あれってそれってどんな選手だったの? ~ 元阪急、松永浩美氏がプロに入って目指したMLB選手
ー ※野球人物内容含み
『エディ・マレー 』、、と云うスイッチヒッターで3000安打達成した打者 なのだとか。。
--※「目標」セット単語 เป้าหมาย /pâw mǎayパオ マーイ 目標,目的,志,ねらい,ターゲット
จุดหมาย /cùt mǎayジュット マーイ 目標,目的,ゴール
ที่หมาย /thîi mǎayティー マーイ 目標,目的,目的地
★มุ่งหมาย /mûŋ mǎayムン マーイ 志す,目標とする,目的とする
ตั้งเป้าหมาย /tâŋ pâwmǎayタン パオマーイ 目標を立てる
คลาด /khlâatクラート 見失う,外れる[目標から] ※ごったい先生作
จุดหมาย /cùt mǎayジュット マーイ 目標,目的,ゴール
ที่หมาย /thîi mǎayティー マーイ 目標,目的,目的地
★มุ่งหมาย /mûŋ mǎayムン マーイ 志す,目標とする,目的とする
ตั้งเป้าหมาย /tâŋ pâwmǎayタン パオマーイ 目標を立てる
คลาด /khlâatクラート 見失う,外れる[目標から] ※ごったい先生作
ーーーーーーーーーーーーーーーー M:【エディ・クラレンス・マレー(Eddie Clarence Murray, 1956年2月24日 - ) とは 】
アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手(一塁手)。
ニックネームは"Steady Eddie"(ステディ・エディ、怪我なく安定して好成績を残し続けられるため)。
★史上3人目となる3000安打・500本塁打を達成し、史上最高のスイッチヒッターとの呼び声も高い。
ニックネームは"Steady Eddie"(ステディ・エディ、怪我なく安定して好成績を残し続けられるため)。
★史上3人目となる3000安打・500本塁打を達成し、史上最高のスイッチヒッターとの呼び声も高い。
エディ・マレーEddie Murray
※ボルチモア・オリオールズ時代(1977年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州ロサンゼルス
生年月日 1956年2月24日(68歳)
身長 6' 2" =約188 cm
体重 200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手
プロ入り 1973年 ドラフト3巡目(全体63位)でボルチモア・オリオールズから指名
初出場 1977年4月7日
最終出場 1997年9月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
ボルチモア・オリオールズ (1977 - 1988)
ロサンゼルス・ドジャース (1989 - 1991)
ニューヨーク・メッツ (1992 - 1993)
クリーブランド・インディアンス (1994 - 1996)
ボルチモア・オリオールズ (1996)
アナハイム・エンゼルス (1997)
ロサンゼルス・ドジャース (1997)
コーチ歴
ボルチモア・オリオールズ (1998 - 2001)
クリーブランド・インディアンス (2002 - 2005)
ロサンゼルス・ドジャース (2006 - 2007)
アメリカ野球殿堂
殿堂表彰者 選出年 2003年
得票率 85.28%
選出方法 BBWAA[:en]選出
経歴
プロ入り前
ロック高等学校、★オジー・スミスとチームメイトだった。
※ボルチモア・オリオールズ時代(1977年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州ロサンゼルス
生年月日 1956年2月24日(68歳)
身長 6' 2" =約188 cm
体重 200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手
プロ入り 1973年 ドラフト3巡目(全体63位)でボルチモア・オリオールズから指名
初出場 1977年4月7日
最終出場 1997年9月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
ボルチモア・オリオールズ (1977 - 1988)
ロサンゼルス・ドジャース (1989 - 1991)
ニューヨーク・メッツ (1992 - 1993)
クリーブランド・インディアンス (1994 - 1996)
ボルチモア・オリオールズ (1996)
アナハイム・エンゼルス (1997)
ロサンゼルス・ドジャース (1997)
コーチ歴
ボルチモア・オリオールズ (1998 - 2001)
クリーブランド・インディアンス (2002 - 2005)
ロサンゼルス・ドジャース (2006 - 2007)
アメリカ野球殿堂
殿堂表彰者 選出年 2003年
得票率 85.28%
選出方法 BBWAA[:en]選出
経歴
プロ入り前
ロック高等学校、★オジー・スミスとチームメイトだった。
また、2人と同時期に、NFLのニューヨーク・ジェッツのディフェンス・コーディネーター、ドニー・ヘンダーソンも同高校へ通っていた。
プロ入りとオリオールズ時代(1977年 - 1988年)
1973年のドラフト3巡目(全体63位)でボルチモア・オリオールズから指名を受けた。
1977年4月7日にメジャーデビュー。
1973年のドラフト3巡目(全体63位)でボルチモア・オリオールズから指名を受けた。
1977年4月7日にメジャーデビュー。
160試合に出場して打率.283、28本塁打、88打点を記録し、ミッチェル・ページ、バンプ・ウィルスらを抑えて★新人王に選出された。
シーズン100三振(104)を喫したのは自身最初で最後であった。
守備ではリー・メイがこの年まで一塁手を守り、マレーは指名打者での出場が多かった。 翌年からは一塁手としての出場が一気に増えた。
1978年は打率.285、27本塁打、95打点、OPS.836などの成績を残し、MVP投票では8位に入った。
1980年は打率.300、32本塁打、116打点、OPS.873などの成績を残し、MVP投票では6位に入った。
1981年は1981年のMLBストライキの影響で22本塁打・78打点ながら★2冠を獲得した。
1982年は打率.316、32本塁打、110打点、OPS.940などの成績を残し、MVP投票ではロビン・ヨーントに次ぐ2位に入った。
1983年、自己最多の33本塁打を記録し、★シルバースラッガー賞を初受賞。カル・リプケン・ジュニアやエースのスコット・マクレガーなどと共にチームの★ワールドシリーズ制覇に貢献し、MVP投票ではチームメイトのリプケンに次ぐ2位に入った。
1984年は打率.306、29本塁打、110打点、OPS.918などの成績を残し、MVP投票では4位に入った。 オフに日米野球で来日した際には全14試合に出場し本塁打9本を放ち、槙原寛己から★平和台球場史上最長と言われる場外本塁打を放っている。
1985年は打率.297、31本塁打、124打点、OPS.906などの成績を残し、MVP投票では5位に入った。
1988年12月14日に★ロサンゼルス・ドジャースにトレード移籍。
1978年は打率.285、27本塁打、95打点、OPS.836などの成績を残し、MVP投票では8位に入った。
1980年は打率.300、32本塁打、116打点、OPS.873などの成績を残し、MVP投票では6位に入った。
1981年は1981年のMLBストライキの影響で22本塁打・78打点ながら★2冠を獲得した。
1982年は打率.316、32本塁打、110打点、OPS.940などの成績を残し、MVP投票ではロビン・ヨーントに次ぐ2位に入った。
1983年、自己最多の33本塁打を記録し、★シルバースラッガー賞を初受賞。カル・リプケン・ジュニアやエースのスコット・マクレガーなどと共にチームの★ワールドシリーズ制覇に貢献し、MVP投票ではチームメイトのリプケンに次ぐ2位に入った。
1984年は打率.306、29本塁打、110打点、OPS.918などの成績を残し、MVP投票では4位に入った。 オフに日米野球で来日した際には全14試合に出場し本塁打9本を放ち、槙原寛己から★平和台球場史上最長と言われる場外本塁打を放っている。
1985年は打率.297、31本塁打、124打点、OPS.906などの成績を残し、MVP投票では5位に入った。
1988年12月14日に★ロサンゼルス・ドジャースにトレード移籍。
3球団所属時(1989年 - 1996年)
89年から90年代前半はドジャース(1989年 - 1991年)、ニューヨーク・メッツ(1992年 - 1993年)、クリーブランド・インディアンス(1994年 - 1996年)と移籍しており、1989年には現役中ながらオリオールズでマレーの背番号『33』が永久欠番に指定されている(正式に指定されたのは引退後の1998年。後述。)。
1990年は打率.330・26本塁打・95打点・OPS.934などの成績を残し、MVP投票では5位に入った。
インディアンス在籍時の1995年6月30日、通算3000安打を達成。
89年から90年代前半はドジャース(1989年 - 1991年)、ニューヨーク・メッツ(1992年 - 1993年)、クリーブランド・インディアンス(1994年 - 1996年)と移籍しており、1989年には現役中ながらオリオールズでマレーの背番号『33』が永久欠番に指定されている(正式に指定されたのは引退後の1998年。後述。)。
1990年は打率.330・26本塁打・95打点・OPS.934などの成績を残し、MVP投票では5位に入った。
インディアンス在籍時の1995年6月30日、通算3000安打を達成。
ちなみに達成当時チームメイトにデーブ・ウィンフィールドが在籍しており、史上2組目の3000安打達成者が2人在籍となった。
オリオールズ復帰(1996年)
1996年シーズン途中にフラッグシップ・トレードによってオリオールズに復帰し、永久欠番である背番号『33』をつけてプレー。
1996年シーズン途中にフラッグシップ・トレードによってオリオールズに復帰し、永久欠番である背番号『33』をつけてプレー。
同年9月6日に500本塁打を達成し、➊ハンク・アーロン、➋ウィリー・メイズに次いで史上3人目となる3000安打・500本塁打を達成した。
なお、MLBでシーズン40本塁打を記録しないまま通算500本塁打に到達したのはマレーが現時点で唯一である(★NPBでは張本勲、衣笠祥雄、清原和博もシーズン40本塁打を記録しないまま通算500本塁打を達成している)。
その後引退まで(1997年)
1997年はアナハイム・エンゼルスに移籍し、1997年シーズン途中に再びドジャースに移籍して9月20日に現役引退を表明した。
1997年はアナハイム・エンゼルスに移籍し、1997年シーズン途中に再びドジャースに移籍して9月20日に現役引退を表明した。
引退後
※マレーのオリオールズ在籍時の背番号「33」。
ボルチモア・オリオールズの永久欠番に1998年指定。
2007年
引退の翌1998年6月7日に現役時代にもっとも活躍したオリオールズで、正式にマレーの背番号『33』が永久欠番に指定、欠番表彰式が行われた。
