(茂木健一郎さんの話だけに興味ある人は、
下記〔資料〕に飛んでね)
苛める側は、
何時かは苛められる側になる。
僕は、
ツイッタ―で本名を晒そうおと決めたとき、
まず、考えたのは、
僕が子供の頃、
決して「苛める側でなかったこと」についてだ。
子どもの頃は、
洟を垂らしていたしね、
ばらされたら
やばいことが山のようにあるわけ。
可愛らしい女の子が
目の前を通るとおちんちんが立ったしまうとか。
もし、
本名を晒したら、
どんなに恥知らずで無力な人間かばれてしまうではないか…
ということが恐怖だった。
しかし、よくよく考えて、
暴力は受け身だったこと、すなわち、「苛める側でなかったこと」が
最大の強みなんだろうな、と思い直した
(もちろん、僕の錯覚の可能性があることは承知しての推測だが――)。
自分の都合で
誰にもとばっちりを食らわしたことがないと信じる。
時間とともに、
立場が入れ替わってしまうんだね。
茂木健一郎さんの
エッセイを読んでそんな風に考えたことを
思いだした。
もし、誰かをとても苛めた側だったら、
土下座でもして
許しを請うしかない。
多分、思い違いが多少、あったとしても
僕は、
その程度で済むだろうと、
楽観している。
しかし、その点、安倍某などはどうだろう。
総理を辞した後、
一生涯、暗殺されなかった不運を嘆くような目に遭うんではないだろうか。
国民のほとんどは、
彼から身内や富を奪われた恨み辛みを
持ち続けるに違いない。
集団的自衛権を行使して誰かを死に追いやったら、
親族の復讐を恐れ、
ピストルを常時携帯することになるだろう。
他人事ながら、
どうやって身を潜めて過ごすのだろうかと
心配してあげる。
昔、秦の始皇帝が晩年、
庶民の報復を恐れ誰にも会わないようにしていた。
最期、死因がはっきりせず、
街角で確か、
馬に蹴られたか何かした
という逸話、
聞いたことがある。
独裁者は、
ろくな死に方をしない。
〔資料〕
「いつかは大臣だって普通の人になる」
サイト「脳科学者のひとりごと 時々書生」茂木健一郎さん・文(2016/02/09 07:03)
☆ 記事URL:http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1333909.html
権力というものは気をつけないと容易に増長し、腐敗するものだと思う。権力者は、自分の権力のつかいかたに、よほど謙虚でないと、人間として落ちていく。それにしても、権力をめぐってふしぎなことがいくつかあるので、今朝はそのことを考えたい。
まず、たまたま今大臣などの権力の座にいる人が、権力について驕っている場合、ふしぎなのは、その人はいつまで大臣や、議員をやっている(やっていられる)と思っているのだろうということである。大臣や議員は、辞めてしまえばタダの人である。
国というものを、権力側と、そうでない側に分けた場合、いわゆる大臣などの権力者は、自分がいつまでも権力側にいると思っているんだろうか。いつか大臣や議員を辞めて普通の人になった時、こんどはとばっちりを食らう側になるということを想像しないのだろうか。
今、仮に、自分が権力側にいるとして、やめたあとも、友だちのネットワークや昔のよしみで、ずっと便宜を図ってもらったり、有利な扱いを受ける、と期待しているのだとしても、なお、不思議なことがある。それは、自分の知り合いや友人は、とばっちりを受ける側だということだ。
仮に、今、大臣が、権力を行使するのを楽しんでいて、その便益を、自分の知り合いや友人に及ぼすことができると思っていても、かつてのクラスメートや、学校の先生、その他、数多くの人は、権力の恣意的な行使でとばっちりを受ける側だろう。
民主主義国において、大臣などの権力の座にあるのは、その人の人生のほんのひとときのことで、大多数の時間は、権力を行使されてとばっちりを受ける側で過ごすわけだし、自分の大切なひとも、ほとんどがとばっちりを受ける側にいると思うのだが、そのような想像力は、権力者にはないのだろうか。
大臣や議員の振る舞いをみていると、まるで、自分が権力側にいるというのが終身の地位であるかのように勘違いしているケースがたくさんある。なんだか悲しく、そして愚かな風景だと思う。権力の行使は抑制的にした方が良い。何よりも、自分のために。いつかは大臣だって普通の人になるんだから。
下記〔資料〕に飛んでね)
