ブログ記事でも
急ぐもの、さほど急がないものとの区別が
大抵の人にあります。
ただ、急ぐ記事が書きやすければいいのですが、
ほとんど落書き…
みたいになってしまうのを恐れ、
一字も書けず、
先送りする場合があるのではないでしょうか。
僕にも、いくつか、
そのような記事があります。
その内の一つ、
今日、それを思い出しましたので、
慌てて記事として投稿することにしました。
その記事って、実は、光市母子殺害事件に関するものです。
最高裁への上告を退ける判決が
平成24年の今年、2月20日に出て
死刑が確定したのは、
ご存じと思います。
今のところ、
再審請求される可能性もなく、
判決自体を争おうという気配は、ないです。
ただ、恩赦の可能性が全くないわけではないでしょう。
仮に、その可能性があったとして、
人情に反するわけのものではありません。
そのことを
理解して頂くために、
この事件について
改めて、一緒に考えてもらいたいことがあります。
それを知らないで、
殺した母親を
幼い女児の目の前で性的な凌辱した
変質者が
処刑されることになったとして
済ましてしまっては
浮かばれない事情が被告人の側にあると感じます。
その思いを伝えさせてもらいます。
もちろん、有名な事件なんで、ある程度のことは、
知っていらっしゃるでしょう。
僕が伝えたいと考えていることは、二つです。
一つは、被告人の精神年齢です。
もう一つは、被告人を支える位置にいた友人についてです
(「元検弁護士のひとりごと」所収、「今枝仁弁護士のコメントの転載」参照)。
まずは、一つ目から。
精神鑑定では、
被告人の精神年齢は、5、6歳らしかったです。
幼い頃、
父親に虐待を受け、
母親との間が
普通の男女間のようであり、
暴力を奮う父親に対し
共同戦線を張る戦友のような間柄であったと推察されます。
その戦友である母親が
自殺するところを被告人は目撃したそうです。
被告人は、
父親に頭から床に叩きつけられるような
暴行を受けた体験をしてます。
これによって、
脳に致命的なダメージを負ったと思われます。
光市母子殺害にあたって
実母の甦りを恐れる想念(?)に
とらわれたのも、
被告人の未熟さからすれば、
無理からぬことであったのかもしれません。
もちろん、被告人の居直りめいた発言
――終始笑うは
悪なのが今の世だ。
ヤクザはツラで逃げ、
馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、
私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君――には、
真摯な反省が見えないです。
しかし、被告人に“逃げ”を許すほどの度量がなければ、
「終始笑う」者の心に、
判決に込められたメッセージが届きません。
被告人の特徴として
5、6歳の精神年齢なのに、
そうは感じさせない
ひねくれた発言内容の、判決に与えた影響は大きい
という見方が出来るでしょう。
人間、必ずしも、外見通りではありません。
しかし、この被告人の場合、
外見に即して判断してよかったのではないでしょうか。
顔写真が
ネットに流失してます。
それを見ると、
いかにも幼い顔をしているのが分かります。
虐待を経験したお子さんの場合、
幼く見える傾向が顕著だ
という指摘を耳にしたことがあります。
実際、その傾向はあるようです。
ただし、虐待が日常的になされる家庭で育つ
少年・少女は、
精神年齢がどんなに低くとも
大人としての行動パターンを身につけます。
幼く見える
ということと矛盾しているようですが、
これは、他方の真実です。
彼の場合、
奇しくも述べた
「終始笑う」
という自己特性として
それが現れ出ている、ということでしょう。
悲しくとも笑う、腹が立っても笑うのです。
つまり、感情の表出が
抑制され、
見た目に釣り合っていないということです。
精神の肉体からの乖離(かいり)と言ってもいい
心の状態――
被告ににとって、
「心ここにあらず」
という肉体から剥落した精神状態――が
心理的な防衛システムとして
常態化していたのではないでしょうか。
ただ、悲鳴を上げられたりすれば、
逆上してしまい、
簡単にその日常的な防衛システムに綻びが出来てしまう
脆弱さがあったように見受けられます。
そう解すれば、
突然の凶行も理解できなくはないです。
なお、被告人には、
斜視という肉体的条件がありました。
真正面を見ると、
横に目をやっているように見えるとのことです。
被告人が
法廷を出る際、
「自分を睨みつけていた」
という遺族の報告があるようです。
しかし、実際のところは、
そう見えただけに過ぎないことは、
「斜視」という
眼球の特色からだけでなく、
乖離という心理的規制からも十分に頷けることです。
では、二つ目の論点に移ります。
被告人は、
友人に宛て送った手紙の中で
こう述べたとされてます。
「あいつ(遺族である本村さんのこと)、
調子のってるな。
殺人たって、無期懲役ならば、
7年で娑婆に芽が出る」と。
この表白が
死刑を決定づけるんじゃないかと、
密かに感じました。
反省がないという意味では、
