森下友弥@TomoyaMorishita さんのツイートです。
――朝日新聞(逆風満帆)ジャーナリスト 重信メイ(上)「私は生まれてから28年間、国籍がありませんでした」 http://www.asahi.com/articles/ASG8S52VLG8SUCFI005.html … pic.twitter.com/PZZjYReUsY @MayShigenobu pic.twitter.com/G9DdD6nSs8〔8:52 - 2014年9月23日 〕――
このツイートで
朝日新聞が
日本赤軍のリーダ、重信房子さんの娘、
重信メイさんのことを
報道しているのを知りました(〔資料〕参照)。
この方、28年間、
無国籍だったのですな。
「革命の子どもたち」というタイトルで
映画化もされたようです。
この映画の予告編と
2014年9月20日『ニューズオプエド』に出演されたときの番組を
録画した動画URLを
下に掲げてしておきます。
典拠:森下友弥@TomoyaMorishita さんのツイート〔8:52 - 2014年9月23日 〕
「革命の子どもたち」映画予告編URL:https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU
「ニューズオプエド~ 重信メイ出演」(2014年9月20日ビデオ 17:50〜 )URL:https://www.youtube.com/watch?v=12HAVvDwYBc&feature=youtu.be
〔資料〕
「(逆風満帆)28年間、無国籍だった」
朝日新聞:大嶋辰男・文(2014年9月20日03時30分)
☆ 記事URL:http://www.asahi.com/articles/ASG8S52VLG8SUCFI005.html
■ジャーナリスト 重信メイ(上)
「私は生まれてから28年間、国籍がありませんでした」「世界に存在しない人間だったのです」――。東京・新宿にある映画館。スクリーンで重信メイ(41)が語っていた。
この夏、1本の記録映画が話題になった。アイルランド人監督、シェーン・オサリバンの「革命の子どもたち」(配給・太秦)がそれだ。
登場するのは1970年代、世界を揺るがせた極左組織の女性リーダー、ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ(獄中自殺)と日本赤軍の重信房子(68)=殺人未遂などの罪で服役中。暴力主義も辞さない当時の左翼運動の隆盛と実態を、それぞれの娘たちの証言を中心に解き明かそうとする野心的な作品である。
あらためて映画に出演した感想をメイに聞くと、こういった。「立場や時代によって歴史の見方は異なる。母たちのとった手法は間違っていたが、弱者の側に立つという考え方は間違っていなかった。マスコミが流すステレオタイプの情報をうのみにするのではなく、自分で考えるきっかけになってくれたらいい」
日本赤軍の最高幹部だった母の房子は終戦の年、血盟団事件の流れをくむ右翼の父親の次女として生まれた。明治大学在学中、学費値上げ反対闘争に参加し活動家の道に入る。1971年、「世界革命」を目指してレバノンへ出国、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と連携する。
メイは73年、房子とパレスチナ人戦士との間に生まれた。
前年には岡本公三ら日本赤軍の3人のメンバーがイスラエル・テルアビブの空港で自動小銃を乱射、イスラエル警備隊と銃撃戦になり、26人の死者、70人以上の負傷者を出した。
名前のメイは、この事件が起きた5月を指す英語のMayと「革命」の「命」からついたという。ちなみに父はすでに他界、一緒に暮らしたことはない。
日本赤軍はその後もハイジャック事件や在外公館などへの襲撃を繰り返した。アラブ世界からは英雄視される一方で、イスラエルからは報復の対象とみなされる。日本赤軍の活動を支持する勢力やアラブ諸国の支援を受けて潜伏生活を送った。怪しい動きを察知すると引っ越し、各地を転々とする。その時々の状況で集団生活をしたり、ばらばらに住んだりした。難民キャンプで暮らした時期もあった。グループにはメイより年下の2人の子どももいた。
