先週末は野暮用続き、しかも寒波が居座っているようで山にも行けませんでした。1週間に1度の更新を今年の目標にした手前、最近読んだ本のお話です。
もともと記憶力が弱いのですが、最近さらに物忘れが酷くなり、見た同じビデオを3回も続けて借りてくるような始末。図書館で借りた本なので忘れないよう、粗筋を記録しておくつもりで書いておりますので悪しからずお願いします。
*最適が最善ではない
この本ではタイトル通り、今までの進化論とは少し違う見解を示し、生き残るのは強い者ではないと言っております。
ダーウィン以後の進化理論である総合学説では、適者生存、つまり、平均適応度の高い者が生き残るという適応度万能論が信じられてきた。ここでは、平均適応度の高い個体を「強い者」と定義しておこう。つまり「強い者=子孫をたくさん残す者」という図式で、「適応度の低い者は駆逐される」という自然観であった。(略)
では、私が考える環境変化・変動を考慮に入れたときの進化理論「環境変動説」は、(略)
リスクの問題など様々なトレードオフにより強い者が必ずしも生き残れない、つまり「最終的に生き残る者」と「強い者」はしばしば一致しないのである。
ここで、私が気に入ったのは、「体長の適応を人間の男子を例に」説明した下りです
仮に(身長)180センチが女性に最も人気があったとする。ところが、日本の家屋の戸の高さは180センチが多い。そこで、男性の適応度ポテンシャルは身長180センチが最適であるが、180センチを超すと頭がドア枠にぶつかって、仮に死んでしまうとする。
このとき自然選択による適応進化は、男性の身長を何センチにまで導くであろうか?
身長の確率分布図では、平均180cmの場合、180cmを頂点に左右対称の放物線を描きます。
平均180センチでは、半分の個体が180を超してしまい、ドアに頭を打つ。つまり、その身長は最適では無い。では、何センチが最適かというと、180を超さないが、十分高い分布、たとえば、平均身長170センチが最適なのである。(略)平均身長170センチだと、もっとも最適な180センチになる者がほとんどいない。一方で、180を超して死んでしまう男子もいないのだ。だからこそ、合計の適応度はずっと高くなる。
この例を見ても、最適な者(180センチ)、つまり、強者はわずかしかできないのである。
なるほど、背が高いやつはもてるけれど、ドアに頭をぶつけて死ぬんだ!
小学校の頃から身長の順でも、名前の順でも常に前の方にいた私は確率分布図では左端に位置しますが、頭をぶつけて死ぬ人間を減らし、種全体の生存確率を高める役割は果たしていたことになります。
娘の身長が低いのを私に文句を言う愚妻に読んで貰いたいものです。
*3つの進化論の違い
ダーウィンの進化論は環境が変化しないという条件で適応度の高い者(強い者)が生き残ります。その後の進化論は、変化はするが変化した環境に適応度の高い者が生き残るとしてきました。本書の「環境変動説」は環境はめまぐるしく変わりますので、それぞれの環境で「強い者」が生き残るのではなく、すべての環境で「そこそこ」の適応者が絶滅せず、最後に生き残るとしています。
そうなのだ、「そこそこ」こそ最良なのだ!
極端に暑さに強く寒さに弱い者は熱帯では一番に繁栄します。逆に寒さに強く暑さに弱い者は寒帯では一番に繁栄します。しかし、暑さと寒さがめまぐるしく変わる環境では、前者も後者も絶滅し暑さにも寒さにもソコソコ対応できる者が生き残れるのです。
A派の人はA部長が権勢を振るっていた時は我が世の春でしたが、A部長が失脚しB部長が登場するやA派は駆逐されB派が権勢を振るいます。しかし、A部長が復権するやB派は駆逐され、C部長の登場で両派は駆逐されます。このような環境変動の中では、権力闘争に与(くみ)せず、うだつは上がらないがコツコツやっている人が結果的には生き残るという様なことでしょうか?
*「共生する者」が進化する
最後に本書は、環境変動説は人間社会の栄枯盛衰や政治経済の在り方まで説明できるとし、今のアメリカ発の市場原理主義は、社会規範を忘れた「強者の世界」であり、生物世界の「適応放散(繁栄)と絶滅」を見れば、「強者」の時代の終焉は絶滅を示唆しているといいます。
そして、その対処方法として他人との共生・協力を呼びかけています。
今、「長期的な利益」のために、「短期的な利益」の追求を控え、協同行動をとるべき時なのだ。
「強い者」は最後まで生き残れない。最後まで生き残ることができるのは、他人と共生・協力できる「共生する者」であることは「進化史」が私たちに教えてくれていることなのである。
貧乏長屋のサラリーマン家庭に育った我が身には、負け組根性が染みついているせいかどうも世の中を斜視する癖があります。そんな、ひねくれ者の心くすぐる本です。
しかし、前書きに一人勝ちトヨタ自動車の未曾有の危機に際して、渡辺捷昭社長(2008年当時)は著者と同じメッセージコメントしたといいます。
曰く、
「強いものが生き残るのではなく、環境変化に対応できたものだけが生き残るのだ」
また、最近ブレイク中のドラッカーは存命中、著書「ドラッカーの遺言」で日本の失われた10年を「日本におこっていることは危機では無く、変化」だと言っております。
今、トヨタや日本の社会は環境変化に対応しているのでしょうか?
