2017/05/28 原田実さん講演「教育に忍び込む偽史・疑似科学~親学と『江戸しぐさ』を中心に~」
サイト「市民社会フォーラム」に
この講演テーマについて記述があります。
☆ 記事URL:http://shiminshakai.net/post/2366?doing_wp_cron=1511214630.0991749763488769531250
江戸しぐさの
デモンストレーションに必ず登場するのが
「傘かしげ」です。
これは、
狭い路地ですれ違う時に、お互いが傘を傾け、相手の道をお互いに作りながらすれ違うという、
一見、美しい光景です。
「美しい日本」の原点かもしれません。
しかし、「傘かしげ」を道徳として実践すると、
次のような不都合が生じます。
すなわち、
江戸の狭い路地にある商家の土間に並べた商品に雨水をぶっかけることになります。
また、和傘はすぼめるのが容易であり、
傘をすぼめている場面は浮世絵等にも描かれています。
江戸では雨具として番傘や蓑が主流であったため、傘かしげを広める必要もなかったという
ことが指摘されています。
つまり、江戸時代の
仕草とされながら江戸時代に起源がないということです。
しかし、江戸しぐさと言われるものは、
昭和初期発祥なようです。
たとえば、
江戸しぐさの推奨者である
越川禮子氏よると、
江戸には黒砂糖入りのパンがあり、
高級品にはショコラが入っていたそうです。
また、当時の江戸っ子が栄養食としてトマトを食べていたとか、
江戸っ子はバナナが大好物で、皮をむいて中身を包丁で切って箸で食べていたなど、
昭和初期の頃の風物が書かれています。
さて、
このように江戸しぐさには
発祥そのものが
でっち上げであることが証拠立てられています。
一体、誰が何のために
「江戸しぐさ」なるものを創作したのか。
特定されています。
芝三光(しば・みつあきら)氏という人だそうです。
1970年代初頭に「江戸の良さを見なおす会」という団体を立ち上げました。
1981年、読売新聞が
江戸の良さを見直す会の活動を記事で取り上げ、
この中に「江戸しぐさ」という言葉が、現在確認されている文献上では初めて登場するとのことです。
「江戸しぐさ」がフィクションである決定的な証拠は、
「江戸っ子狩り」です。
明治維新のとき、
江戸っ子が先住民として
官軍に捕らえられては処刑されていた(!)と言います。
薩摩・長州の人間が
旧幕府軍の生き残りを捕まえていた
という話なら分かりますが、
先住民はないだろうな、
と思います。
こういう時代考証と合致しない
「江戸しぐさ」が
教育に取り入れられるきっかけを作ったのが
高橋史朗氏です。
この人は、
1970年代半ばに生長の家学生会全国総連合委員長になりました。
当時、生長の家は、
大日本帝国憲法の復活と天皇の神格化を教義に据えていました。
ここで、
「江戸しぐさ」が
親学として衣替えしました。
他方、親学は、
科学的根拠を主張しだしました。
それが
世間騒がせな
「発達障害」論を打ち出しました。
すなわち、
脳科学等に依拠した、
疑似科学が生み出されました。
注意すべきは、
高橋史郎の介在によって
ホリスティック教育の影響を受け、、
教育行政を介することで地域社会や家庭に介入できるシステムとしても機能しうるものとなってしまっている点です。
この特徴のゆえに、
2012年に親学推進議員連盟が超党派で設立される元になったのでしょう。
親学とは、
一言で言えば、
親になるために履修すべき学問の意です。
具体的な内容は、
スキンシップを大切にせよなど
特に反対すべきでない教えも含まれています。
これは、
親学の前身、「江戸しぐさ」の生みの親、
芝三光さんの
考えを煮詰めた過程に由来するようです。
この人は、
昭和初期に郷愁を持つとともに、
GHQとして
来日していたCIの行儀作法(マナー)を取り入れていたとされます。
しかし、他方、江戸という
“伝統”に固執した教育法のはずです。、
「江戸しぐさ」として
江戸のいかなる理念、思考を受け継いだ教育なのでしょう。
どこに
伝統があるのでしょう。
講演者の原田実氏によると、
それは、
「TVを見るな」
ということに尽きるらしい。
確かに、TVは、
江戸時代にはなかったに違いないですね。
しかし、TVを見なければ、
親として
必要十分な教育を得たことになるのでしょうか。
思うに、
テレビを見たがために
脳が故障したと考える結果にしかなっていないのではないでしょうか。
現に、ネトウヨが好きな
「基地外」
という罵倒の言葉も
親学が
淵源になっているように感じます。
結局は、
教育勅語によって
正当化された価値観――親への感謝など――を親学の名において
地域に広め、
国民に植え付けてるシステムになっています。
「親に感謝しろ」
という合言葉の下、「美しい国」が再生されて
実現するのは、
子どもの幸せをまったく顧みない、極論を言えば、特攻隊の世界です。
今、世界は、
娯楽映画であってさえ、
親の殺害を漸く直視し出しました
(拙稿「映画『IT』を観て」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/db7781fab76eb33e2ab00730d168c7fc)。
また、レイプによって生まれた子の気持ちが取り上げられた映画
(深入りしてませんが)を数日前、見ました
(拙稿「映画『ウォッチメン』を見た」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/ee7f03425dd2ece98eeefd5a96cca70d)。
日本は、
前に進むのでなく、時間の流れを逆転し出しています。
弱い者の運命を気にかけない社会って、
滅びの道を歩んでいるんじゃないでしょうか。