だが、「いまも中東に和平は訪れていない。関係者が危険にさらされる可能性もある。いつどこで誰と暮らしたか、具体的なことはいえない」とメイは話す。
■「お母さんの名前はなに?」
街ではアラブ人、家の中では日本人として暮らした。誰とどんなに親しくなっても、本当の自分を明かすことはできなかった。身分を偽り続けた。
組織のリーダーだった房子は娘が巻き添えになることを心配し、学童期になると離れて暮らした。2人が一緒に過ごした期間は通算でも5年間くらいだったという。8歳の時、その母から自分たちは日本赤軍であると打ち明けられると、こう答えた。「だいぶ前から知ってたよ。知らないふりをしていたの」
初めて母の実名を知ったのは高校生の時だったという。無意識のうちに「お母さんの本当の名前はなに?」と聞いていた。房子は一瞬、とまどいながらに正直に答えた。「シ・ゲ・ノ・ブ・フ・サ・コ」。メイは自著『秘密』にこう書いている。〈不思議な響きだった。フランスかアフリカの名前を言われたようで、まるでピンとこない名前だった〉
元日本赤軍メンバーでメイと共同生活を送ったこともある映画監督、足立正生(75)はいう。「映画で語っていた以上にメイちゃんは過酷な環境にいた。大切な場面になると、本当の身分や家族のことがいえず、疎外感にまみれた」
中学から高校にかけてメイはあるアラブの国にいた。水泳が得意で「国の強化選手にしたい」という話が持ち上がったが、公の場には出ることはできない。理由をつけて辞退した。
日本赤軍にシンパシーを感じ、中東を訪れていた映画監督、故若松孝二は無国籍の彼女の将来を心配し、「俺が現地でつくった子どもということにして連れて帰ろう」といった。あるアラブの国家元首から「養女にしよう」という話もあったという。
=敬称略(大嶋辰男)
◇
しげのぶ・めい 1973年、レバノンで生まれる。ベイルートのアメリカン大学、同大学院に学ぶ。母・房子の逮捕にともない2001年、日本国籍を取得し帰国する。著書に『秘密』『「アラブの春」の正体』など。
――朝日新聞(逆風満帆)ジャーナリスト 重信メイ(上)「私は生まれてから28年間、国籍がありませんでした」 http://www.asahi.com/articles/ASG8S52VLG8SUCFI005.html … pic.twitter.com/PZZjYReUsY @MayShigenobu pic.twitter.com/G9DdD6nSs8〔8:52 - 2014年9月23日 〕――
このツイートで
朝日新聞が
日本赤軍のリーダ、重信房子さんの娘、
重信メイさんのことを
報道しているのを知りました(〔資料〕参照)。
この方、28年間、
無国籍だったのですな。
「革命の子どもたち」というタイトルで
映画化もされたようです。
この映画の予告編と
2014年9月20日『ニューズオプエド』に出演されたときの番組を
録画した動画URLを
下に掲げてしておきます。
典拠:森下友弥@TomoyaMorishita さんのツイート〔8:52 - 2014年9月23日 〕
「革命の子どもたち」映画予告編URL:https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU
「ニューズオプエド~ 重信メイ出演」(2014年9月20日ビデオ 17:50〜 )URL:https://www.youtube.com/watch?v=12HAVvDwYBc&feature=youtu.be
〔資料〕
「(逆風満帆)28年間、無国籍だった」
朝日新聞:大嶋辰男・文(2014年9月20日03時30分)
☆ 記事URL:http://www.asahi.com/articles/ASG8S52VLG8SUCFI005.html
■ジャーナリスト 重信メイ(上)
「私は生まれてから28年間、国籍がありませんでした」「世界に存在しない人間だったのです」――。東京・新宿にある映画館。スクリーンで重信メイ(41)が語っていた。
この夏、1本の記録映画が話題になった。アイルランド人監督、シェーン・オサリバンの「革命の子どもたち」(配給・太秦)がそれだ。
