典拠:森本たかおん@毎日がメルトアウト@TakaoMorimotoさんのツイート〔16:00 - 2014年8月15日 〕
芝 公彦 (巨悪はテレビ・大新聞) @shiba2187さんが
こんなツイートされてました。
――@TakaoMorimoto ガダルカナル攻防戦における日本軍の戦死者約22,000名。内、餓死者約1,5000名と言われています。(そのためにガダルカナル島を餓島と呼んだそうです)
ガダルカナル攻防戦:日本軍が建設したガダルカナル飛行場をめぐっての日米両軍による激しい攻防戦。〔20:07 - 2014年8月15日 〕――
コスプレをするなら、
こういう痩せ衰えた姿も再現してほしいですね。
上のツイートで、
餓死者約1,5000名となっており、
桁が違うんじゃないかな
思いました。
ウィキペディアに「日本軍のエピソード」として
日本軍の
様子が記された記事が載ってます。
人数こそ
明瞭になりませんでしたが、
その悲惨さが
伝わってきます。
読まれたら良いと思います。
〔資料〕
「日本軍のエピソード」
ウィキペディア、「ガダルカナル島の戦い」にある項目
☆ 記事URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#CITEREF.E6.BB.9D.E5.8F.A3.E5.B2.A9.E5.A4.AB1999
軍紀の乱れ[編集]
ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1ヵ月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった(これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した)。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中からカニバリズムも発生したと言われ、書籍[19: 滝口岩夫著「戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録」/アマゾン]では、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについて触れられている。
こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。
余命の判定[編集]
1942年12月頃からアウステン山の守備についていた兵士たちの間である生命判断が流行り出した。
立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。またたきしなくなったものは、明日。
— 五味川純平 (1983)『ガダルカナル』398項( 文芸春秋〈文春文庫〉、1983年)。
この記述は、刊行物としては辻政信参謀の戦後著作が初出となっているが、実際には川口支隊歩兵弟124連隊連隊旗手小尾靖夫少尉の陣中日誌『人間の限界』12月27日の項が元になっていると思われる。小尾も、後にこの手記を発表しており、1969年発行の戦史叢書にも小尾少尉の日記の引用として記載されている[20]。また、小尾少尉は日記の中で「1月1日(元旦)に分配された最後の食糧は乾パン2粒とコンペイ糖1粒だけ。」と述べている。
上陸して見たもの[編集]
川口支隊の一員として8月末に上陸した兵士はその時の様子を次のように語っている。
「わたしたちを出迎えたのが、一木先遣隊の生き残りでしたけと、とても兵隊なんてものじゃない。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。・・・・(中略)・・・・・・・・。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と元気をつけたんです。ええ、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで」[21]。そして10月中旬に上陸した第2師団を「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」で出迎えるが、上陸してきた兵士からは「ごくろうさん。ワシらが来たから安心しなさい」となぐさめられた[22:平塚柾緒著「米軍が記録したガダルカナルの戦い」草思社、1995年/アマゾン]。
最後に上陸した第38師団の兵士もこれと同様の話を語っている[23]。
日本軍撤退作戦後[編集]
ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られた[24]。日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという[25: 滝口岩夫・上掲書]
日本軍狙撃手は、ガダルカナル撤退作戦時、アメリカ軍の急追を防ぐため伏兵として島内各所に残された[要出典]。彼らは自力で食料収集を行ないつつ、日本軍撤退後も個人個人の判断で戦闘を継続した。ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、1947年(昭和22年)10月27日である[26]。
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