広 《パ》▷西2‐3ハ [延長12回サヨナラ] ▷ソ6‐1楽 ▷オ0‐1ロ 《順位表👇 ;出展 スポナビ》 ➒ ▶大谷 迫る松井秀喜の HR記録 11:50 > いつも思うが比べて何の意味が? ▶皆既月食 NY戦の時間 変更 17:44 ▶水原氏の疑惑 室伏長官 釘をさす 19:33 ▶大谷1号 キャッチ女性は 球団関係者らしき人物と共にその場を後に 19:00 > 買収したんだろうね、、記念品だから ▶大谷本塁打 口にした 周囲への感謝 6:09 【MLB結果】 《A》Ga4-2Tw ▶WS1-10Roy 《N》▶P7-4Nat ▶マーリ5-8Kaj 《I》▶T6-3Met ▶T1-2Met ⑩▷➓▶ ⑪【性被害・J関連】▷
👉NPB順位《セ》 ※4/5 22:17 第2週後半1戦終了時 1 De 5勝2敗0分 ー 次戦 巨 東京D 2 広 3勝3敗0分① 1.5 次戦 中 マツダ 2△中 3勝3敗1分 0 4△神 3勝4敗0分 0.5 4▼巨 2勝4敗0分 0 6▼ヤ 2勝3敗1分① 0 次戦 神 神宮 👉NPB順位《パ》 ※同上 3カード目 22:47最終更新 1 ソ 5勝2敗0分 ー 次戦 楽 楽天M 2△ハ 4勝2敗0分① 0.5 3▼西 4勝3敗0分 0.5 次戦 ハ エスコンF 4△ロ 3勝4敗0分 1.0 次戦 オ ZOZOマ 5▼楽 2勝4敗0分① 0.5 6▼オ 2勝5敗0分 0.5 ※ 丸数字は雨天中止・移動日など 未消化数
ー (画像・ 1) 握り方 /パームボールの投げ方って知ってますか? I am blieber
(画像・ 2) 浅尾 /中日・浅尾拓也コーチが『パームボール』を語る ドラ要素@のもとけ
(画像・ 3) 小山正明 /小山正明×福本豊②】320勝投手が語る印象に残った選手 Youtube
(画像・ 4) 日本で初めてパームボールを投げたとされる近藤貞雄氏。。/追悼 近藤貞雄 コーチ スギノケン・カーターのトレーニングルーム
(画像・ 5) 石井丈裕。 上記、小山正明氏からパームボールを伝授された。。 /魔球“パームボール”は諸刃の剣 92年パ・リーグMVP 古田の方程式 Youtube
(画像・ 6) 浅尾拓也。彼と岩瀬仁紀が投げて負けたら「仕方がない、、」とまで落合監督に言わしめたというくらいの絶対的な信頼があった。 上;引退試合で/時事通信
下;/竜浮上のカギ握る「最強方程式」の復活
(画像・ 7上中下) 大野豊 上/広島カープ 大野豊 (24) note
中;師匠の江夏豊氏の投球フォーム/連続写真】江夏豊 球史に残る驚異の奪三振王 野球コラム
下;若き日の大野氏と江夏氏。 江夏は名前が同じで母子家庭と云う境遇も同じだった新人大野に眼をかけ、可愛がっていたとか。 /鯉のはなシアター
≪参考動画のURL; 【超希少変化球…】マリーンズ打線『床田寛樹の“パームボール”』に大苦戦!? 👉https://youtu.be/jSbDpJivvPs≫
≪参考動画のURL; 【変化球】驚愕パームボール!エグい魔球を投げる選手たち 帆足・浅尾・金村暁・藤沢公也・大野豊・小山正明・石井・ Youtube野球ナイン 10:00👉https://youtu.be/eZ6ZHJSiUoc≫
ー ※以下は時節項画像 👇 ⑧👉(画像・ 8) 北陸新幹線が更に伸びると関東は随分と減りそうですね、、(でも京都接続だったっけ?) 徳島の方々って大阪へ1本で行けないんですね、、(知らなかった /日本地図で大阪まで1本で行ける都道府県 ねとらば ヤフーニュース
(画像・)/
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