偏見の第一原因は、権威への畏敬の念に発します。その畏敬が自分の依存心(所属ないし服従意識)と結びつくとき、盲目的となり、同じ意識を持たない者を排除しようとします。また、自分の畏敬する神に対抗的な存在である別の神々、または権威に対して、畏敬の念の裏返しと言ってよい感情を抱きます。すなわち、侮蔑的な敵愾心です。仮に“権威依存型敵愾心”と名付けておきましょう。宗教対立が深刻なのは、敵愾心の根底に、畏敬という崇高な思いの絡んだ偏見があるからでしょう。ある神を畏敬する者にとって、別の神は、破壊してもよいわけです。すなわち、偶像(張りぼて)です。それに仕える人たちは、害毒をまき散らす病原菌みたいなもんです。存在しなくてよいのです。
しかしながら、事は、宗教対立に限りません。権威への服従を欲する者は、宗教以外の世界であっても、このような盲目的な偏見を内に宿す危険が常にあります。エーリッヒ・フロムがその著「自由からの逃走」で詳述している通りです
偏見の第二原因は、分類という知覚システムから発生すると考えられます。身近に存在するものを「こちら」と「あちら」を対比させた場合、「あちら」と「こちら」の小異が大異になります。反面、それぞれの内部での差異は小さくなります。男と女を例にとると分かりやすいでしょう。あるジョークに、男は、女をすべて金星人のように見、女は、男をすべて火星人のように見るとあります。かくして、地球には地球外生命体が充ち溢れ、いがみ合っているというわけです。思い当たる節があるでしょう。心理学の専問用語で、「あちら」にある外集団に対して“皆同じ”という烙印を押す傾向を「外集団均質性効果」と呼びます。「こちら」に対する身びいき、「あちら」に対する脅威の感情がこの“分類型敵慨心”の原動力です(ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾他訳、みすず書房参照)。
思うに、「権威」が悪いのじゃない。「分類」に罪があるわけではないでしょう。権威を認めた後、分類した後の執着が問題です。
では、執着って、断ち切れるものなのか――。
仏教の開祖、お釈迦様は、この「執着」を断ち、悟りを広めるため生涯を捧げられました。凡夫である自分が同じことができるのでしょうか・・・
結論からいうと、出来そうにないです。僕などは、この問題を端から捨てています。と言うか、捨てたいです。しかし、偏見の弊害は、間違いなくあります。どうすればいいのでしょう。 観点を変えてみましょう。
僕も、ただいま、偏見を持ってます。「執着は断ち切れない」という偏見です。つまり、執着を断ち切れない理由として、「こだわり(執着)が強い」という仮説を立てているわけです。自己認識の内容そのものです。しかし、この仮説が正しいとする根拠があるのか。厳密に問い出すと、これは単なる自己への希望ではないのか、という思いが浮かびます。自分の人生を振り返って、諦めたものだらけです。ということは、「こだわり(執着)は、さほど強くない」というのが真実のはずです。しかしにもかかわらず、依然として、「こだわりが強い」という仮説を維持しようとしてます。不思議ですね。その仮説のため、不都合な事実を無視しているわけです。なぜなんでしょう。
まず考えられるのは、「執着は、断ち切れる」と断言すれば、「じゃあ、やって見ろ」と迫られるということが挙げられます。群衆の陰に隠れ物申すタイプに、この手の立証を迫る人が多いようです(言葉に踊らされ、臆してしまう方がもっと問題かもしれませんが)。 実際、「お試し、お試し、飛べたら本こ」という子供の囃子言葉が、結構、巷では流行っているようです。子供って、群れたがるもんです。テレビ番組で、派遣切りでその日の食物に事欠く人が多い御時世なのに、「お試しぃ」と題して、大食いさせるバラエティショーがあります。テレビカメラの向こう側にいる見えない群衆を当て込んだ、暴飲暴食のお祭りです。「飛べたら本こ」のアナロジーとして「食べたら本こ」ということなのでしょう。しかし、大人になってなお群れ、囃し立てる習性が一向に改まらない人間の姿を見るのは、気持ちいいものではありません。こんな風に人に試され、見世物にならないためには、「沈黙は金」と考えるしかないのでしょうか。もしそうなら、とても寂しい限りです。僕は、反対です。口を封じ、沈み込めば、自分の生を削ぐのも同じような気がします。ぶっちゃけた話、飛べても嘘こ、飛べなくとも本こでいいのではないでしょうか。それを許す社会的な寛容の精神を育てる価値観が大切と思います。「飛べたら本こ」主義は、扇動的と言うか、冒険的な思考形態に思え、感心しないです。この点は、注意を促しておきたいですね。ありのままの現実をみたいなら、実践は、もっと幅広く受け入れた方がいいように思います。
