H27.2.1大坊山
最近、山友と山行に出かけると必ずと言っていいほど神社によりたがる。山頂に神社があれば、帰りに里宮に寄り一金300円也を納め御朱印を貰う。
山には道中や山頂に小祠があり、登頂すれば頭を下げてきた。何となく山岳信仰や山伏などに興味はあったが体系的に調べたことは無かった。
そんな中、平成29年1月15日にみやま文庫から刊行された「山伏の地方史 ー群馬の修験道ー」 で、今までよく解らなかった、修験道・山伏・神道・仏教などの関係がぼんやりとではあるが、理解出来た気がする。
以下は、この本を読んで理解した内容の覚えである
古墳時代、山は神のおられる聖地で山に立ち入らず山麓に祭場を設け神を招いて祀った(山麓祭祀)。その後9世紀頃までには、仏教徒の修行の場となり山麓に寺院が建設された。
修験道は古墳時代に芽生えた山岳信仰を土台として、山林仏教をはじめとする外来宗教のもと、古代末期(11世紀頃)に修験道が誕生。その担い手が山伏。
15世紀になると京都市の聖護院を本山とする本山派と京都市醍醐寺三宝院(真言宗)を本山とする当山派が形成され、1618年に江戸幕府により偽山伏禁止令により本山の支配を受けない山伏が禁止され、本山派と当山派の二大教団が形成された。(東北地方では羽黒派、九州地方では彦山派が存在)
(吉野神社)
江戸時代、山伏にとって最も重要な修行は山岳修行で、山岳修行を行わなければ山伏になれなかった。中でも奈良県吉野から和歌山県熊野へ連なる大峰山での修行は重要で群馬(上野国)の山伏もはるばる大峰山まで修行に出かけた。
(大峰山系最高峰のハ経ケ岳)
本山派は熊野から吉野へ向かう順峰、当山派は吉野から熊野へ向かう逆峰を修行形態とされたが、多くは吉野からの逆峰が多かった。
神仏を共に祀る修験道は神々が仏教の仏や菩薩の仮の姿で現れた「権現」として仏教的作法で供養し、山伏は妻帯し半僧半俗の生活を送るのが普通であり、妻が神子(みこ)である場合しばしば見られた。
(根本山神社跡)
江戸期、群馬でも修験道は盛んであり中でも桐生市根本山にあった根本山神社は火伏・盗難除けに効験があるとされ、遠く江戸からも信者が講を組織して参詣に訪れており、江戸から根本山までのガイドブック「根本山参詣ひとり案内」(みやま文庫151参照)が刊行されている。
明治政府は神仏分離と修験道廃止を進め、聖護院配下の本山派は天台宗、三宝院配下の当山派は真言宗に組み入れられ、修験者の多くは天台宗もしくは真言宗に帰属するか僧侶から神主となることを強いられた。
戦後の新しい宗教法人法が成立すると、昭和21年に京都の聖護院を本山とする「本山修験宗」が天台宗から独立。群馬県では今日、みなかみ町下津の長生山三重院が武尊山を行場として活動しているほか、川場村正善寺など8寺が本山修験宗であるようだ。
庚申信仰
山村を歩いていると時々「庚申塔」なるものを見かける。これも何だろうと永年思っていたが、本書によれば
「高崎市通町の庚申寺持宝院は、菩提山正暦寺の袈裟筋の修験。ー略ー庚申信仰のメッカであった。庚申信仰は、カノエサルの日の夜に、人間の体内にいる三尸(さんし)が天帝にその人の罪過を報告し、早死にさせようとするため、その晩に慎んで徹夜して起きていると、三尸が活動できず、長生きするというものである。中国の道教の信仰で、室町時代以降、日本でも盛んに信仰されるようになった。ー略ー 庚申寺の事例は、庚申信仰と当山派修験の密接な関係を示すものであり、庚申信仰の普及に当山派修験が一役買ったことが知られる」
とあり、庚申塔の疑問が解けた気がした。
1961年(昭和36年)設立以来、郷土の歴史や文化を伝え
群馬を知る百科事典と言われた「みやま文庫」ですが
購読者の減少により存続の危機に晒されているそうです
専門的な言葉が多く読みにくいことは確かですが
全国でも稀有な文化活動だと思います
是非、存続していただきたいものです
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