苛める側は、
何時かは苛められる側になる。
僕は、
ツイッタ―で本名を晒そうおと決めたとき、
まず、考えたのは、
僕が子供の頃、
決して「苛める側でなかったこと」についてだ。
子どもの頃は、
洟を垂らしていたしね、
ばらされたら
やばいことが山のようにあるわけ。
可愛らしい女の子が
目の前を通るとおちんちんが立ったしまうとか。
もし、
本名を晒したら、
どんなに恥知らずで無力な人間かばれてしまうではないか…
ということが恐怖だった。
しかし、よくよく考えて、
暴力は受け身だったこと、すなわち、「苛める側でなかったこと」が
最大の強みなんだろうな、と思い直した
(もちろん、僕の錯覚の可能性があることは承知しての推測だが――)。
自分の都合で
誰にもとばっちりを食らわしたことがないと信じる。
時間とともに、
立場が入れ替わってしまうんだね。
茂木健一郎さんの
エッセイを読んでそんな風に考えたことを
思いだした。
もし、誰かをとても苛めた側だったら、
土下座でもして
許しを請うしかない。
多分、思い違いが多少、あったとしても
僕は、
その程度で済むだろうと、
楽観している。
しかし、その点、安倍某などはどうだろう。
総理を辞した後、
一生涯、暗殺されなかった不運を嘆くような目に遭うんではないだろうか。
国民のほとんどは、
彼から身内や富を奪われた恨み辛みを
持ち続けるに違いない。
集団的自衛権を行使して誰かを死に追いやったら、
親族の復讐を恐れ、
ピストルを常時携帯することになるだろう。
他人事ながら、
どうやって身を潜めて過ごすのだろうかと
心配してあげる。
昔、秦の始皇帝が晩年、
庶民の報復を恐れ誰にも会わないようにしていた。
最期、死因がはっきりせず、
街角で確か、
馬に蹴られたか何かした
という逸話、
聞いたことがある。
独裁者は、
ろくな死に方をしない。
〔資料〕
「いつかは大臣だって普通の人になる」
サイト「脳科学者のひとりごと 時々書生」茂木健一郎さん・文(2016/02/09 07:03)
☆ 記事URL:http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1333909.html
権力というものは気をつけないと容易に増長し、腐敗するものだと思う。権力者は、自分の権力のつかいかたに、よほど謙虚でないと、人間として落ちていく。それにしても、権力をめぐってふしぎなことがいくつかあるので、今朝はそのことを考えたい。
まず、たまたま今大臣などの権力の座にいる人が、権力について驕っている場合、ふしぎなのは、その人はいつまで大臣や、議員をやっている(やっていられる)と思っているのだろうということである。大臣や議員は、辞めてしまえばタダの人である。
国というものを、権力側と、そうでない側に分けた場合、いわゆる大臣などの権力者は、自分がいつまでも権力側にいると思っているんだろうか。いつか大臣や議員を辞めて普通の人になった時、こんどはとばっちりを食らう側になるということを想像しないのだろうか。
今、仮に、自分が権力側にいるとして、やめたあとも、友だちのネットワークや昔のよしみで、ずっと便宜を図ってもらったり、有利な扱いを受ける、と期待しているのだとしても、なお、不思議なことがある。それは、自分の知り合いや友人は、とばっちりを受ける側だということだ。
仮に、今、大臣が、権力を行使するのを楽しんでいて、その便益を、自分の知り合いや友人に及ぼすことができると思っていても、かつてのクラスメートや、学校の先生、その他、数多くの人は、権力の恣意的な行使でとばっちりを受ける側だろう。
民主主義国において、大臣などの権力の座にあるのは、その人の人生のほんのひとときのことで、大多数の時間は、権力を行使されてとばっちりを受ける側で過ごすわけだし、自分の大切なひとも、ほとんどがとばっちりを受ける側にいると思うのだが、そのような想像力は、権力者にはないのだろうか。
大臣や議員の振る舞いをみていると、まるで、自分が権力側にいるというのが終身の地位であるかのように勘違いしているケースがたくさんある。なんだか悲しく、そして愚かな風景だと思う。権力の行使は抑制的にした方が良い。何よりも、自分のために。いつかは大臣だって普通の人になるんだから。
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