二つ目の理由に移ります。 続いて考えられるのは、何かを意志した場合に想起される、一群の観念の“連なり”が実現を阻害するということです。具体的な例で話した方が分かりやすいですね。たとえば、ギャンブルがとても好きな人がいたとします。殊勝にも「パチンコを断つ」と宣言しました。パチンコで、連想するものは色々ありますね。麻雀だって同じギャンブルじゃないかとか、漫画の「釘師サブやん」とかまで、執着している対象に内容的な広がりがあります。つまり、断とうとしたパチンコにネットワークがあるわけです。普段はそれを意識しません。しかし、一旦、ある一部が引き出されると、芋蔓式にぞろぞろと関連する物が活性化されます。それで結局、パチンコを断とうと宣言したものの、どうしようもないという思いに囚われ、せっかくの決意を空振りさせてしまったりするわけです。もう少し説明します。イメージとして、ある事柄のネットワークに「生命」が組み込まれていたとします。そうすると、当然、その何かある事柄につき、決断したとすれば、「生命」を思い起こし、実行に移すには絶命するか否かという問題に踏み込まないといけないような、錯覚ないし強迫観念に襲われるはずです。「とても無理だ」という諦めには、こうした“連なり”の感覚が影響している場合があるわけです。
三つ目の点につき述べます。不都合な事実を無視してまでする偏見への固執は、往々社会の求めるところなのです。これによって、説明を簡明化しえます。たとえば、派遣社員は、努力が足りないから、都合のいい役割をいつまでもやらされる等々です。分かりやすいでしょう。
(み~んな、おいらが悪いのさ♪)と、底辺にいる人が納得すれば、社会は、かくして安泰というわけです。めでたし。めでたし。
※偏見の原因を二つに区別して、上に「権威依存型敵愾心」と「分類型敵慨心」の語句にまとめました。しかし、これらは、僕の造語です。したがって、検索しても、専門的な解説は何も出て来ないですよ。あしからず。
しかしながら、事は、宗教対立に限りません。権威への服従を欲する者は、宗教以外の世界であっても、このような盲目的な偏見を内に宿す危険が常にあります。エーリッヒ・フロムがその著「自由からの逃走」で詳述している通りです
偏見の第二原因は、分類という知覚システムから発生すると考えられます。身近に存在するものを「こちら」と「あちら」を対比させた場合、「あちら」と「こちら」の小異が大異になります。反面、それぞれの内部での差異は小さくなります。男と女を例にとると分かりやすいでしょう。あるジョークに、男は、女をすべて金星人のように見、女は、男をすべて火星人のように見るとあります。かくして、地球には地球外生命体が充ち溢れ、いがみ合っているというわけです。思い当たる節があるでしょう。心理学の専問用語で、「あちら」にある外集団に対して“皆同じ”という烙印を押す傾向を「外集団均質性効果」と呼びます。「こちら」に対する身びいき、「あちら」に対する脅威の感情がこの“分類型敵慨心”の原動力です(ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾他訳、みすず書房参照)。
思うに、「権威」が悪いのじゃない。「分類」に罪があるわけではないでしょう。権威を認めた後、分類した後の執着が問題です。
では、執着って、断ち切れるものなのか――。
仏教の開祖、お釈迦様は、この「執着」を断ち、悟りを広めるため生涯を捧げられました。凡夫である自分が同じことができるのでしょうか・・・
結論からいうと、出来そうにないです。僕などは、この問題を端から捨てています。と言うか、捨てたいです。しかし、偏見の弊害は、間違いなくあります。どうすればいいのでしょう。 観点を変えてみましょう。