2003年に資格取得1年目でゲイリー・カーターとともにアメリカ野球殿堂入りを果たした。
引退後は1998年から2001年まで古巣オリオールズで一塁ベースコーチ、2002年から2005年までインディアンス、2006年から2007年までドジャースで打撃コーチを歴任している。
※マレーのオリオールズ在籍時の背番号「33」。
ボルチモア・オリオールズの永久欠番に1998年指定。
2007年
引退の翌1998年6月7日に現役時代にもっとも活躍したオリオールズで、正式にマレーの背番号『33』が永久欠番に指定、欠番表彰式が行われた。
2003年に資格取得1年目でゲイリー・カーターとともにアメリカ野球殿堂入りを果たした。
引退後は1998年から2001年まで古巣オリオールズで一塁ベースコーチ、2002年から2005年までインディアンス、2006年から2007年までドジャースで打撃コーチを歴任している。
選手としての特徴
メジャーデビューした1977年から★20年連続で75打点以上を記録しており、これは★MLB唯一の記録である。
メジャーデビューした1977年から★20年連続で75打点以上を記録しており、これは★MLB唯一の記録である。
通算504本塁打は、スイッチヒッターとしてはミッキー・マントル(536本塁打)に次ぐ歴代2位の記録だが、通算安打、通算打点はいずれもマントルを上回っており、しばしば史上最高のスイッチヒッターと称される。
満塁本塁打を通算19本打っており、引退当時は歴代2位だったが、現在はアレックス・ロドリゲス、ルー・ゲーリッグ、マニー・ラミレスに次ぐ歴代4位となっている。
スイッチヒッターとして通算安打数や通算打点数ではミッキー・マントルの記録を破っているが、3000安打・500本塁打を達成したにもかかわらず、自身の打撃タイトルは★1981年の本塁打・打点の2冠のみである。
スイッチヒッターとして通算安打数や通算打点数ではミッキー・マントルの記録を破っているが、3000安打・500本塁打を達成したにもかかわらず、自身の打撃タイトルは★1981年の本塁打・打点の2冠のみである。
しかし、毎年怪我も少なく、主軸として3割・30本塁打・100打点前後の成績を達成して試合に出続けた。
その姿勢には後輩であり、連続出場の記録を持つカル・リプケン・ジュニアにも大きく影響を及ぼしたと言われる。
詳細情報
年度別打撃成績
年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二 三 本 塁打 打点 盗 盗死 犠打 犠飛 四 敬死 三振 併殺 打率 出塁率 長打率 OPS
1977 BAL 160 666 611 81 173 29 2 27 287 88 0 1 0 6 48 6 1 104 22 .283 .333 .470 .803
1978 161 690 610 85 174 32 3 27 293 95 6 5 1 8 70 7 1 97 15 .285 .356 .480 .836
1979 159 687 606 90 179 30 2 25 288 99 10 2 1 6 72 9 2 78 16 .295 .369 .475 .844
1980 158 683 621 100 186 36 2 32 322 116 7 2 0 6 54 10 2 71 18 .300 .354 .519 .873
1981 99 422 378 57 111 21 2 22 202 78 2 3 0 3 40 10 1 43 10 .294 .360 .534 .894
1982 151 627 550 87 174 30 1 32 302 110 7 2 0 6 70 18 1 82 17 .316 .391 .549 .940
1983 156 680 582 115 178 30 3 33 313 111 5 1 0 9 86 13 3 90 13 .306 .393 .538 .931
1984 162 705 588 97 180 26 3 29 299 110 10 2 0 8 107 25 2 87 9 .306 .410 .509 .919
1985 156 677 583 111 173 37 1 31 305 124 5 2 0 8 84 12 2 68 8 .297 .383 .523 .906
1986 137 578 495 61 151 25 1 17 229 84 3 0 0 5 78 7 0 49 17 .305 .396 .463 .859
1987 160 694 618 89 171 28 3 30 295 91 1 2 0 3 73 6 0 80 15 .277 .352 .477 .829
1988 161 681 603 75 171 27 2 28 286 84 5 2 0 3 75 8 0 78 20 .284 .361 .474 .835
1989 LAD 160 690 594 66 147 29 1 20 238 88 7 2 0 7 87 24 2 85 12 .247 .342 .401 .743
1990 155 645 558 96 184 22 3 26 290 95 8 5 0 4 82 21 1 64 19 .330 .414 .520 .934
1991 153 639 576 69 150 23 1 19 232 96 10 3 0 8 55 17 0 74 17 .260 .321 .403 .724
1992 NYM 156 625 551 64 144 37 2 16 233 93 4 2 0 8 66 8 0 74 15 .261 .336 .423 .759
1993 154 659 610 77 174 28 1 27 285 100 2 2 0 9 40 4 0 61 24 .285 .325 .467 .792
1994 CLE 108 467 433 57 110 21 1 17 184 76 8 4 0 3 31 6 0 53 8 .254 .302 .425 .727
1995 113 480 436 68 141 21 0 21 225 82 5 1 0 5 39 5 0 65 12 .323 .375 .516 .891
1996 88 374 336 33 88 9 1 12 135 45 3 0 0 4 34 2 0 45 13 .262 .326 .402 .728
BAL 64 263 230 36 59 12 0 10 101 34 1 0 0 6 27 4 0 42 6 .257 .327 .439 .766
'96計 152 637 566 69 147 21 1 22 236 79 4 0 0 10 61 6 0 87 19 .260 .327 .417 .744
1997 ANA 46 176 160 13 35 7 0 3 51 15 1 0 0 3 13 0 0 24 8 .219 .273 .319 .592
LAD 9 9 7 0 2 0 0 0 2 3 0 0 0 0 2 0 0 2 2 .286 .444 .286 .730
'97計 55 185 167 13 37 7 0 3 53 18 1 0 0 3 15 0 0 26 10 .222 .281 .317 .598
MLB:21年 3026 12817 11336 1627 3255 560 35 504 5397 1917 110 43 2 128 1333 222 18 1516 316 .287 .359 .476 .835
各年度の太字はリーグ最高、赤太字 はMLB歴代最高
年度別守備成績
内野守備
年 球団 一塁(1B) 三塁(3B)試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1977 BAL 42 368 17 3 34 .992 -
1978 157 1504 106 5 143 .997 3 3 6 1 1 .900
1979 157 1456 107 10 135 .994 -
1980 154 1369 77 9 158 .994 -
1981 99 899 91 1 98 .999 -
1982 149 1269 97 4 106 .997 -
1983 153 1393 114 10 136 .993 -
1984 159 1538 143 13 152 .992 -
1985 154 1338 152 19 154 .987 -
1986 119 1045 88 13 100 .989 -
1987 156 1371 145 10 146 .993 -
1988 103 867 106 11 101 .989 -
1989 LAD 159 1316 137 6 122 .996 2 0 0 0 0 ----
1990 150 1180 113 10 88 .992 -
1991 149 1327 128 7 96 .995 1 0 0 0 0 ----
1992 NYM 154 1283 96 12 109 .991 -
1993 154 1319 111 18 118 .988 -
1994 CLE 26 243 14 3 25 .988 -
1995 18 160 22 3 12 .984 -
1996 1 10 1 0 0 1.000 -
MLB 2413 21255 1865 167 2033 .993 6 3 6 1 1 .900
外野守備
年 球団 左翼(LF)試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1977 BAL 3 6 0 0 0 1.000
MLB 3 6 0 0 0 1.000
各年度の太字はリーグ最高
赤文字はMLBにおける歴代最高
各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
タイトル
本塁打王:1回(1981年)
打点王:1回(1981年)
年度別打撃成績
年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二 三 本 塁打 打点 盗 盗死 犠打 犠飛 四 敬死 三振 併殺 打率 出塁率 長打率 OPS
1977 BAL 160 666 611 81 173 29 2 27 287 88 0 1 0 6 48 6 1 104 22 .283 .333 .470 .803
1978 161 690 610 85 174 32 3 27 293 95 6 5 1 8 70 7 1 97 15 .285 .356 .480 .836
1979 159 687 606 90 179 30 2 25 288 99 10 2 1 6 72 9 2 78 16 .295 .369 .475 .844
1980 158 683 621 100 186 36 2 32 322 116 7 2 0 6 54 10 2 71 18 .300 .354 .519 .873
1981 99 422 378 57 111 21 2 22 202 78 2 3 0 3 40 10 1 43 10 .294 .360 .534 .894
1982 151 627 550 87 174 30 1 32 302 110 7 2 0 6 70 18 1 82 17 .316 .391 .549 .940