サイト「市民社会フォーラム」に
この講演テーマについて記述があります。
☆ 記事URL:http://shiminshakai.net/post/2366?doing_wp_cron=1511214630.0991749763488769531250
江戸しぐさの
デモンストレーションに必ず登場するのが
「傘かしげ」です。
これは、
狭い路地ですれ違う時に、お互いが傘を傾け、相手の道をお互いに作りながらすれ違うという、
一見、美しい光景です。
「美しい日本」の原点かもしれません。
しかし、「傘かしげ」を道徳として実践すると、
次のような不都合が生じます。
すなわち、
江戸の狭い路地にある商家の土間に並べた商品に雨水をぶっかけることになります。
また、和傘はすぼめるのが容易であり、
傘をすぼめている場面は浮世絵等にも描かれています。
江戸では雨具として番傘や蓑が主流であったため、傘かしげを広める必要もなかったという
ことが指摘されています。
つまり、江戸時代の
仕草とされながら江戸時代に起源がないということです。
しかし、江戸しぐさと言われるものは、
昭和初期発祥なようです。
たとえば、
江戸しぐさの推奨者である
越川禮子氏よると、
江戸には黒砂糖入りのパンがあり、
高級品にはショコラが入っていたそうです。
また、当時の江戸っ子が栄養食としてトマトを食べていたとか、
江戸っ子はバナナが大好物で、皮をむいて中身を包丁で切って箸で食べていたなど、
昭和初期の頃の風物が書かれています。
さて、
このように江戸しぐさには
発祥そのものが
でっち上げであることが証拠立てられています。
一体、誰が何のために
「江戸しぐさ」なるものを創作したのか。
特定されています。
芝三光(しば・みつあきら)氏という人だそうです。
1970年代初頭に「江戸の良さを見なおす会」という団体を立ち上げました。
1981年、読売新聞が
江戸の良さを見直す会の活動を記事で取り上げ、
この中に「江戸しぐさ」という言葉が、現在確認されている文献上では初めて登場するとのことです。
「江戸しぐさ」がフィクションである決定的な証拠は、
「江戸っ子狩り」です。
明治維新のとき、
江戸っ子が先住民として
官軍に捕らえられては処刑されていた(!)と言います。
薩摩・長州の人間が
旧幕府軍の生き残りを捕まえていた
という話なら分かりますが、
先住民はないだろうな、
と思います。
こういう時代考証と合致しない
「江戸しぐさ」が
教育に取り入れられるきっかけを作ったのが
高橋史朗氏です。
この人は、
1970年代半ばに生長の家学生会全国総連合委員長になりました。
当時、生長の家は、
大日本帝国憲法の復活と天皇の神格化を教義に据えていました。
ここで、
「江戸しぐさ」が
親学として衣替えしました。
他方、親学は、
科学的根拠を主張しだしました。
それが
世間騒がせな
「発達障害」論を打ち出しました。
すなわち、
脳科学等に依拠した、
疑似科学が生み出されました。
注意すべきは、
高橋史郎の介在によって
ホリスティック教育の影響を受け、、
教育行政を介することで地域社会や家庭に介入できるシステムとしても機能しうるものとなってしまっている点です。
この特徴のゆえに、
2012年に親学推進議員連盟が超党派で設立される元になったのでしょう。
親学とは、
一言で言えば、
親になるために履修すべき学問の意です。
具体的な内容は、
スキンシップを大切にせよなど
特に反対すべきでない教えも含まれています。
これは、
親学の前身、「江戸しぐさ」の生みの親、
芝三光さんの
考えを煮詰めた過程に由来するようです。
この人は、
昭和初期に郷愁を持つとともに、
GHQとして
来日していたCIの行儀作法(マナー)を取り入れていたとされます。
しかし、他方、江戸という
“伝統”に固執した教育法のはずです。、
「江戸しぐさ」として
江戸のいかなる理念、思考を受け継いだ教育なのでしょう。
どこに
伝統があるのでしょう。
講演者の原田実氏によると、
それは、
「TVを見るな」
ということに尽きるらしい。
確かに、TVは、
江戸時代にはなかったに違いないですね。
しかし、TVを見なければ、
親として
必要十分な教育を得たことになるのでしょうか。
思うに、
テレビを見たがために
脳が故障したと考える結果にしかなっていないのではないでしょうか。
現に、ネトウヨが好きな
「基地外」
という罵倒の言葉も
親学が
淵源になっているように感じます。
結局は、
教育勅語によって
正当化された価値観――親への感謝など――を親学の名において
地域に広め、
国民に植え付けてるシステムになっています。
「親に感謝しろ」
という合言葉の下、「美しい国」が再生されて
実現するのは、
子どもの幸せをまったく顧みない、極論を言えば、特攻隊の世界です。
今、世界は、
娯楽映画であってさえ、
親の殺害を漸く直視し出しました
(拙稿「映画『IT』を観て」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/db7781fab76eb33e2ab00730d168c7fc)。
また、レイプによって生まれた子の気持ちが取り上げられた映画
(深入りしてませんが)を数日前、見ました
(拙稿「映画『ウォッチメン』を見た」参照。*http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/ee7f03425dd2ece98eeefd5a96cca70d)。
日本は、
前に進むのでなく、時間の流れを逆転し出しています。
弱い者の運命を気にかけない社会って、
滅びの道を歩んでいるんじゃないでしょうか。
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