《補われた知と対をなすもの-34》
「自己のない心の樹」
事物の変化(美化、トラウマなど)は、「補われた知の樹」と対をなす「自己のない心の樹」のモードによって左右される現象の連続による記憶である。自身で選択しているかのように思える現象も、「補われた知の樹」と触れ合う「自己のない心の樹」のモードによりごく自然的に結びついたものである。
しかし、犯罪やトラウマという現象には、自然的という言葉はあてはまらない結びつきをしている。もちろん「補われた知の樹」と触れ合う「自己のない心の樹」のモードに左右された現象から始まっているが、最も自然的で印象深く、そして理性を必要としない場面を一つのクラスとし「補われた知の樹」と「自己のない心の樹」を堅固に絡み合わせることによって限界づけられた領域を作るものである。観察するやり方、方法、ルールを規定する自己を作り上げる作業と類似するものである。
自身が規定する自己には不自由さがあり、否定する考えが存在するのは必然である。「自己のない心の樹」に自己は存在しないのだから、自由であり捉えたものに対し理解もなく、ただその時の「自己のない心の樹」のモードの自然な関係として受け入れているためである(その差により不自由と否定が存在する)。「自己のない心の樹」は常に理性を必要としないのだから、自然的で印象深く、そして理性を必要としない場面の記憶をもつ「補われた知の樹」とは非常に容易く関係づけられやすい。つまり、犯罪やトラウマという現象は理性を必要としない場面の記憶が大きな役割を果たしていることになる。・・・・・つづく。
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