1983 156 680 582 115 178 30 3 33 313 111 5 1 0 9 86 13 3 90 13 .306 .393 .538 .931
1984 162 705 588 97 180 26 3 29 299 110 10 2 0 8 107 25 2 87 9 .306 .410 .509 .919
1985 156 677 583 111 173 37 1 31 305 124 5 2 0 8 84 12 2 68 8 .297 .383 .523 .906
1986 137 578 495 61 151 25 1 17 229 84 3 0 0 5 78 7 0 49 17 .305 .396 .463 .859
1987 160 694 618 89 171 28 3 30 295 91 1 2 0 3 73 6 0 80 15 .277 .352 .477 .829
1988 161 681 603 75 171 27 2 28 286 84 5 2 0 3 75 8 0 78 20 .284 .361 .474 .835
1989 LAD 160 690 594 66 147 29 1 20 238 88 7 2 0 7 87 24 2 85 12 .247 .342 .401 .743
1990 155 645 558 96 184 22 3 26 290 95 8 5 0 4 82 21 1 64 19 .330 .414 .520 .934
1991 153 639 576 69 150 23 1 19 232 96 10 3 0 8 55 17 0 74 17 .260 .321 .403 .724
1992 NYM 156 625 551 64 144 37 2 16 233 93 4 2 0 8 66 8 0 74 15 .261 .336 .423 .759
1993 154 659 610 77 174 28 1 27 285 100 2 2 0 9 40 4 0 61 24 .285 .325 .467 .792
1994 CLE 108 467 433 57 110 21 1 17 184 76 8 4 0 3 31 6 0 53 8 .254 .302 .425 .727
1995 113 480 436 68 141 21 0 21 225 82 5 1 0 5 39 5 0 65 12 .323 .375 .516 .891
1996 88 374 336 33 88 9 1 12 135 45 3 0 0 4 34 2 0 45 13 .262 .326 .402 .728
BAL 64 263 230 36 59 12 0 10 101 34 1 0 0 6 27 4 0 42 6 .257 .327 .439 .766
'96計 152 637 566 69 147 21 1 22 236 79 4 0 0 10 61 6 0 87 19 .260 .327 .417 .744
1997 ANA 46 176 160 13 35 7 0 3 51 15 1 0 0 3 13 0 0 24 8 .219 .273 .319 .592
LAD 9 9 7 0 2 0 0 0 2 3 0 0 0 0 2 0 0 2 2 .286 .444 .286 .730
'97計 55 185 167 13 37 7 0 3 53 18 1 0 0 3 15 0 0 26 10 .222 .281 .317 .598
MLB:21年 3026 12817 11336 1627 3255 560 35 504 5397 1917 110 43 2 128 1333 222 18 1516 316 .287 .359 .476 .835
各年度の太字はリーグ最高、赤太字 はMLB歴代最高
年度別守備成績
内野守備
年 球団 一塁(1B) 三塁(3B)試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1977 BAL 42 368 17 3 34 .992 -
1978 157 1504 106 5 143 .997 3 3 6 1 1 .900
1979 157 1456 107 10 135 .994 -
1980 154 1369 77 9 158 .994 -
1981 99 899 91 1 98 .999 -
1982 149 1269 97 4 106 .997 -
1983 153 1393 114 10 136 .993 -
1984 159 1538 143 13 152 .992 -
1985 154 1338 152 19 154 .987 -
1986 119 1045 88 13 100 .989 -
1987 156 1371 145 10 146 .993 -
1988 103 867 106 11 101 .989 -
1989 LAD 159 1316 137 6 122 .996 2 0 0 0 0 ----
1990 150 1180 113 10 88 .992 -
1991 149 1327 128 7 96 .995 1 0 0 0 0 ----
1992 NYM 154 1283 96 12 109 .991 -
1993 154 1319 111 18 118 .988 -
1994 CLE 26 243 14 3 25 .988 -
1995 18 160 22 3 12 .984 -
1996 1 10 1 0 0 1.000 -
MLB 2413 21255 1865 167 2033 .993 6 3 6 1 1 .900
外野守備
年 球団 左翼(LF)試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1977 BAL 3 6 0 0 0 1.000
MLB 3 6 0 0 0 1.000
各年度の太字はリーグ最高
赤文字はMLBにおける歴代最高
各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
タイトル
本塁打王:1回(1981年)
打点王:1回(1981年)
表彰
新人王(1977年)
シルバースラッガー賞(一塁手部門):3回(1983年、1984年、1990年)
ゴールドグラブ賞(一塁手部門):3回(1982年 - 1984年)
アメリカ野球殿堂(2003年)
→詳細は「en:2003 Baseball Hall of Fame balloting」を参照
記録
MLBオールスターゲーム選出:8回(1978年、1981年 - 1986年、1991年)
諸記録
ワールドシリーズ優勝:1回(1983年)
通算左右打席本塁打:11(歴代4位タイ)
通算試合:3026(歴代7位タイ)
通算安打:3255(歴代13位)
通算本塁打:504(歴代27位)
通算犠飛:128(歴代1位)
通算一塁手守備試合:2413(歴代1位)
その他のスイッチヒッターとしてのMLB記録
通算満塁本塁打:19(歴代4位)
通算打点:1917(歴代11位)
通算長打:1099(歴代22位)
通算敬遠:222(歴代12位)
通算併殺打:315(歴代8位タイ)
背番号
33(1977年 - 1997年)※ボルチモア・オリオールズでは永久欠番
新人王(1977年)
シルバースラッガー賞(一塁手部門):3回(1983年、1984年、1990年)
ゴールドグラブ賞(一塁手部門):3回(1982年 - 1984年)
アメリカ野球殿堂(2003年)
→詳細は「en:2003 Baseball Hall of Fame balloting」を参照
記録
MLBオールスターゲーム選出:8回(1978年、1981年 - 1986年、1991年)
諸記録
ワールドシリーズ優勝:1回(1983年)
通算左右打席本塁打:11(歴代4位タイ)
通算試合:3026(歴代7位タイ)
通算安打:3255(歴代13位)
通算本塁打:504(歴代27位)
通算犠飛:128(歴代1位)
通算一塁手守備試合:2413(歴代1位)
その他のスイッチヒッターとしてのMLB記録
通算満塁本塁打:19(歴代4位)
通算打点:1917(歴代11位)
通算長打:1099(歴代22位)
通算敬遠:222(歴代12位)
通算併殺打:315(歴代8位タイ)
背番号
33(1977年 - 1997年)※ボルチモア・オリオールズでは永久欠番
(出展; /Wiki)
ーーーーーーーー M2:【松永 浩美(まつなが ひろみ、1960年9月27日 - ) とは 】
★福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)出身の元プロ野球選手(内野手)。
日本プロ野球(NPB)★史上最高のスイッチヒッターと称される。
日本プロ野球(NPB)★史上最高のスイッチヒッターと称される。
松永 浩美
国籍 日本
出身地 福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)
生年月日 1960年9月27日(64歳)
身長 180 cm
体重 78 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 三塁手、遊撃手
プロ入り 1978年 ドラフト外
初出場 1981年5月10日
最終出場 1997年5月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
福岡県立小倉工業高等学校(中退)
阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ (1979 - 1992)
阪神タイガース (1993)
福岡ダイエーホークス (1994 - 1997)
コーチ歴
群馬ダイヤモンドペガサス (2014)
松永 浩美公式サイト 松永浩美公式HP
YouTubeチャンネル 松永浩美チャンネル
活動期間 2019年8月2日 -
ジャンル 野球
登録者数 8470人
総再生回数 750,081 回
チャンネル登録者数・総再生回数は2022年7月30日時点。
経歴
野球を始めたのは中学1年時の途中からで、小学生時代には、地元のサッカー少年団でFWとして活躍していた。
国籍 日本
出身地 福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)
生年月日 1960年9月27日(64歳)
身長 180 cm
体重 78 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 三塁手、遊撃手
プロ入り 1978年 ドラフト外
初出場 1981年5月10日
最終出場 1997年5月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
福岡県立小倉工業高等学校(中退)
阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ (1979 - 1992)
阪神タイガース (1993)
福岡ダイエーホークス (1994 - 1997)
コーチ歴
群馬ダイヤモンドペガサス (2014)
松永 浩美公式サイト 松永浩美公式HP
YouTubeチャンネル 松永浩美チャンネル
活動期間 2019年8月2日 -
ジャンル 野球
登録者数 8470人
