この間、法令遵守につき、社内窓口に問題を持ち込んだ社員を同僚が取り囲み、「お前は癌だ。辞めろ!」と罵声を浴びせかけているテレビの報道に接しました。その少し前、読売新聞という活字メディアが、「社内告発」という造語を作って窓口相談者の行為を呼び慣わそうとしているのを、goo友の記事を通して知りました。僕は、内部告発は外部への法令違反の通報と言えるから告発なのに対し、「社内告発」は外部への通報を含んでいないので、告発は表現として適切でないとコメントさせて頂きました。行為の性質としては、組織上層部への報告なのです。ただし、その報告が匿名でなされることに特徴があるだけです。会社内部で、“犯人探し”と称し、その匿名性を覆すようなことをやってしまえば、制度の趣旨が損なわれます。制度の趣旨は、会社の自浄能力を高める点にこそあるわけです。誰が言い出しかは、2の次、3の次の問題のはずです。それが否定され、リンチまがいのことを平気でする人が一杯いるということ知り、大変にショックを受けました。
しかし、それが現状だとすると、とても怖いことです――。裁判員制度の実施につき、考えを改めないといけないのかもしれません。関係ないように見えて大いに関係します。なぜって、この制度は、市民の自浄能力に期待するところが大きいからです。つまり、裁判員制度は、会社に法令遵守の窓口を設けて企業を健全化する制度と、根本において同じ発想が横たわっているように思えます。「裁判官のために」出廷するのではなく、「市民の自由を擁護するため」に裁判に参加するのです。だから、参加する市民に職業裁判官に立ち向かう度胸がなければなりません。それぐらいの度胸がないと、密室捜査の弊害を除去しえません。つまり、市民が裁判所の内部に入り込んで、裁判のあり方の不公平、不正を監視・監督することを制度的に保証する。そこに国民参加の意味があると考えていました。もし、監視・監督が不十分と判断したときは、市民の当然の義務として社会に向かって告発の義務を負うわけです(そのつもりでいました)。
しかし、それを他の人に期待できるほど、甘くはないようです。力を発揮するには、あまりにみんな、孤立しています。それで、ちょっと不安になって、裁判員制度の導入の背景を調べて見ました。
竹田昌弘氏は、その著書「知る、考える裁判員制度」(2008年、岩波書店刊)で、次のように述べているそうです(雑誌「世界」4月号・中山研一「裁判員制度導入までに確認しておきたいこと」参照。以下、中山氏の論稿を手掛かりに分析させて頂きます)。すなわち、第一には、今夏の裁判員制度の導入が、当時の小泉首相に提出した意見書のなかで提言されたものであり、背景には、規制緩和と民間主導の市場経済の確立を求める経済界の要望(法曹人口の増大と民事訴訟の迅速化)があり、それは政府が進める構造改革の一環であったということ。第二には、亡き平野龍一博士の指摘に応じ「今日の刑事裁判は、絶望的と言ってよい」ほどに、えん罪と自白調書裁判で成り立っているという日弁連(日本弁護士連合会)の把握があるということ。第三に、司法制度改革審議会が法曹中心でなく、「官僚司法」への危機感があったということです。このような事情があって、審議が進められたわけですが、小泉政権が圧倒的な多数で支持されるという事態によって、第一の背景のみが着目され、新自由主義のイデオロギーを色濃く反映する制度になったようです。
ところで、もともとこの制度に強く反対していた最高裁が、結果的に裁判員制度の熱心な推進者になったのはなぜなのでしょうか。「裁判員に負担をかけない」という大義名分が自分たち職業裁判官にとって、身を守る盾になることを発見したからに他ならないからではないでしょうか。というのも、公判準備手続によって論点が絞り込まれます。このことによって、それ以後の証拠提出が制限されます。弁護権が大幅に制限され、結果として、死刑判決を量産しやす環境が整うからです。それこそが裁判の遅延に悩む裁判所を救う道であると最高裁が合点したと言われても仕方ないでしょう。弁護権を制約する上にも制約する「効率」という徳目の酷さが国民に理解されてないのを奇貨として、根本的な解決策を模索する道を閉ざしたとも受け取れます。実は、検察官に手持ちの証拠を一挙に開示させることによって、現行制度下であっても、かなりの事件を早期に終結できるようです。最高裁としては、ここは何としても、新自由主義イデオロギーを信奉するネオ・ナチのような人たちに抵抗し、憲法の番人である立場を徹底して欲しかったです。
