小沢一郎(事務所)@ozawa_jimushoさんのツイート。
――野中広務先生とは、私が改革を志してその道を進み始めたときから、政治的な立場は異なりましたが、その政治手腕には感服しておりました。ご自身の体験に裏打ちされた哲学に基づいて果断に行動されてきた信念の政治家でありました。偉大な御功績をしのび、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 小沢一郎〔19:23 - 2018年1月26日〕――
野中広務さんは、
自民党にあって弱者のために戦った数少ない人だ。
たとえば、
住友陽文 @akisumitomoさんが
こんなツイート。
――「安倍首相が提案している憲法改正に反対」という野中広務氏。「私みたいに戦争に行って戦争で死なないでかえってきた人間は、再び戦争になるような道は歩むべきではないと。これが私の信念です」と。
~野中広務氏:朝日新聞デジタル〔18:25 - 2018年1月26日 〕――
自分に優しくしたいから人にも優しくする。
そんな感じかな。
合掌
<追記>
SeriousTom@SeriousTom1さんのツイート。
――野中さんにお悔やみの言葉を言う自民党議員が皆無との事だが、あれですか?
晩年、野中さんが安倍さんに批判的だったから、安倍さんを慮って野中さんへの言葉を出せないのですか?
そうだとしたら本当に自民党は人間の屑の集団に成り果ててしまいましたねー
お世話になった人のお悔やみすら言えない〔21:50 - 2018年1月26日 〕――
あれま、
何と侘びしい人たちなのだ!
ちなみに、
共産党・志位和夫@shiikazuoさんからも
お悔やみの言葉が届いているぞ
(ガイチ @gaitifujiさんのツイート〔21:03 - 2018年1月26日 〕参照)。
――野中広務さんの訃報に接し、心からのお悔やみを申し上げます。97年の沖縄の土地特措法の委員長報告で「国会の審議が再び大政翼賛会にならないように」と訴えた姿。09年「赤旗」インタビューに応じてくださり「戦争に加担しない道を」と訴えられたこと。平和と沖縄への深い思いを決して忘れません。〔19:28 - 2018年1月26日 〕――
ちなみに、野中さんの
「国会の審議が再び大政翼賛会にならないように」という発言は、
下の動画で見れます。
〔資料〕
「野中広務氏死去、92歳=「政界の狙撃手」、官房長官など歴任」
時事通信(2018/01/26-23:05)
☆ 記事URL:https://www.jiji.com/jc/article?k=2018012601113&g=obt
官房長官や自民党幹事長などを歴任し、「政界の狙撃手」の異名でも呼ばれた野中広務(のなか・ひろむ)元自民党衆院議員が26日午後、京都市内の病院で死去した。92歳だった。京都府出身。昨年11月、同市内での会合中に倒れ、病院に救急搬送されていた。党関係者によると、葬儀は親族のみで行い、後日「お別れの会」を開く。
京都府園部町(現南丹市)生まれ。国鉄職員を経て、園部町議、同町長を務めた後、京都府議となり、野党の立場で革新府政の蜷川虎三知事と対峙(たいじ)。保守府政奪還後に副知事を務めた。中央政界入りは57歳と遅く、1983年の衆院補選で初当選。当選7回。
自民党が下野した細川、羽田両内閣時代に、野党府議の経験を生かし衆院予算委理事として政権追及に活躍。自民、社会、さきがけ3党連立の村山内閣誕生の立役者となった。村山内閣では自治相・国家公安委員長として、阪神大震災や、地下鉄サリンなどオウム真理教による一連の事件への対応に当たった。
参院選惨敗を受けて98年7月に発足した小渕内閣では官房長官に就任。政権基盤強化のため、旧竹下派分裂以来、宿敵関係にあった小沢一郎氏率いる自由党(当時)との自自連立、さらに公明党を加えた自自公連立の樹立へ抜群の行動力を発揮し、「影の総理」と形容された。森内閣で、加藤紘一元幹事長(故人)らが野党提出の内閣不信任決議案に同調しようとした2000年の「加藤の乱」では、幹事長として鎮圧に当たった。
衆院本会議場で自民党の亀井静香政調会長(左)、古賀誠国対委員長(右)と話す野中広務幹事長(中央)=2000年11月、国会内
小泉内閣に対し反主流の立場を貫き、03年の総裁選では小泉純一郎首相(当時)の再選を支持した青木幹雄氏らと対立。同年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。
抜群の政局観と情報量で政敵から「政界の狙撃手」と恐れられた一方、外交や安全保障に関してはハト派で知られた。97年4月の駐留軍用地特別措置法改正の際、担当委員長として衆院本会議で「国会審議が大政翼賛会にならないようお願いする」と異例の発言を行った。03年7月にはイラク支援特別措置法の採決を退席した。
中国共産党と独自のパイプを持ち、同国との議員交流にも取り組んだ。11年に自民党を離党したが、16年6月に復党。引退後もテレビや講演などで「ご意見番」として活動を続けていた。(2018/01/26-23:05)
――野中広務先生とは、私が改革を志してその道を進み始めたときから、政治的な立場は異なりましたが、その政治手腕には感服しておりました。ご自身の体験に裏打ちされた哲学に基づいて果断に行動されてきた信念の政治家でありました。偉大な御功績をしのび、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 小沢一郎〔19:23 - 2018年1月26日〕――
野中広務さんは、
自民党にあって弱者のために戦った数少ない人だ。
たとえば、
住友陽文 @akisumitomoさんが
こんなツイート。
――「安倍首相が提案している憲法改正に反対」という野中広務氏。「私みたいに戦争に行って戦争で死なないでかえってきた人間は、再び戦争になるような道は歩むべきではないと。これが私の信念です」と。
~野中広務氏:朝日新聞デジタル〔18:25 - 2018年1月26日 〕――
自分に優しくしたいから人にも優しくする。
そんな感じかな。
合掌
<追記>
SeriousTom@SeriousTom1さんのツイート。
――野中さんにお悔やみの言葉を言う自民党議員が皆無との事だが、あれですか?