総再生回数 750,081 回
チャンネル登録者数・総再生回数は2022年7月30日時点。
経歴
野球を始めたのは中学1年時の途中からで、小学生時代には、地元のサッカー少年団でFWとして活躍していた。
当時は地元の新日本製鐵八幡サッカー部に所属していた宮本輝紀(メキシコオリンピック・サッカー競技で日本代表チーム初の銅メダル獲得に貢献したMF)に憧れていて、少年団の監督からはサッカーの強豪校(大分県の中・高一貫制私立学校)への進学を勧められるほどの選手だったが、中等部からの単身生活に両親が難色を示した。
結局、地元の中学校へ進学したものの、校内にサッカー部がなかったことからサッカーを断念。
部活動自体に参加しないまま知人の誘いでソフトボール大会へ投手として登板したところ、誰も打てなかったことから、周囲の勧めで1年生の途中から校内の軟式野球部へ入った。
当時から1人で野球を練習していたが、本人曰く「言葉(口)より身体を動かさないと善し悪しを判断できないタイプ」とのことで、日本のプロ野球(NPB)へ入ることまでは考えていなかったという。
福岡県立小倉工業高等学校への進学を機に校内の硬式野球部へ入部してからは、★投手と外野手を兼務。
1学年先輩に田島克彦(当時は投手)がいた。
入学当時の監督だった本田正には、1年時の秋から「お前は将来プロ(NPB)へ行ける」と言われていて、松永本人も地元社会人野球チーム(門司鉄道管理局)を経てのNPB入りを思い描いていたという。
その一方で、小倉工業高校への在学中は久保康生・立花義家・野田雲平・清家政和・林正毅などを擁する柳川商業高等学校(現在の柳川高等学校)に歯が立たず、夏の全国高等学校野球選手権福岡大会では1年時の1976年から2年続けて直接対決で敗戦。
その一方で、小倉工業高校への在学中は久保康生・立花義家・野田雲平・清家政和・林正毅などを擁する柳川商業高等学校(現在の柳川高等学校)に歯が立たず、夏の全国高等学校野球選手権福岡大会では1年時の1976年から2年続けて直接対決で敗戦。
2年時の1977年に準々決勝で対戦した際には、田島→松永→田島の継投むなしく、1 - 17という大差で7回コールド負けを喫した。
松永本人は、大会後に結成された新チームで、本田から4番打者・田島の後継エース・主将に任命。
しかし、本田はその直後に、前述の大敗を快く思っていなかった硬式野球部のOB会から★監督職を突如更迭された。
松永は★後任の監督と反りが合わないまま、高校2年時(1977年)の10月に、本田から紹介された山本公士(当時は阪急ブレーブスの九州地区担当スカウト)とアルバイト先の喫茶店で面会。
松永は★後任の監督と反りが合わないまま、高校2年時(1977年)の10月に、本田から紹介された山本公士(当時は阪急ブレーブスの九州地区担当スカウト)とアルバイト先の喫茶店で面会。
その席で阪急への入団を要請されたことから、翌1978年★1月に小倉工業高校を中退したうえで、外野手としてドラフト外扱いで入団した。
松永が後年述懐したところによれば、田島を視察していた3人のスカウトが、「実力は松永の方が上」という評価を本田に伝えていたという。
高校中退者のドラフト外入団はNPBの野球協約に抵触する行為であったため、実際には★球団職員(二軍の用具係)扱いで「練習生」として入団。
入団に際しては、山本から定時制高校への進学を勧められたものの、「プロに入った以上、学校に通っている場合ではない」として進学を見送った。
ちなみに、スイッチヒッターへ転向したのは★入団3年目(1980年)からで、それまでは★右打者だった。
阪急・オリックス時代
NPBの公式戦に出場できない「練習生」として1978年1月に阪急へ入団したため、入団の翌月(2月。本来なら★高校2年生)から高知市の二軍春季キャンプに参加。
NPBの公式戦に出場できない「練習生」として1978年1月に阪急へ入団したため、入団の翌月(2月。本来なら★高校2年生)から高知市の二軍春季キャンプに参加。
練習の前後に用具係としての仕事に臨んでいたことから、キャンプの当初はユニフォームに背番号が付いていなかったが、途中から背番号87を着用した。
キャンプ中の打撃練習で高知市営球場の場外に★17本連続で打球を飛ばしたシーンを、二軍キャンプを視察中だった一軍監督の上田利治(当時)が偶然目撃したことをきっかけに、上田の方針で★遊撃手に転向。
レギュラーシーズンの開幕後は、二軍で打撃や守備の練習に明け暮れながら、打撃投手などで一軍の練習を手伝っていた。
なお、「チーム内では当時から(出身地の福岡県が玄界灘へ面していることや、苗字が『松永』であることにちなんで)『玄海マツ』と呼ばれていた」という話が報道などでまことしやかに伝えられているが、本人は『玄海マツ』と呼ばれたことがないことを引退後に明言している。
1979年には、公式戦への出場が可能な支配下登録選手へ移行するとともに、背番号を48に変更。
1979年には、公式戦への出場が可能な支配下登録選手へ移行するとともに、背番号を48に変更。
その年の二軍秋季キャンプから、住友平二軍打撃コーチ(当時)の方針で左打ちの練習を始めた。
さらに、住友と共に広島東洋カープとの交流戦で練習の最後に左打ちでのスイングを試したところ、★練習で居合わせた山本一義(現役時代は左打者で当時は広島の打撃コーチ)がスイングの軌道の美しさを絶賛。
松永を左打者へ転向させることを、住友を初めとする阪急のコーチに勧めた。
一方の松永は、「左打ちの練習を始めたそもそもの目的は、右打ちの欠点を住友の発案で修正するためだったはず」との認識で、翌1980年の春季二軍高知キャンプ中に右打席だけで打撃練習に臨んでいた。
一方の松永は、「左打ちの練習を始めたそもそもの目的は、右打ちの欠点を住友の発案で修正するためだったはず」との認識で、翌1980年の春季二軍高知キャンプ中に右打席だけで打撃練習に臨んでいた。
この時点では左打ちでのスイングを山本が高く評価していることを知らされていなかったため、住友から「何で(なぜ)左(打席)で打たんのや」と言われても、納得がいかなかったという。
それでも、住友から「日本(当時のNPB)のスイッチヒッターと言えば高橋慶彦や山崎隆造(いずれも当時広島東洋カープに在籍)のように『ちょこっと当てて足を使う(軽打で塁に出て俊足を生かす)』というタイプばかりだが、大リーグ(MLB)のスイッチヒッターには、★エディー・マレーみたいに右打席でも左打席でも本塁打を放てるほどの長距離打者がいる。
(阪神タイガースで左のエースとして君臨してきた)江夏豊が(南海ホークスへの移籍後に)『野球界に革命を起こさないか?』という野村克也監督の一声でストッパーへ転向したように、マレーのようなスイッチヒッターになって革命を起こさないか」と説得されたことを機に一念発起。
レギュラーシーズンが開幕してから、二軍のウエスタン・リーグ公式戦63試合に出場すると、打率.294、5本塁打、24打点という好成績を残した。
シーズン終盤に西宮球場で「親子ゲーム」が組まれていた日に、二軍のデーゲームへ出場した後にナイトゲームでの一軍デビューを予定していたが、デーゲームの打席で安打を放って一塁へ出た直後に★牽制球で帰塁したところ右手の甲を骨折。
本人曰く、このアクシデントで一軍デビューの機会を棒に振ったことによって、怪我へかなり敏感になったという。
1981年に一軍公式戦へのデビューを果たすと、三塁手として18試合に先発出場、打数は少ないものの打率.326を記録する。
1982年は遊撃手も兼ね、チームの主軸として活躍し、初めて規定打席(30位、打率.236)にも到達した。
1981年に一軍公式戦へのデビューを果たすと、三塁手として18試合に先発出場、打数は少ないものの打率.326を記録する。
1982年は遊撃手も兼ね、チームの主軸として活躍し、初めて規定打席(30位、打率.236)にも到達した。
同年5月15日の対日本ハムファイターズ戦で、★NPBの球団に所属する日本人選手としては初めて、公式戦での1試合左右打席本塁打を放つ。
その後も左右打席本塁打を5回記録したため、苗字の松永にちなんで、「ビックリ松」とも呼ばれるようになった。
通算6回の左右打席本塁打は、自身の現役時代におけるNPB単独最多記録である。
1983年には21本塁打、同年8月31日のロッテオリオンズ戦では中居謹蔵から逆転満塁本塁打を放っている。
1984年には打率.310(リーグ6位)と初めての三割超えを果たす。
1985年には自己最高の26本塁打を放ち、38盗塁でパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の盗塁王を獲得した。
1983年には21本塁打、同年8月31日のロッテオリオンズ戦では中居謹蔵から逆転満塁本塁打を放っている。
1984年には打率.310(リーグ6位)と初めての三割超えを果たす。
1985年には自己最高の26本塁打を放ち、38盗塁でパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の盗塁王を獲得した。
もっとも、クリーンナップを任せられる試合が増えるにつれて、単独での盗塁企図数・成功数ともに減少している。
1988年には、シーズンを通じて高沢秀昭(ロッテ)との間で首位打者争いを展開。勝負の行方は、10月22日から23日にかけて本拠地・阪急西宮球場で組まれていたロッテとの3連戦(23日はダブルヘッダーとして開催)にまで持ち越された。
1988年には、シーズンを通じて高沢秀昭(ロッテ)との間で首位打者争いを展開。勝負の行方は、10月22日から23日にかけて本拠地・阪急西宮球場で組まれていたロッテとの3連戦(23日はダブルヘッダーとして開催)にまで持ち越された。
ブレーブスの経営権を保有していた阪急電鉄は、ロッテ3連戦の直前(10月19日)に経営権をオリエント・リース(現在のオリックス)へ売却することを発表していたため、23日の第2試合は「阪急ブレーブス」として臨む最後の公式戦であった。
高沢は21日までに打率.3271を記録していたが、ロッテ首脳陣の方針で、阪急との3連戦をすべて欠場。 高沢を追う立場の松永は、22日の試合で第1打席からの2打席連続安打によって、打率を.3263にまで上げた。
第2打席を終えた時点で松永の打率が高沢を上回る可能性が高まったことから、ロッテの首脳陣は、松永への敬遠攻めを第3打席から投手陣に指示。
松永は★延べ3試合で11打席連続四球・10打席連続敬遠四球、23日のダブルヘッダーで1試合4敬遠四球(第1・第2試合を通じて8打席連続敬遠四球)の★NPB公式戦記録を樹立する羽目に陥ったあげく、第2試合の最終打席で三振を記録したことによって打率.3255で全日程を終えたため、わずか1厘差で高沢に逃げ切られた。
ちなみに、最終打席の三振は、「バットが到底届かないコースへ投げられたボールに向かってバットを放り投げる」という行為を3度繰り返したことによる。 以上の行為については、「ロッテバッテリーが勝負しないことに対する無言の抗議」との解釈が報道などで広まっているが、松永自身は引退後のインタビューでこの解釈を否定。
「阪急最後の試合」で、ロッテの選手・首脳陣に向かって一部の観客がブーイングを飛ばし続けたことへの抗議として、ブーイングを鎮めるつもりでバットを放り投げたことを明かしている。 松永によれば、「シーズン最後の3連戦を打率2位で迎えた時点で『高沢さんに負けた』と自覚していたので、3連戦中の敬遠攻めをめぐって、ロッテ(の関係者)を恨んだことは一度もない」とのことで、観客からはバットを放り投げるたびに「松永、いいぞ!」という歓声が上がったという。