日本が立法化した裁判員制度は、参審制に近く、陪審制ではありません。この2つの制度は、次の点で異なります。
前者は、主権者としての国民の司法への参加に力点を置くのに対し、後者は、国民の参加によって司法が国民によりよく理解され信頼されることに意義を求めるという風に力点の置き方に違いがあります。これだけだと、抽象的で大した違いではないようです。しかし、前者が参加に力点を置く背景には、現状は常に改善に値するものだ、というアメリカ人なら好みそうなフロンティア精神があります。後者は、現状を肯定する発想が根底にあり、ヨーロッパに淵源します。日本は、大体が対米従属で、アメリカ寄りな考え方をしてよさそうなのに、ここではヨーロッパにおけるような大陸的な考え方に与します。
別に、大陸的な発想がダメと言っているのではないのです。ただ、なぜ、ここでヨーロッパ大陸なのかということです。「国民によりよく理解され信頼される」という言葉の響きが為政者に居心地がいいというのは分かります。しかし、現在、かの大陸の国々において、密室での長期の取調べや代用監獄がなく、それらが幅を利かせている日本とでは事情が違うのです。死刑だって、大陸ではほとんどの国がとうの昔に廃止しています。参審制に望むのなら、これだけ我が国は世界に先駆けていると言えるだけの中味が必要です。現状で言えば、先駆けているというよりは、逆行しているわけです。これ等を忘れ果てた上でする比較って、単に無意味というのでなく、有害でしょう。欺瞞というのは、こういうところに発生するのです。
しかし、それが現状だとすると、とても怖いことです――。裁判員制度の実施につき、考えを改めないといけないのかもしれません。関係ないように見えて大いに関係します。なぜって、この制度は、市民の自浄能力に期待するところが大きいからです。つまり、裁判員制度は、会社に法令遵守の窓口を設けて企業を健全化する制度と、根本において同じ発想が横たわっているように思えます。「裁判官のために」出廷するのではなく、「市民の自由を擁護するため」に裁判に参加するのです。だから、参加する市民に職業裁判官に立ち向かう度胸がなければなりません。それぐらいの度胸がないと、密室捜査の弊害を除去しえません。つまり、市民が裁判所の内部に入り込んで、裁判のあり方の不公平、不正を監視・監督することを制度的に保証する。そこに国民参加の意味があると考えていました。もし、監視・監督が不十分と判断したときは、市民の当然の義務として社会に向かって告発の義務を負うわけです(そのつもりでいました)。
しかし、それを他の人に期待できるほど、甘くはないようです。力を発揮するには、あまりにみんな、孤立しています。それで、ちょっと不安になって、裁判員制度の導入の背景を調べて見ました。
竹田昌弘氏は、その著書「知る、考える裁判員制度」(2008年、岩波書店刊)で、次のように述べているそうです(雑誌「世界」4月号・中山研一「裁判員制度導入までに確認しておきたいこと」参照。以下、中山氏の論稿を手掛かりに分析させて頂きます)。すなわち、第一には、今夏の裁判員制度の導入が、当時の小泉首相に提出した意見書のなかで提言されたものであり、背景には、規制緩和と民間主導の市場経済の確立を求める経済界の要望(法曹人口の増大と民事訴訟の迅速化)があり、それは政府が進める構造改革の一環であったということ。第二には、亡き平野龍一博士の指摘に応じ「今日の刑事裁判は、絶望的と言ってよい」ほどに、えん罪と自白調書裁判で成り立っているという日弁連(日本弁護士連合会)の把握があるということ。第三に、司法制度改革審議会が法曹中心でなく、「官僚司法」への危機感があったということです。このような事情があって、審議が進められたわけですが、小泉政権が圧倒的な多数で支持されるという事態によって、第一の背景のみが着目され、新自由主義のイデオロギーを色濃く反映する制度になったようです。