晩年、野中さんが安倍さんに批判的だったから、安倍さんを慮って野中さんへの言葉を出せないのですか?
そうだとしたら本当に自民党は人間の屑の集団に成り果ててしまいましたねー
お世話になった人のお悔やみすら言えない〔21:50 - 2018年1月26日 〕――
あれま、
何と侘びしい人たちなのだ!
ちなみに、
共産党・志位和夫@shiikazuoさんからも
お悔やみの言葉が届いているぞ
(ガイチ @gaitifujiさんのツイート〔21:03 - 2018年1月26日 〕参照)。
――野中広務さんの訃報に接し、心からのお悔やみを申し上げます。97年の沖縄の土地特措法の委員長報告で「国会の審議が再び大政翼賛会にならないように」と訴えた姿。09年「赤旗」インタビューに応じてくださり「戦争に加担しない道を」と訴えられたこと。平和と沖縄への深い思いを決して忘れません。〔19:28 - 2018年1月26日 〕――
ちなみに、野中さんの
「国会の審議が再び大政翼賛会にならないように」という発言は、
下の動画で見れます。
自治大臣や官房長官、自民党幹事長など政府や与党で絶大な政治力を発揮し、影のドンとして恐れられた元衆議院議員の野中広務さんだけど、自らの戦争体験や差別体験から強面からは想像し難いハト派であり人権派だったんだよね。野中さんの講演を聴いたのはいつだったろ。いい話しだったな。 pic.twitter.com/jBdluJnp6d
— supremesupreme (@fukuchanrina) 2018年1月26日
2018年1月27日未明 記
〔資料〕
「野中広務氏死去、92歳=「政界の狙撃手」、官房長官など歴任」
時事通信(2018/01/26-23:05)
☆ 記事URL:https://www.jiji.com/jc/article?k=2018012601113&g=obt
官房長官や自民党幹事長などを歴任し、「政界の狙撃手」の異名でも呼ばれた野中広務(のなか・ひろむ)元自民党衆院議員が26日午後、京都市内の病院で死去した。92歳だった。京都府出身。昨年11月、同市内での会合中に倒れ、病院に救急搬送されていた。党関係者によると、葬儀は親族のみで行い、後日「お別れの会」を開く。
京都府園部町(現南丹市)生まれ。国鉄職員を経て、園部町議、同町長を務めた後、京都府議となり、野党の立場で革新府政の蜷川虎三知事と対峙(たいじ)。保守府政奪還後に副知事を務めた。中央政界入りは57歳と遅く、1983年の衆院補選で初当選。当選7回。
自民党が下野した細川、羽田両内閣時代に、野党府議の経験を生かし衆院予算委理事として政権追及に活躍。自民、社会、さきがけ3党連立の村山内閣誕生の立役者となった。村山内閣では自治相・国家公安委員長として、阪神大震災や、地下鉄サリンなどオウム真理教による一連の事件への対応に当たった。
参院選惨敗を受けて98年7月に発足した小渕内閣では官房長官に就任。政権基盤強化のため、旧竹下派分裂以来、宿敵関係にあった小沢一郎氏率いる自由党(当時)との自自連立、さらに公明党を加えた自自公連立の樹立へ抜群の行動力を発揮し、「影の総理」と形容された。森内閣で、加藤紘一元幹事長(故人)らが野党提出の内閣不信任決議案に同調しようとした2000年の「加藤の乱」では、幹事長として鎮圧に当たった。
衆院本会議場で自民党の亀井静香政調会長(左)、古賀誠国対委員長(右)と話す野中広務幹事長(中央)=2000年11月、国会内
小泉内閣に対し反主流の立場を貫き、03年の総裁選では小泉純一郎首相(当時)の再選を支持した青木幹雄氏らと対立。同年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。
抜群の政局観と情報量で政敵から「政界の狙撃手」と恐れられた一方、外交や安全保障に関してはハト派で知られた。97年4月の駐留軍用地特別措置法改正の際、担当委員長として衆院本会議で「国会審議が大政翼賛会にならないようお願いする」と異例の発言を行った。03年7月にはイラク支援特別措置法の採決を退席した。
中国共産党と独自のパイプを持ち、同国との議員交流にも取り組んだ。11年に自民党を離党したが、16年6月に復党。引退後もテレビや講演などで「ご意見番」として活動を続けていた。(2018/01/26-23:05)
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