球団名が「オリックス・ブレーブス」へ変更された1989年以降も、上田の指揮下で「ブルーサンダー打線」のトップバッター(1番打者)として活躍。
1990年にはパ・リーグの三塁手部門でベストナインに選ばれていたが、球団名を「オリックス・ブルーウェーブ」に改めた1991年に読売ジャイアンツ(巨人)OBで地元・兵庫県出身の★土井正三が監督へ就任してから様相が一変する。
巨人選手時代に経験したV9野球に絶対の自信を持っていた土井は、「ブルーサンダー打線」に象徴されるチームを★守備力中心のチームへ改造すべく、監督就任直後の秋季キャンプで守備練習を重視する方針を公言。
球団名が「オリックス・ブレーブス」へ変更された1989年以降も、上田の指揮下で「ブルーサンダー打線」のトップバッター(1番打者)として活躍。
1990年にはパ・リーグの三塁手部門でベストナインに選ばれていたが、球団名を「オリックス・ブルーウェーブ」に改めた1991年に読売ジャイアンツ(巨人)OBで地元・兵庫県出身の★土井正三が監督へ就任してから様相が一変する。
巨人選手時代に経験したV9野球に絶対の自信を持っていた土井は、「ブルーサンダー打線」に象徴されるチームを★守備力中心のチームへ改造すべく、監督就任直後の秋季キャンプで守備練習を重視する方針を公言。
1991年のレギュラーシーズンに入ってからは、長距離打者の高橋智をクリーンアップ候補に育てるべく、高橋に対して塁上の走者を犠打で送らせそうな局面でもあえてヒッティングのサインを出していた。
松永はこのような方針に理解を示していて、方針に反発するナインをなだめることすらあったという。 しかし、一軍のAクラス入りが懸かっていたシーズン終盤に、土井が高橋へ犠打のサインを出すようになったことでナインから孤立。 松永自身は平井光親(ロッテ)との間で首位打者の座を争っていたが、.3140を記録しながらわずか.0004差で平井(打率.3144)に首位打者のタイトルをさらわれた。
このような経緯から、翌1992年以降の首位打者獲得を目標に打撃練習へ時間を割くことを土井に要望したが、土井が認めなかったことで土井との溝が深まった。 その一方で、シーズン終了後には、推定年俸1億円という条件で契約を更改している。
1992年には、シーズン最多安打と首位打者のタイトル獲得を目標に、「松永福祉基金」を発足することを1月に発表。
1992年には、シーズン最多安打と首位打者のタイトル獲得を目標に、「松永福祉基金」を発足することを1月に発表。
前年の3月に実母を脳梗塞で亡くしたことから、パ・リーグ公式戦でのシーズン通算安打数に1万円を乗じた金額を、実母が晩年療養していた北九州市内の高齢者医療施設へ寄付する意向を示していた。
これに対して、オリックス本社から出向してきた球団幹部が、寄付先を本拠地・神戸市内の病院へ変更することを打診。
球団からも寄付金を出すことまで持ち掛けたが、松永が「基金の趣旨に合わない」として打診を断ったことによって、★球団との間にも確執が生じた。
シーズン中には、「1番・三塁手」として3割近い打率(.298)や、リーグ最多の34二塁打をマーク。
シーズン終了後には契約更改の日取りが決まらないまま、12月中旬に球団代表の井箟重慶から突如呼び出されたあげく、阪神タイガースへのトレードを通告された。
松永が引退後に明かしたところによれば、阪神の主力投手だった野田浩司との交換トレードであったため、「(トレード通告を)断れば野田が(阪神に)居づらくなるので、(通告を)受けるしかない」と考えた末にトレードを受諾したとのことである。
なお、オリックス時代には選手会長を歴任。在任中には、1976年からメジャーリーグベースボール (MLB)に導入されている★フリーエージェント(FA)制度をNPBでも採用することを、日本プロ野球選手会の総会で提案した。
なお、オリックス時代には選手会長を歴任。在任中には、1976年からメジャーリーグベースボール (MLB)に導入されている★フリーエージェント(FA)制度をNPBでも採用することを、日本プロ野球選手会の総会で提案した。
提案に際しては、(1989年から福岡ダイエーホークスが本拠地を構えていた)地元・福岡でのプレーも視野に置いていたとのことで、NPBで1993年にFA制度が導入されると最初にFA権を行使している(詳細後述)。
阪神時代
オリックスからの移籍当初は、監督の中村勝広から「これ以上ない頼もしい選手。球団の悲願であるセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に向けて活躍を期待する」という賛辞を送られていて、背番号2を着用。
オリックスからの移籍当初は、監督の中村勝広から「これ以上ない頼もしい選手。球団の悲願であるセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に向けて活躍を期待する」という賛辞を送られていて、背番号2を着用。
松永本人も「優勝のために全力を尽くす」と宣言していた。
1993年には、4月10日に中日ドラゴンズとのレギュラーシーズン開幕戦で「3番・三塁手」としてスタメンに起用されると、★5打数5安打2打点をマーク。翌11日の同カード第1打席まで、6打席連続安打を記録した。
1993年には、4月10日に中日ドラゴンズとのレギュラーシーズン開幕戦で「3番・三塁手」としてスタメンに起用されると、★5打数5安打2打点をマーク。翌11日の同カード第1打席まで、6打席連続安打を記録した。
しかし、開幕3戦目であった4月13日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)で試合中に故障。5月にいったん復帰したものの、1か月後から2度目の★長期離脱を余儀なくされた。
このように故障が相次いだことや、自身と同じスイッチヒッターで1991年から阪神で背番号2を付けていた高橋慶彦が故障によって前年(1992年)に現役を引退していたことから、松永は「背番号2では縁起が悪い」として背番号の変更を検討。「自分を鬼(オニ=02)のように強くしたい」との理由で、シーズンの途中から背番号を02に変更した。
NPBの公式戦へ出場した選手のうち、★0番と00番以外に0で始まる背番号で登録された選手は、現在まで松永だけである※。
※ただし、オレステス・デストラーデが、ユニフォームを忘れてチームスタッフの背番号05のユニフォームを借りて試合に出たことはある。
また、広島東洋カープではカープアカデミーから支配下登録した選手が、練習生時代からの100番台の背番号のまま出場した事例があるほか、シーズン中に支配下登録に変更された育成契約選手が、ユニフォームの準備が間に合わないため、3桁背番号のまま1軍公式戦出場を果たした事例は他にも複数あるが(読売ジャイアンツ田中豊樹、東京ヤクルトスワローズ小澤怜史、福岡ソフトバンクホークス黒瀬健太など)、★原則的に支配下登録選手は00・0 - 99番以外の背番号は着用できない。
オールスターゲームの直後から戦線へ再び戻ると、8月後半には★3試合連続先頭打者本塁打の世界プロ野球公式戦記録を樹立。
一軍公式戦通算では、80試合の出場で3割近い打率(.294)を記録した。
本塁打は8本どまりで、阪急で一軍へのデビューを果たした1981年以来12年振りに、一軍公式戦でのシーズン最終規定打席に到達できなかった。
前年にヤクルトとの熾烈な優勝争いの末に2位へ入っていたチームも、ヤクルトのリーグ2連覇を許したばかりか、4位でシーズンを終えている。
その一方で、二軍(ウエスタン・リーグ)で調整していた夏場には、前年にドラフト1位で入団したばかりの★萩原誠に対して「俺はもう来年(阪神に)いないから、お前はしっかり三塁を練習しておけよ」と言い残していたという。
その一方で、二軍(ウエスタン・リーグ)で調整していた夏場には、前年にドラフト1位で入団したばかりの★萩原誠に対して「俺はもう来年(阪神に)いないから、お前はしっかり三塁を練習しておけよ」と言い残していたという。
結局、シーズン終了後の11月に、自身の提案からNPBへ導入されたばかりの★FA権を行使することを宣言。
その際に、シーズン中に阪神甲子園球場のグラウンドキーパーと交わしたやり取りが、一部のメディアで「『甲子園は幼稚園の砂場』との暴言を吐いていた」と報じられたことで物議を醸した。
松永自身は、「グラウンドキーパーが内野グラウンドの整備に関する要望を訊いてきた際に、『内野の土を幼稚園の砂場くらいに軟らかくした方が良いか?』と質問されたことが、自分の関知しないところで誤って広まった」として、報道の内容を真っ向から否定している(詳細後述)。
実際には、NPBが定めるFA権行使の宣言期間中に、阪神球団との間で残留に向けて交渉。
実際には、NPBが定めるFA権行使の宣言期間中に、阪神球団との間で残留に向けて交渉。
その一方で、西武ライオンズからの獲得交渉に臨んでいたほか、他球団からも獲得を打診されていた。
11月28日に福岡ダイエーホークスからの獲得交渉へ臨んだところ、同席していた根本陸夫監督(当時)からの熱心な訴えかけに応じる格好で入団を即答。NPB史上初めて、FA権の行使による他球団への移籍に至った。
福岡ダイエー時代
移籍の直後からチームリーダーを務め、移籍初年度の1994年2月の高知春季キャンプでは根本監督から「チームの現状を正直に言ってほしい」と問われ、「このチームのキャンプは遊びだ。勝つことを考えていないし、ミスすることを前提にプレーしている」と指摘した。
移籍の直後からチームリーダーを務め、移籍初年度の1994年2月の高知春季キャンプでは根本監督から「チームの現状を正直に言ってほしい」と問われ、「このチームのキャンプは遊びだ。勝つことを考えていないし、ミスすることを前提にプレーしている」と指摘した。
また、即戦力として期待されていた新人の小久保裕紀にも「このチームは甘い。元からいる選手たちの気質に染まったら負けるぞ。強くなければ勝てない」と伝えていた。
7月16日の西武戦では新谷博からサヨナラ本塁打を放った。
同シーズンは打率.314(パ・リーグ4位)・OPS.813と結果を残し、秋山幸二とともに若いチームを牽引した。
松永本人は同年を振り返り、「いろいろな意味で達成感があり、自分の野球人生で一番充実していた年だった。『これでこのチームが勢いに乗ってくれたらいいな』という思いはあった。
自分を(ダイエーに)誘った根本さんとの歴史は浅かったが、最も重い」と回顧している。
監督が王貞治に交代した翌1995年は、前年に引き続き2年連続でオールスターゲームに出場。
監督が王貞治に交代した翌1995年は、前年に引き続き2年連続でオールスターゲームに出場。
しかし同年以降は急激に成績が低下し、1996年の契約更改では自ら6500万ダウンを申し入れた。
1997年に自由契約を申し入れ、球団側も戦力外と判断したことから容認された。
この時には「解説者の仕事で空席が出た」と、引退後の仕事を保証する話も出たが、その解説者の前任が杉浦忠であることを知り「球界の功労者の定年を逆手に取るような不実はできない」と固辞している。
プロでは打率3割を通算7回、サイクル安打を通算2回記録した。
プロでは打率3割を通算7回、サイクル安打を通算2回記録した。
