東電の対策が
追っつかんのは、
汚染水位や放射線量の
測定だけではありません。
避難民への賠償もです。
震災から2年5ヶ月が経ってなお、
埼玉県加須市の旧騎西高校に開設された避難所には、
原発事故で福島県双葉町から避難してきた
被災者約105名が
今も段ボールで仕切られ、高齢者らが肩寄せ暮らしています。
まるで、難民です…
東電とともに、
被災地復興という空虚な目標を掲げ、
国民を
放ったらかしにして
首相の地位にある安部某は、
長期休暇を取り、
地元、山口でゴルフ三昧です。
そして
終戦記念日の昨日、
久しぶりの公務である
全国戦没者追悼式で
安倍某は、
侵略戦争における
日本の
加害者責任も
不戦誓いもカットして
式辞を
述べました。
靖国に参拝し得なかった
腹いせのようです。
汚染水の問題も
頭の中で
カットされていて、
“知らない内に溢れてた”
で済むという
認識なのでしょう。
この幼稚な男に
いつまでも日本を代表させていれば
国民は、
それこそ亡国の道連れです。
■ 資料
「日々の暮らしに不安…高齢者ら最後の避難所で肩寄せ暮らす」
産経新聞 8月11日(日)19時57分配信
☆ 記事URL:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130811-00000535-san-soci
東日本大震災の発生から11日で2年5カ月。東京電力福島第1原発事故で自宅を追われた福島県双葉町の105人は、今も埼玉県加須(かぞ)市に唯一残る避難所で共同生活を続けている。夫婦や1人だけの暮らしに不安を抱く高齢者たちだ。
【フォト】 仮設や借り上げ住宅への移転について町から説明を受ける双葉町民
避難所は旧埼玉県立騎西(きさい)高校校舎。“入居”したのは震災発生から約3週間後の一昨年3月だった。当初は1400人の大所帯で1教室約30人、1人1畳ほどのスペースでプライバシーのない生活を送っていた。
不自由な暮らしを余儀なくされていた町民は、徐々に仮設住宅や借り上げ住宅などへ転居。しかし、介護を必要とする高齢者らは残った。ここには今年6月まで町役場があったこともあり、比較的福祉の手が届きやすく、同年代の仲間もいるため、便利な面もあったからだ。
しかし、決して快適ではない。段ボールで仕切った教室に複数の世帯。手洗い場で食材を切り、卓上の電気調理器でみそ汁を温めるなど、簡単な料理しかできない。1日3食1100円で弁当も購入できるが、年金と東電から出る賠償金が頼りの高齢者には負担は小さくない。
双葉町は役場機能の福島県いわき市への移転を機に避難所閉鎖の意向を示し、いわき市や加須市の借り上げ住宅への移住を促している。町の調査では、避難者の半分以上が加須市でまとまって暮らすことを希望しているという。
今も残る避難者らの平均年齢は約70歳。伊沢恭子さん(88)は「生きているうちに自宅に帰れないのは明らか。それなら、縁があってお世話になっている加須市で(一緒に避難した)みんなとつかず離れず暮らしたい」と話す。
今年8月9日現在、双葉町の人口は6492人。全町民が県内外で避難生活を続けている。(早坂洋祐)
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