自己主張の弱さや優柔不断さは、競争社会の中では不利でしたが、
変化が起きる時代には生き残りに有利に働くでしょうか?
もともと記憶力が弱いのですが、最近さらに物忘れが酷くなり、見た同じビデオを3回も続けて借りてくるような始末。図書館で借りた本なので忘れないよう、粗筋を記録しておくつもりで書いておりますので悪しからずお願いします。
*最適が最善ではない
この本ではタイトル通り、今までの進化論とは少し違う見解を示し、生き残るのは強い者ではないと言っております。
ダーウィン以後の進化理論である総合学説では、適者生存、つまり、平均適応度の高い者が生き残るという適応度万能論が信じられてきた。ここでは、平均適応度の高い個体を「強い者」と定義しておこう。つまり「強い者=子孫をたくさん残す者」という図式で、「適応度の低い者は駆逐される」という自然観であった。(略)
では、私が考える環境変化・変動を考慮に入れたときの進化理論「環境変動説」は、(略)
リスクの問題など様々なトレードオフにより強い者が必ずしも生き残れない、つまり「最終的に生き残る者」と「強い者」はしばしば一致しないのである。
ここで、私が気に入ったのは、「体長の適応を人間の男子を例に」説明した下りです
仮に(身長)180センチが女性に最も人気があったとする。ところが、日本の家屋の戸の高さは180センチが多い。そこで、男性の適応度ポテンシャルは身長180センチが最適であるが、180センチを超すと頭がドア枠にぶつかって、仮に死んでしまうとする。
このとき自然選択による適応進化は、男性の身長を何センチにまで導くであろうか?
身長の確率分布図では、平均180cmの場合、180cmを頂点に左右対称の放物線を描きます。
平均180センチでは、半分の個体が180を超してしまい、ドアに頭を打つ。つまり、その身長は最適では無い。では、何センチが最適かというと、180を超さないが、十分高い分布、たとえば、平均身長170センチが最適なのである。(略)平均身長170センチだと、もっとも最適な180センチになる者がほとんどいない。一方で、180を超して死んでしまう男子もいないのだ。だからこそ、合計の適応度はずっと高くなる。
この例を見ても、最適な者(180センチ)、つまり、強者はわずかしかできないのである。
なるほど、背が高いやつはもてるけれど、ドアに頭をぶつけて死ぬんだ!
小学校の頃から身長の順でも、名前の順でも常に前の方にいた私は確率分布図では左端に位置しますが、頭をぶつけて死ぬ人間を減らし、種全体の生存確率を高める役割は果たしていたことになります。
娘の身長が低いのを私に文句を言う愚妻に読んで貰いたいものです。
*3つの進化論の違い
ダーウィンの進化論は環境が変化しないという条件で適応度の高い者(強い者)が生き残ります。その後の進化論は、変化はするが変化した環境に適応度の高い者が生き残るとしてきました。本書の「環境変動説」は環境はめまぐるしく変わりますので、それぞれの環境で「強い者」が生き残るのではなく、すべての環境で「そこそこ」の適応者が絶滅せず、最後に生き残るとしています。
そうなのだ、「そこそこ」こそ最良なのだ!
極端に暑さに強く寒さに弱い者は熱帯では一番に繁栄します。逆に寒さに強く暑さに弱い者は寒帯では一番に繁栄します。しかし、暑さと寒さがめまぐるしく変わる環境では、前者も後者も絶滅し暑さにも寒さにもソコソコ対応できる者が生き残れるのです。
A派の人はA部長が権勢を振るっていた時は我が世の春でしたが、A部長が失脚しB部長が登場するやA派は駆逐されB派が権勢を振るいます。しかし、A部長が復権するやB派は駆逐され、C部長の登場で両派は駆逐されます。このような環境変動の中では、権力闘争に与(くみ)せず、うだつは上がらないがコツコツやっている人が結果的には生き残るという様なことでしょうか?
*「共生する者」が進化する
最後に本書は、環境変動説は人間社会の栄枯盛衰や政治経済の在り方まで説明できるとし、今のアメリカ発の市場原理主義は、社会規範を忘れた「強者の世界」であり、生物世界の「適応放散(繁栄)と絶滅」を見れば、「強者」の時代の終焉は絶滅を示唆しているといいます。
そして、その対処方法として他人との共生・協力を呼びかけています。
今、「長期的な利益」のために、「短期的な利益」の追求を控え、協同行動をとるべき時なのだ。
「強い者」は最後まで生き残れない。最後まで生き残ることができるのは、他人と共生・協力できる「共生する者」であることは「進化史」が私たちに教えてくれていることなのである。
貧乏長屋のサラリーマン家庭に育った我が身には、負け組根性が染みついているせいかどうも世の中を斜視する癖があります。そんな、ひねくれ者の心くすぐる本です。
しかし、前書きに一人勝ちトヨタ自動車の未曾有の危機に際して、渡辺捷昭社長(2008年当時)は著者と同じメッセージコメントしたといいます。
曰く、
「強いものが生き残るのではなく、環境変化に対応できたものだけが生き残るのだ」
また、最近ブレイク中のドラッカーは存命中、著書「ドラッカーの遺言」で日本の失われた10年を「日本におこっていることは危機では無く、変化」だと言っております。
今、トヨタや日本の社会は環境変化に対応しているのでしょうか?
自己主張の弱さや優柔不断さは、競争社会の中では不利でしたが、
変化が起きる時代には生き残りに有利に働くでしょうか?
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