1996年4月27日の西武3回戦(西武球場)で新谷博から通算200本塁打(プロ野球史上66人目)。
同時に全打順本塁打も達成している(史上2人目)。
ダイエーからの退団後も、MLBでの現役続行を目標に、★オークランド・アスレチックスの入団テストへ参加。
ダイエーからの退団後も、MLBでの現役続行を目標に、★オークランド・アスレチックスの入団テストへ参加。
プレシーズンゲームに出場するが、27打席無安打と振るわなかったことから、現役からの引退を決めた。
この入団テスト受験は当時こそ本気だったが、後年には「現役生活に見切りをつけるためのセレモニー」と発言している。
現役引退後
2006年6月、★埼玉県三郷市に「松永浩美ベースボールアカデミー」を設立した。
2006年6月、★埼玉県三郷市に「松永浩美ベースボールアカデミー」を設立した。
阪神時代の後輩にあたる鮎川義文と、元ヤクルト投手の矢野和哉と共に、小・中学生を対象とした指導を開始した。
別冊宝島のインタビューで本人は「プロの選手は完成されているから、興味がない。
プロとしてのプライドもあるだろうし。それよりも無限の可能性のある少年の方がいい」と述べた。
松永は現役時1,904本のヒットを放ち、2,000本安打達成目前での引退となった。
松永は現役時1,904本のヒットを放ち、2,000本安打達成目前での引退となった。
名球会への入会資格に達していなかったが、プロ野球マスターズリーグが行われていた2007年までは、マスターズリーグでの記録がNPB通算記録と合算され、入会資格を得れば「名誉会員」として会員に準ずる扱いをされると規定されていた。
実際、マスターズリーグで99安打を記録しNPBと合算して通算2,003安打となった松永浩美は★2006年に名誉会員として表彰され、この当時は名球会入会とされていたが、2009年のマスターズリーグ中断や、名球会の改組等により後にこの規定は消え松永の入会も有耶無耶になっており、現在は松永の名球会名誉会員及び名球会加入は、名球会の公式ホームページ上で謳われていない。
2010年12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。
2014年よりBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの★野手総合特別コーチに就任。
2010年12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。
2014年よりBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの★野手総合特別コーチに就任。
2015年2月の任期満了に伴い退団した後は、夢グループが川越市で主催する野球塾の塾長として、鮎川などと共に小中学生を対象とした後進の指導に当たっていた。
2018年6月からは、妻や3人の子どもと共に★鹿児島県内へ移住。
2018年6月からは、妻や3人の子どもと共に★鹿児島県内へ移住。
移住後は、南九州を拠点に野球教室での指導を続けるかたわら、文部科学省からの要請で教育現場での特別講師も務める。
また、ブログ、Twitter、Instagramを通じて、情報やメッセージを積極的に発信。2019年2月23日には、★58歳にして4人目の子ども(女児)を授かった。
2019年8月、YouTubeチャンネル『松永浩美の野球塾【教え子37人甲子園出場】』を開設。YouTuberデビューを果たした。
2019年11月、鹿児島の社会人硬式野球クラブチーム「薩摩ライジング」チームアドバイザーに就任。
2019年8月、YouTubeチャンネル『松永浩美の野球塾【教え子37人甲子園出場】』を開設。YouTuberデビューを果たした。
2019年11月、鹿児島の社会人硬式野球クラブチーム「薩摩ライジング」チームアドバイザーに就任。
「FA騒動」の経緯
松永は、阪神へのトレードが決定した際の記者会見では、「トレードを意気に感じている」、「中村勝広監督を男にしてみせる。俺は義理堅い男だよ」などと熱い口調で決意を述べ、その姿に、強力な3番バッターを待ち望む阪神ファンの期待も高まる一方であった。
松永は、阪神へのトレードが決定した際の記者会見では、「トレードを意気に感じている」、「中村勝広監督を男にしてみせる。俺は義理堅い男だよ」などと熱い口調で決意を述べ、その姿に、強力な3番バッターを待ち望む阪神ファンの期待も高まる一方であった。
開幕前の過熱振りはまさに「松永フィーバー」とも言うべき盛り上がりを見せ、関連グッズの数量も他選手をはるかに超えるもので、開幕戦で5打数5安打を記録すると、その過熱ぶりは頂点に達した。
しかし、開幕3戦目で故障し離脱となり、結果的に前年シーズンと同等の成績は収めたが、シーズンオフにFA権を行使してダイエーへ移籍した。松永のFA宣言は日本球界初のものでもあり、全国的な注目を集める話題となった。
FA宣言した後、11月後半に他球団に先立って阪神と残留交渉を行ったが、FA交渉にもかかわらず球団側から★600万円のダウン提示と「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と阪神側から松永を突き放す発言があり、その後ダイエーと交渉・移籍に至った。
松永はFA移籍について「単なる通過点に過ぎない」「阪神とは縁が無かったということ」などと、阪神ファンを突き放す発言で答えたほか、自宅前で報道陣に「阪神ファンへのメッセージはないのか?」と問われ、これに反発した様子で「何もないね!」と答えており、そのような姿がフジテレビの『プロ野球ニュース』を始め、各局のニュース映像で流された。
FA宣言した後、11月後半に他球団に先立って阪神と残留交渉を行ったが、FA交渉にもかかわらず球団側から★600万円のダウン提示と「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と阪神側から松永を突き放す発言があり、その後ダイエーと交渉・移籍に至った。
松永はFA移籍について「単なる通過点に過ぎない」「阪神とは縁が無かったということ」などと、阪神ファンを突き放す発言で答えたほか、自宅前で報道陣に「阪神ファンへのメッセージはないのか?」と問われ、これに反発した様子で「何もないね!」と答えており、そのような姿がフジテレビの『プロ野球ニュース』を始め、各局のニュース映像で流された。
これに対し、次シーズンでの松永の活躍を期待していた阪神ファンから、球団や関係マスコミにその真意を求める問い合わせや批判が殺到することとなった。さらにこの過熱報道の渦中に、「松永が『甲子園は幼稚園の砂場』と発言した」との報道が流れた。
そもそもFA制度が日本球界に導入されたのは、選手会において松永が提案したことが始まり。
そもそもFA制度が日本球界に導入されたのは、選手会において松永が提案したことが始まり。
松永自身へのインタビューによると、そのきっかけは1988年のドラフト最大の目玉だった慶應義塾大学・志村亮の★指名拒否騒動だったという。
ドラフト外から入団し、練習生から這い上がった松永にとって、ドラフト指名を拒否する者の登場は衝撃的で「そこまでプロ野球に夢がなくなってしまったのか」という危機感から、当時の労働組合事務局長と相談の上、選手会総会にてFA制度導入を提案したという。
同時に「出身地である福岡でプレーすることも頭にあった」とも語っている。
「砂場発言」
松永自身は、「『甲子園は幼稚園の砂場』という暴言を吐いた」とされる報道を、以下の経緯から繰り返し批判している。
松永が移籍した時期(1990年代前半)の阪神には、盗塁が得意な野手や、長打力に優れた野手が少なかった。
松永自身は、「『甲子園は幼稚園の砂場』という暴言を吐いた」とされる報道を、以下の経緯から繰り返し批判している。
松永が移籍した時期(1990年代前半)の阪神には、盗塁が得意な野手や、長打力に優れた野手が少なかった。
さらに、投手陣の防御率も全般に悪かったため、対戦相手のチームの攻撃力を削ぐことに腐心。
本拠地の阪神甲子園球場では、かつての正遊撃手だった平田勝男からの要望で、内野のフェアグラウンドに使用している土が軟らかくなるように整備していた。
阪神では、このような整備を通じて、相手打者が放った安打性の打球の勢いを弱めることや、相手走者のダッシュが効かないようにすることを目論んでいたとされている。
阪神では、このような整備を通じて、相手打者が放った安打性の打球の勢いを弱めることや、相手走者のダッシュが効かないようにすることを目論んでいたとされている。
これに対して、阪急・オリックス時代のパ・リーグ公式戦でシーズン2桁盗塁の常連だった松永は、持ち前の俊足を活かしやすい硬めの土を好んでいた。
阪神への移籍後に甲子園球場の土が軟らかいことを知ると、平田から正遊撃手の座を引き継いだばかりの久慈照嘉と相談。
安打などで一塁へ出る機会が多いことを背景に、阪神園芸のグラウンドキーパーに対して、「一塁ベースからのランニングエリアの土を硬くして欲しい」との要望を出した。
グラウンドキーパーが「★平田からの要望で土を軟らかくしている」と答えたことから、松永は「試合に出ない人(既にレギュラーから外れていたベテランの平田)の要望を聞いてどうするの? 土が柔らかすぎて滑るんだよ」と伝えたところ、グラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらい(に軟らかくすれば良い)か?」と松永に質問。
松永によれば、自分はこの質問に対して「いや、そんなには(軟らかくしなくても良い)」と答えただけで、砂場云々とまでは言っていない」という。
ところが、松永がFA権の行使を宣言した直後に、以上のやり取りが「『甲子園の土は幼稚園の砂場』と発言した」として一部で報道。
ところが、松永がFA権の行使を宣言した直後に、以上のやり取りが「『甲子園の土は幼稚園の砂場』と発言した」として一部で報道。
松永のパブリックイメージをさらに損なうとともに、阪急時代から抱いていたスポーツメディアへの不信感を増すことにつながった。
松永によれば、この報道の前後にも身に覚えのないコメントが「滞在先のホテルで記者からの質問に答えた」としてスポーツ紙に連日掲載されていたため、「これはどういうことなんだ?」との疑問とともにスポーツメディアへの恐怖感を覚えていたという。
前述したように、当時は阪神ファンを突き放すかのような発言でファンの反感を買っていたため、友人から「阪神ファン(の心情)を逆撫でするようなことを(公の場で)言わない方がいい」とのアドバイスを受けていた。
さらに、妻を実家に帰らせたうえで、自身は★1ヶ月にわたってホテルへ宿泊。その間に、記者と全く会わなかったことを引退後に断言している。
ちなみに、甲子園球場の内野グラウンドの土は、松永を上回る俊足の持ち主であった赤星憲広が阪神に入団した2001年頃から硬めに整備されている。
ちなみに、甲子園球場の内野グラウンドの土は、松永を上回る俊足の持ち主であった赤星憲広が阪神に入団した2001年頃から硬めに整備されている。
また、松永自身は引退後に、新聞・雑誌を中心に各種メディアの単独インタビューへたびたび登場。
現役時代の報道に対する弁明や否定を繰り返す一方で、「自分には言葉や説明が足りないところがある」と自覚していることや、現役時代に本当の自分と「プロ野球選手・松永浩美」との間に一線を引いたうえで「みんなが思っている『松永浩美』」を演じていたことなどを明かしている。