登場するのは1970年代、世界を揺るがせた極左組織の女性リーダー、ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ(獄中自殺)と日本赤軍の重信房子(68)=殺人未遂などの罪で服役中。暴力主義も辞さない当時の左翼運動の隆盛と実態を、それぞれの娘たちの証言を中心に解き明かそうとする野心的な作品である。
あらためて映画に出演した感想をメイに聞くと、こういった。「立場や時代によって歴史の見方は異なる。母たちのとった手法は間違っていたが、弱者の側に立つという考え方は間違っていなかった。マスコミが流すステレオタイプの情報をうのみにするのではなく、自分で考えるきっかけになってくれたらいい」
日本赤軍の最高幹部だった母の房子は終戦の年、血盟団事件の流れをくむ右翼の父親の次女として生まれた。明治大学在学中、学費値上げ反対闘争に参加し活動家の道に入る。1971年、「世界革命」を目指してレバノンへ出国、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と連携する。
メイは73年、房子とパレスチナ人戦士との間に生まれた。
前年には岡本公三ら日本赤軍の3人のメンバーがイスラエル・テルアビブの空港で自動小銃を乱射、イスラエル警備隊と銃撃戦になり、26人の死者、70人以上の負傷者を出した。
名前のメイは、この事件が起きた5月を指す英語のMayと「革命」の「命」からついたという。ちなみに父はすでに他界、一緒に暮らしたことはない。
日本赤軍はその後もハイジャック事件や在外公館などへの襲撃を繰り返した。アラブ世界からは英雄視される一方で、イスラエルからは報復の対象とみなされる。日本赤軍の活動を支持する勢力やアラブ諸国の支援を受けて潜伏生活を送った。怪しい動きを察知すると引っ越し、各地を転々とする。その時々の状況で集団生活をしたり、ばらばらに住んだりした。難民キャンプで暮らした時期もあった。グループにはメイより年下の2人の子どももいた。
だが、「いまも中東に和平は訪れていない。関係者が危険にさらされる可能性もある。いつどこで誰と暮らしたか、具体的なことはいえない」とメイは話す。
■「お母さんの名前はなに?」
街ではアラブ人、家の中では日本人として暮らした。誰とどんなに親しくなっても、本当の自分を明かすことはできなかった。身分を偽り続けた。
組織のリーダーだった房子は娘が巻き添えになることを心配し、学童期になると離れて暮らした。2人が一緒に過ごした期間は通算でも5年間くらいだったという。8歳の時、その母から自分たちは日本赤軍であると打ち明けられると、こう答えた。「だいぶ前から知ってたよ。知らないふりをしていたの」
初めて母の実名を知ったのは高校生の時だったという。無意識のうちに「お母さんの本当の名前はなに?」と聞いていた。房子は一瞬、とまどいながらに正直に答えた。「シ・ゲ・ノ・ブ・フ・サ・コ」。メイは自著『秘密』にこう書いている。〈不思議な響きだった。フランスかアフリカの名前を言われたようで、まるでピンとこない名前だった〉
元日本赤軍メンバーでメイと共同生活を送ったこともある映画監督、足立正生(75)はいう。「映画で語っていた以上にメイちゃんは過酷な環境にいた。大切な場面になると、本当の身分や家族のことがいえず、疎外感にまみれた」
中学から高校にかけてメイはあるアラブの国にいた。水泳が得意で「国の強化選手にしたい」という話が持ち上がったが、公の場には出ることはできない。理由をつけて辞退した。
日本赤軍にシンパシーを感じ、中東を訪れていた映画監督、故若松孝二は無国籍の彼女の将来を心配し、「俺が現地でつくった子どもということにして連れて帰ろう」といった。あるアラブの国家元首から「養女にしよう」という話もあったという。
=敬称略(大嶋辰男)
◇
しげのぶ・めい 1973年、レバノンで生まれる。ベイルートのアメリカン大学、同大学院に学ぶ。母・房子の逮捕にともない2001年、日本国籍を取得し帰国する。著書に『秘密』『「アラブの春」の正体』など。
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