僕も、ただいま、偏見を持ってます。「執着は断ち切れない」という偏見です。つまり、執着を断ち切れない理由として、「こだわり(執着)が強い」という仮説を立てているわけです。自己認識の内容そのものです。しかし、この仮説が正しいとする根拠があるのか。厳密に問い出すと、これは単なる自己への希望ではないのか、という思いが浮かびます。自分の人生を振り返って、諦めたものだらけです。ということは、「こだわり(執着)は、さほど強くない」というのが真実のはずです。しかしにもかかわらず、依然として、「こだわりが強い」という仮説を維持しようとしてます。不思議ですね。その仮説のため、不都合な事実を無視しているわけです。なぜなんでしょう。
まず考えられるのは、「執着は、断ち切れる」と断言すれば、「じゃあ、やって見ろ」と迫られるということが挙げられます。群衆の陰に隠れ物申すタイプに、この手の立証を迫る人が多いようです(言葉に踊らされ、臆してしまう方がもっと問題かもしれませんが)。 実際、「お試し、お試し、飛べたら本こ」という子供の囃子言葉が、結構、巷では流行っているようです。子供って、群れたがるもんです。テレビ番組で、派遣切りでその日の食物に事欠く人が多い御時世なのに、「お試しぃ」と題して、大食いさせるバラエティショーがあります。テレビカメラの向こう側にいる見えない群衆を当て込んだ、暴飲暴食のお祭りです。「飛べたら本こ」のアナロジーとして「食べたら本こ」ということなのでしょう。しかし、大人になってなお群れ、囃し立てる習性が一向に改まらない人間の姿を見るのは、気持ちいいものではありません。こんな風に人に試され、見世物にならないためには、「沈黙は金」と考えるしかないのでしょうか。もしそうなら、とても寂しい限りです。僕は、反対です。口を封じ、沈み込めば、自分の生を削ぐのも同じような気がします。ぶっちゃけた話、飛べても嘘こ、飛べなくとも本こでいいのではないでしょうか。それを許す社会的な寛容の精神を育てる価値観が大切と思います。「飛べたら本こ」主義は、扇動的と言うか、冒険的な思考形態に思え、感心しないです。この点は、注意を促しておきたいですね。ありのままの現実をみたいなら、実践は、もっと幅広く受け入れた方がいいように思います。
二つ目の理由に移ります。 続いて考えられるのは、何かを意志した場合に想起される、一群の観念の“連なり”が実現を阻害するということです。具体的な例で話した方が分かりやすいですね。たとえば、ギャンブルがとても好きな人がいたとします。殊勝にも「パチンコを断つ」と宣言しました。パチンコで、連想するものは色々ありますね。麻雀だって同じギャンブルじゃないかとか、漫画の「釘師サブやん」とかまで、執着している対象に内容的な広がりがあります。つまり、断とうとしたパチンコにネットワークがあるわけです。普段はそれを意識しません。しかし、一旦、ある一部が引き出されると、芋蔓式にぞろぞろと関連する物が活性化されます。それで結局、パチンコを断とうと宣言したものの、どうしようもないという思いに囚われ、せっかくの決意を空振りさせてしまったりするわけです。もう少し説明します。イメージとして、ある事柄のネットワークに「生命」が組み込まれていたとします。そうすると、当然、その何かある事柄につき、決断したとすれば、「生命」を思い起こし、実行に移すには絶命するか否かという問題に踏み込まないといけないような、錯覚ないし強迫観念に襲われるはずです。「とても無理だ」という諦めには、こうした“連なり”の感覚が影響している場合があるわけです。
三つ目の点につき述べます。不都合な事実を無視してまでする偏見への固執は、往々社会の求めるところなのです。これによって、説明を簡明化しえます。たとえば、派遣社員は、努力が足りないから、都合のいい役割をいつまでもやらされる等々です。分かりやすいでしょう。
(み~んな、おいらが悪いのさ♪)と、底辺にいる人が納得すれば、社会は、かくして安泰というわけです。めでたし。めでたし。
※偏見の原因を二つに区別して、上に「権威依存型敵愾心」と「分類型敵慨心」の語句にまとめました。しかし、これらは、僕の造語です。したがって、検索しても、専門的な解説は何も出て来ないですよ。あしからず。
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