本人によれば、「引退してから取材する人はみんな、『(言いたいことを物怖じせずに言い切る現役時代のパブリック)イメージと全然違う』と言っている」とのことである。
詳細情報
年度別打撃成績
年 球 試 打席 打数 得点 安打 二 三 本 塁打 打点 盗 盗死 犠打 犠飛 四 敬 死 三振 併 打率 出塁率 長打率 OPS
1981 阪急
オリックス 73 105 92 15 30 1 1 2 39 15 4 3 1 0 8 0 4 10 4 .326 .404 .424 .828
1982 128 451 398 58 94 13 4 12 151 44 21 6 11 1 37 2 4 57 9 .236 .307 .379 .686
1983 122 493 427 58 120 23 7 21 220 74 20 13 5 5 49 1 7 40 9 .281 .361 .515 .876
1984 125 525 458 84 142 24 6 19 235 70 21 5 4 3 55 3 5 57 10 .310 .388 .513 .901
1985 130 572 481 94 154 26 1 26 260 87 38 12 1 3 81 6 6 70 8 .320 .422 .541 .963
1986 130 567 492 80 148 31 3 19 242 75 20 9 1 1 70 7 3 88 15 .301 .390 .492 .882
1987 114 444 393 59 114 22 2 11 173 45 9 4 2 1 45 1 3 64 12 .290 .367 .440 .807
1988 130 551 473 78 154 27 3 16 235 77 11 4 0 5 72 16 1 52 13 .326 .412 .497 .909
1989 124 573 470 106 145 30 3 17 232 60 14 6 2 0 96 12 5 78 8 .309 .431 .494 .924
1990 128 602 518 103 147 26 4 21 244 70 26 8 1 2 78 8 3 120 10 .284 .379 .471 .850
1991 130 568 484 74 152 22 10 13 233 76 20 4 1 6 75 4 2 81 11 .314 .404 .481 .885
1992 118 540 473 72 141 34 4 3 192 39 15 6 2 2 62 7 1 70 3 .298 .379 .406 .785
1993 阪神 80 340 303 51 89 16 0 8 129 31 3 2 0 4 31 2 1 70 5 .294 .357 .426 .783
1994 ダイエー 116 541 477 74 150 20 4 8 202 55 8 7 2 2 60 2 0 73 5 .314 .390 .423 .813
1995 87 363 320 28 76 13 2 3 102 21 5 3 3 1 38 0 1 61 6 .238 .319 .319 .638
1996 66 236 207 19 45 12 1 3 68 13 3 1 5 2 21 0 1 48 3 .217 .290 .329 .619
1997 15 34 24 6 3 1 0 1 7 3 1 1 2 0 8 0 0 7 0 .125 .344 .292 .635
通算:17年 1816 7505 6490 1059 1904 341 55 203 2964 855 239 94 43 38 886 71 47 1046 131 .293 .380 .457 .837
各年度の太字はリーグ最高
阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
タイトル
盗塁王:1回(1985年)
最高出塁率:1回(1989年)
表彰
ベストナイン:5回(三塁手部門:1988年 - 1991年、1994年)
ゴールデングラブ賞:4回(三塁手部門:1984年、1989年、1990年、1994年)
オールスターゲームMVP:1回(1985年 第3戦)
記録
初記録
初出場・初先発出場:1981年5月10日、対近鉄バファローズ前期7回戦(阪急西宮球場)、7番・三塁手で先発出場
初安打・初打点:同上、4回裏に谷宏明から適時打
初本塁打:1981年5月12日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(阪急西宮球場)、3回裏に仁科時成から
節目の記録
100本塁打:1987年4月14日、対西武ライオンズ1回戦(阪急西宮球場)、1回裏に渡辺久信から ※史上147人目
1000安打:1989年5月23日、対日本ハムファイターズ6回戦(阪急西宮球場)、2回裏に津野浩から ※史上154人目
1000試合出場:1989年6月17日、対ロッテオリオンズ11回戦(川崎球場)、1番・三塁手で先発出場 ※史上284人目
150本塁打:1990年6月5日、対福岡ダイエーホークス8回戦(平和台野球場)、8回表に村田勝喜から ※史上91人目
1500試合出場:1993年9月8日、対ヤクルトスワローズ20回戦(阪神甲子園球場)、3番・三塁手で先発出場
300二塁打:1994年4月30日、対日本ハムファイターズ2回戦(東京ドーム)、3回表に今関勝から ※史上32人目
1000得点:1994年9月18日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(千葉マリンスタジアム)、4回表にカズ山本の本塁打で得点 ※史上27人目
1000三振:1996年4月14日、対近鉄バファローズ2回戦(福岡ドーム)、5回裏に池上誠一から ※史上22人目
200本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上66人目
その他の記録
サイクル安打:2回
1982年10月8日、対南海ホークス後期13回戦(阪急西宮球場)
1991年5月24日、対ロッテオリオンズ6回戦(グリーンスタジアム神戸)
3試合連続初回先頭打者本塁打:1993年8月20日 - 8月22日 ※史上最長
11打席連続四球:1988年10月22日 - 10月23日 ※史上最長[25]
13打席連続出塁:1988年10月22日 - 10月23日[25]
全打順本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上2人目[26]
左右打席本塁打 ※史上6人目(日本人選手初)、6度は歴代2位(1位はフェルナンド・セギノールの9度)
日付 対戦球団 球場 回 打席 相手投手 回 打席 相手投手
1 1982年5月15日 日本ハム前期5回戦 阪急西宮球場 6回裏 左 工藤幹夫 9回裏 右 江夏豊
2 1983年9月23日 南海21回戦 阪急西宮球場 3回裏 右 竹口昭範 5回裏 左 矢野実
3 1985年4月13日 近鉄1回戦 藤井寺球場 2回表 右 村田辰美 8回表 左 高橋里志
4 1987年10月15日 日本ハム25回戦 阪急西宮球場 2回裏 右 河野博文 9回裏 左 松浦宏明
5 1990年5月9日 ロッテオリオンズ3回戦 川崎球場 2回表 左 平沼定晴 9回表 右 今野隆裕
6 1990年8月12日 福岡ダイエー20回戦 山形県野球場 1回裏 右 濱中英次 5回裏 左 高島覚
オールスターゲーム出場:11回(1983年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1995年)
背番号
87(1978年)
48(1979年 - 1982年)
8(1983年 - 1992年)
2(1993年 - 同年6月28日)
02(1993年6月29日 - 同年終了)
3(1994年 - 1997年)
87(2014年)
出演
映画
ダイヤモンド(ライツキューブ、2013年8月3日公開)[27]
テレビ
じっくり聞いタロウ〜スター近況㊙報告〜(テレビ東京・2019年10月04日)
年度別打撃成績
年 球 試 打席 打数 得点 安打 二 三 本 塁打 打点 盗 盗死 犠打 犠飛 四 敬 死 三振 併 打率 出塁率 長打率 OPS
1981 阪急
オリックス 73 105 92 15 30 1 1 2 39 15 4 3 1 0 8 0 4 10 4 .326 .404 .424 .828
1982 128 451 398 58 94 13 4 12 151 44 21 6 11 1 37 2 4 57 9 .236 .307 .379 .686
1983 122 493 427 58 120 23 7 21 220 74 20 13 5 5 49 1 7 40 9 .281 .361 .515 .876
1984 125 525 458 84 142 24 6 19 235 70 21 5 4 3 55 3 5 57 10 .310 .388 .513 .901
1985 130 572 481 94 154 26 1 26 260 87 38 12 1 3 81 6 6 70 8 .320 .422 .541 .963
1986 130 567 492 80 148 31 3 19 242 75 20 9 1 1 70 7 3 88 15 .301 .390 .492 .882
1987 114 444 393 59 114 22 2 11 173 45 9 4 2 1 45 1 3 64 12 .290 .367 .440 .807
1988 130 551 473 78 154 27 3 16 235 77 11 4 0 5 72 16 1 52 13 .326 .412 .497 .909
1989 124 573 470 106 145 30 3 17 232 60 14 6 2 0 96 12 5 78 8 .309 .431 .494 .924
1990 128 602 518 103 147 26 4 21 244 70 26 8 1 2 78 8 3 120 10 .284 .379 .471 .850
1991 130 568 484 74 152 22 10 13 233 76 20 4 1 6 75 4 2 81 11 .314 .404 .481 .885
1992 118 540 473 72 141 34 4 3 192 39 15 6 2 2 62 7 1 70 3 .298 .379 .406 .785
1993 阪神 80 340 303 51 89 16 0 8 129 31 3 2 0 4 31 2 1 70 5 .294 .357 .426 .783
1994 ダイエー 116 541 477 74 150 20 4 8 202 55 8 7 2 2 60 2 0 73 5 .314 .390 .423 .813
1995 87 363 320 28 76 13 2 3 102 21 5 3 3 1 38 0 1 61 6 .238 .319 .319 .638
1996 66 236 207 19 45 12 1 3 68 13 3 1 5 2 21 0 1 48 3 .217 .290 .329 .619