ところで、もともとこの制度に強く反対していた最高裁が、結果的に裁判員制度の熱心な推進者になったのはなぜなのでしょうか。「裁判員に負担をかけない」という大義名分が自分たち職業裁判官にとって、身を守る盾になることを発見したからに他ならないからではないでしょうか。というのも、公判準備手続によって論点が絞り込まれます。このことによって、それ以後の証拠提出が制限されます。弁護権が大幅に制限され、結果として、死刑判決を量産しやす環境が整うからです。それこそが裁判の遅延に悩む裁判所を救う道であると最高裁が合点したと言われても仕方ないでしょう。弁護権を制約する上にも制約する「効率」という徳目の酷さが国民に理解されてないのを奇貨として、根本的な解決策を模索する道を閉ざしたとも受け取れます。実は、検察官に手持ちの証拠を一挙に開示させることによって、現行制度下であっても、かなりの事件を早期に終結できるようです。最高裁としては、ここは何としても、新自由主義イデオロギーを信奉するネオ・ナチのような人たちに抵抗し、憲法の番人である立場を徹底して欲しかったです。
日本が立法化した裁判員制度は、参審制に近く、陪審制ではありません。この2つの制度は、次の点で異なります。
前者は、主権者としての国民の司法への参加に力点を置くのに対し、後者は、国民の参加によって司法が国民によりよく理解され信頼されることに意義を求めるという風に力点の置き方に違いがあります。これだけだと、抽象的で大した違いではないようです。しかし、前者が参加に力点を置く背景には、現状は常に改善に値するものだ、というアメリカ人なら好みそうなフロンティア精神があります。後者は、現状を肯定する発想が根底にあり、ヨーロッパに淵源します。日本は、大体が対米従属で、アメリカ寄りな考え方をしてよさそうなのに、ここではヨーロッパにおけるような大陸的な考え方に与します。
別に、大陸的な発想がダメと言っているのではないのです。ただ、なぜ、ここでヨーロッパ大陸なのかということです。「国民によりよく理解され信頼される」という言葉の響きが為政者に居心地がいいというのは分かります。しかし、現在、かの大陸の国々において、密室での長期の取調べや代用監獄がなく、それらが幅を利かせている日本とでは事情が違うのです。死刑だって、大陸ではほとんどの国がとうの昔に廃止しています。参審制に望むのなら、これだけ我が国は世界に先駆けていると言えるだけの中味が必要です。現状で言えば、先駆けているというよりは、逆行しているわけです。これ等を忘れ果てた上でする比較って、単に無意味というのでなく、有害でしょう。欺瞞というのは、こういうところに発生するのです。
社会で先生が「総理大臣が何かを決めたら、信じて従いますか?」の質問に、私以外クラス皆「従います!」に手を挙げたんです。私独り「考えてみなければ分かりません。」と言って顰蹙をかいました。
社内告発(?)、内部告発、大変な勇気と、とても考えられないくらいの犠牲を強いられます。変な世の中です。
もう直ぐ始まる陪審制度のテレビ番組を見て、自分自身のことしか考えていませんでした。「私に人の一生を左右するような判断ができるのかどうか…」と、でも、忠太さんの問題定義、参審・陪審・死刑制度等々、難しいけれど、国民の一人としてもっと考えなければ…と思いました。
私、何を書いているのか…。
忠太さんの意図したところと違っていたらごめんなさい。
現在の僕なら、相手が朝青龍だったら逆らわない、と付けくわえそうですが。。。
子ども時代は、「総理大臣」という呼び名にヒントを得て、「掃除大臣」なんて互いに言い合っていました。政治家を虚仮にするのはよくないとは思いますけど、社会的な地位の高さ=人格の高潔さではないですし、相手がだれであっても、従うのは考えものです。結局、最後のけじめは自分がつけるんですものね。
「考えてみなければ分かりません」というのが妥当な返答と思います。みんなに顰蹙を買ったというのは、それこそ、その場に居合わせた指導教諭の指導の問題でしょうね。生徒に適切なフォローをすべき事柄だったと思います。