1997 15 34 24 6 3 1 0 1 7 3 1 1 2 0 8 0 0 7 0 .125 .344 .292 .635
通算:17年 1816 7505 6490 1059 1904 341 55 203 2964 855 239 94 43 38 886 71 47 1046 131 .293 .380 .457 .837
各年度の太字はリーグ最高
阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
タイトル
盗塁王:1回(1985年)
最高出塁率:1回(1989年)
表彰
ベストナイン:5回(三塁手部門:1988年 - 1991年、1994年)
ゴールデングラブ賞:4回(三塁手部門:1984年、1989年、1990年、1994年)
オールスターゲームMVP:1回(1985年 第3戦)
記録
初記録
初出場・初先発出場:1981年5月10日、対近鉄バファローズ前期7回戦(阪急西宮球場)、7番・三塁手で先発出場
初安打・初打点:同上、4回裏に谷宏明から適時打
初本塁打:1981年5月12日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(阪急西宮球場)、3回裏に仁科時成から
節目の記録
100本塁打:1987年4月14日、対西武ライオンズ1回戦(阪急西宮球場)、1回裏に渡辺久信から ※史上147人目
1000安打:1989年5月23日、対日本ハムファイターズ6回戦(阪急西宮球場)、2回裏に津野浩から ※史上154人目
1000試合出場:1989年6月17日、対ロッテオリオンズ11回戦(川崎球場)、1番・三塁手で先発出場 ※史上284人目
150本塁打:1990年6月5日、対福岡ダイエーホークス8回戦(平和台野球場)、8回表に村田勝喜から ※史上91人目
1500試合出場:1993年9月8日、対ヤクルトスワローズ20回戦(阪神甲子園球場)、3番・三塁手で先発出場
300二塁打:1994年4月30日、対日本ハムファイターズ2回戦(東京ドーム)、3回表に今関勝から ※史上32人目
1000得点:1994年9月18日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(千葉マリンスタジアム)、4回表にカズ山本の本塁打で得点 ※史上27人目
1000三振:1996年4月14日、対近鉄バファローズ2回戦(福岡ドーム)、5回裏に池上誠一から ※史上22人目
200本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上66人目
その他の記録
サイクル安打:2回
1982年10月8日、対南海ホークス後期13回戦(阪急西宮球場)
1991年5月24日、対ロッテオリオンズ6回戦(グリーンスタジアム神戸)
3試合連続初回先頭打者本塁打:1993年8月20日 - 8月22日 ※史上最長
11打席連続四球:1988年10月22日 - 10月23日 ※史上最長[25]
13打席連続出塁:1988年10月22日 - 10月23日[25]
全打順本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上2人目[26]
左右打席本塁打 ※史上6人目(日本人選手初)、6度は歴代2位(1位はフェルナンド・セギノールの9度)
日付 対戦球団 球場 回 打席 相手投手 回 打席 相手投手
1 1982年5月15日 日本ハム前期5回戦 阪急西宮球場 6回裏 左 工藤幹夫 9回裏 右 江夏豊
2 1983年9月23日 南海21回戦 阪急西宮球場 3回裏 右 竹口昭範 5回裏 左 矢野実
3 1985年4月13日 近鉄1回戦 藤井寺球場 2回表 右 村田辰美 8回表 左 高橋里志
4 1987年10月15日 日本ハム25回戦 阪急西宮球場 2回裏 右 河野博文 9回裏 左 松浦宏明
5 1990年5月9日 ロッテオリオンズ3回戦 川崎球場 2回表 左 平沼定晴 9回表 右 今野隆裕
6 1990年8月12日 福岡ダイエー20回戦 山形県野球場 1回裏 右 濱中英次 5回裏 左 高島覚
オールスターゲーム出場:11回(1983年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1995年)
背番号
87(1978年)
48(1979年 - 1982年)
8(1983年 - 1992年)
2(1993年 - 同年6月28日)
02(1993年6月29日 - 同年終了)
3(1994年 - 1997年)
87(2014年)
出演
映画
ダイヤモンド(ライツキューブ、2013年8月3日公開)[27]
テレビ
じっくり聞いタロウ〜スター近況㊙報告〜(テレビ東京・2019年10月04日)
(出展; /同上)
ーーーーーーーーーー M3:【】(出展; /)
《参考動画のURL;/ Youtube👉》
ーーー 初版20241212/の日 昨日の東京都心大手町最低気温5.4℃ 最高気温13.5℃、、 夏日全国7地点
全国 冬日416真冬日61地点(10火;冬日前日比-76真冬日-9)
1h 日最大降水量㎜ 1島根隠岐の島西郷22.5
24h日最大降水量㎜ 1島根隠岐の島西郷・福井敦賀・新潟上越筒方47.5 4鳥取鹿野・京都綾部睦寄・兵庫豊岡・新潟上越安塚45.0
積雪量全国上位10傑㎝ 1青森酸ヶ湯141 2道北朱鞠内100 3道北音威子府88 4王北幌加内84 5道央倶知安76 6道北美深70 7道北層雲峡60 8道央喜茂別53 9道北名寄・道北中頓別51
昨日の東京は、日中は過ごし易いが朝晩は相変わらず冷えた一日、、
ー時節項追記前日深夜未明迄 ※11水の内容が中心 時節項追記同日 追記分の一部消失(メンテナンスで反映されず) ① ▷▷▷▷平地でも積雪予想 日本海に発達した雪雲の列「JPCZ※」 発生の可能性も ~福井TV7:32 ※日本海寒帯気団収束帯。詳しくは過去板ご参照。 【①天災害関連】▷▷▷▷ ➊▶▶▶▶ ② ◮◮◭◭▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷宿泊税 鈴木・北海道知事「倶知安町は免税」方針示す 定額制か定率制か議論に打開策? 6:00 ▷立憲 補正予算を減額する案 提出へ 8:03 ▷基礎年金底上げなら 厚生は滅 試算 7:48 > 何と云う悪政だろう、、呆 ➋ ◮◮◭◭▶▶▶▶▶▶▶暫定首相就任のシリア 首都に平常戻りつつも 各地にイスラエル空爆 9:14 ▶露高官 アサド氏の同国滞在 認める ~米メディア8:52 ▶米財務省 世銀基金に200億ドル送金 G7の対ウ融資巡り ~ロイター7:50 ▶IAEAの車両に ドローン攻撃 ザポリージャ原発向かう途中 ~CNN8:36 ▶イスラエル シリア各地で空爆と現地報道 化学兵器の研究施設も対象か ~BBC12:21火 ▶トルコ シリアで軍事装備破壊 政権崩壊でクルド人が入手=治安筋 ~ロイター8:38 ③ ◮◮◭◭▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷幻の魚クエ 出荷シーズン到来 冬の味覚 ~静岡県温水利用研セで養殖 7:37 > クエまで、、凄い技術 ▷日産 役員異動の人事 決定 8:12 ➌◮◮◭◭▶▶▶▶▶▶▶▶▶ ④▷▷➍▶▶ ⑤ ▷▷▷▷MVP武藤嘉紀 神戸退団の 可能性 8:16 ➎▶▶▶▶◮◮◭◭▶◭◭▶▶▶▶▶▶▶▶ ⑥ ▷▷▷▷▷▷▷原因は台風非接近? 珊瑚白化 過去最大規模 ~奄美7:03 > 調査全地点死滅確認、とも。海水温上昇かなぁ、、 ➏▶▶▶▶▶▶▶ ⑦▷▷➐▶▶ ⑧ ◮◮◭◭▷▷▷▷▷▷▷高級魚「ノドグロ」 水槽で産卵・稚魚育成に成功 富山水産県が世界初 7:21 > 深海魚ですからこれからどう大きく太らせるか、ですね ➑ ◮◮◭◭▶▶▶▶▶▶▶ギリシャ 地下鉄工事中古代遺跡発見 論争の末遺跡と共存する地下鉄開通 12:00 > 10数年前EUのお荷物的存在だった破綻財政国。きっと独、仏等援助も多額あったろうからおいそれとは中止に出来なかったのでは? ⑨ ▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷神・育D3早川 尊敬する岩崎とド緊張 初対面 5:15 > 岩崎の出身静岡拠点のはやて出身、大柄乍人見知りすることも共通点とも、、 【⑨契約更改】 ▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷▷ヤ 大谷50号被弾のバウマン獲得へ 最速160K右腕でリリーフ陣強化 5:01 > 元マーリンズ、、 ▷巨人 今季中日ライデル・マルティネスと2年24億 契約へ最終調整 ~キューバ選手に詳しい米記者報道5:30 ➒◮◮◭◭◭◭▶▶▶▶▶▶▶▶▶▶▶▶ 【➒FA・契約更改ポスティング】 ◭▶▶▶◭元巨人・菅野智之 全球団複数年以上メジャー契約準備 G・メルビン監督「成功するのは間違いない」7:30 ▶◭元巨人ダニエル・ミサキ(28) TxRとマイナー契約 NPB1年半で芽が出ずとも ~米報道8:40 > …NPBと云うか、使い捨てだったでしょうから。 昨季はCub傘下で20試合登板。 ▶NY 通算73勝36敗防3.07フリード 8年331億円で合意 左投手史上最高額 7:53 ⑩▷▷➓▶▶ ⑪▷▷▷ 【⑪旧J等性被害・/芸能関連N全般】▷▷⇗⇘
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(画像・ 1) 近影 /パワプロ2022再現選手 エディ・マーレ 1981年 BAL - ポッチャマのパワプロ2020・2022MLB査定
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1c/f5c2322ad6035d2428e94bbbe7aaa727.jpg)
(画像・ 2上下) 上;右打席 /史上最高のスイッチヒッター - 自己満足的電脳空間 gooblog
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/8e/bdf6ced59ed21f28cd20d7832397dea2.png)
下;左打席 /エディ・マレーのサイン会 PowersSports
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/a9/0307f21bb2b06a9042b792abf1627dec.png)
(画像・ 3) センスある打撃光った松永浩美。 晩年は高齢で女児をもうけるなどの話題も。 阪急(オリックスBW)79-92、阪神93、福岡ダイエー94-97。。 在籍1年で1期目で自ら提案して創設されたFAで阪神から移籍し、「野田の只出し」と云われたっけ /BBM2002オールタイムヒーローズ 松永浩美 | yukon_grachero Museum | MUUSEO 617929
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/11/b8d6305417e6eb409eeaabefee918132.jpg)
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