間違いなく言質とされて文句の言えない
凶悪な印象があるからです。
案の定でした。
さて、実は、
この友人につき、
死刑判決が出るまで知らなかった事柄があります。
実は、この友人、
失礼ながら、
いわゆる警察の犬(いぬ)的人物らしく、
ことさらに被告人を挑発し
生意気な表現を誘い出していたそうです。
警察は、
世論の後押しを受けて
被告人を死刑にしたいわけです。
そのために、
被告人をば決定的な悪人に仕立て上げねばならない、
という事情があったのです。
旦那であり、親でもあった遺族、
本村さんが
執筆した本に
「天国からの手紙」
という著作があります。
その書物に
「無期懲役の場合、7年経ったら釈放される」
という記載があるそうです。
被告人は、
その本を通して情報を得たのです。
警察に協力した、その友人とは、
事件を起こした後、知り合ったと言います。
言うなれば、
被告人は、まんまとおとり捜査の罠に
ひっかかってしまったのです。
皮肉なことに、
わずかな時間で、無二の親友になったり、
恋人になってしまったりするのは
虐待家庭に育った
少年・少女の特徴なんです。
本村さんを気の毒と思わないわけではありません。
ただ、妻が亡くなったことについて、
彼が口にした言い草に、
納得できないものがあります…
曰く、普通は、命を奪われるのを避けるため
言いなりになる、
しかし、私の妻は、そんなことをしなかった、
『私の女』でいたいがために、
己の命を捨てるのを躊躇しなかったのだ云々。
そして旦那は、被告人の死刑判決が確定し、
これで晴れて、
第二の人生が歩めるとばかりに
再婚するとのことです。
女性が
貞節を守ったからと言って、
男性もそうせよとは言いません。
「貞淑」という観念は、
もう古いし、捨て頃です。
にもかかわらず、今回の事件で
明瞭にされたのが
男の側の、この、
女性に対する一方的な
「操を守れ」
みたいな、
男中心社会ならではの願望です。
単に押しつけに過ぎないご都合主義を、
理念(イデー)にまで押し上げ、
正当化する
不公平感があります。
(・・・ほんとお前ら、気持ちぃ悪ぇんだよ!!)
急ぐもの、さほど急がないものとの区別が
大抵の人にあります。
ただ、急ぐ記事が書きやすければいいのですが、
ほとんど落書き…
みたいになってしまうのを恐れ、
一字も書けず、
先送りする場合があるのではないでしょうか。
僕にも、いくつか、
そのような記事があります。
その内の一つ、
今日、それを思い出しましたので、
慌てて記事として投稿することにしました。
その記事って、実は、光市母子殺害事件に関するものです。
最高裁への上告を退ける判決が
平成24年の今年、2月20日に出て
死刑が確定したのは、
ご存じと思います。
今のところ、
再審請求される可能性もなく、
判決自体を争おうという気配は、ないです。
ただ、恩赦の可能性が全くないわけではないでしょう。
仮に、その可能性があったとして、
人情に反するわけのものではありません。
そのことを
理解して頂くために、
この事件について
改めて、一緒に考えてもらいたいことがあります。
それを知らないで、
殺した母親を
幼い女児の目の前で性的な凌辱した
変質者が
処刑されることになったとして
済ましてしまっては
浮かばれない事情が被告人の側にあると感じます。
その思いを伝えさせてもらいます。
もちろん、有名な事件なんで、ある程度のことは、
知っていらっしゃるでしょう。
僕が伝えたいと考えていることは、二つです。
一つは、被告人の精神年齢です。
もう一つは、被告人を支える位置にいた友人についてです
(「元検弁護士のひとりごと」所収、「今枝仁弁護士のコメントの転載」参照)。
まずは、一つ目から。
精神鑑定では、
被告人の精神年齢は、5、6歳らしかったです。
幼い頃、
父親に虐待を受け、
母親との間が
普通の男女間のようであり、
暴力を奮う父親に対し
共同戦線を張る戦友のような間柄であったと推察されます。
その戦友である母親が
自殺するところを被告人は目撃したそうです。
被告人は、
父親に頭から床に叩きつけられるような
暴行を受けた体験をしてます。
これによって、
脳に致命的なダメージを負ったと思われます。
光市母子殺害にあたって
実母の甦りを恐れる想念(?)に
とらわれたのも、
被告人の未熟さからすれば、
無理からぬことであったのかもしれません。
もちろん、被告人の居直りめいた発言
――終始笑うは
悪なのが今の世だ。
ヤクザはツラで逃げ、
馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、
私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君――には、
真摯な反省が見えないです。
しかし、被告人に“逃げ”を許すほどの度量がなければ、
「終始笑う」者の心に、
判決に込められたメッセージが届きません。
被告人の特徴として
5、6歳の精神年齢なのに、
そうは感じさせない
ひねくれた発言内容の、判決に与えた影響は大きい
という見方が出来るでしょう。
人間、必ずしも、外見通りではありません。
しかし、この被告人の場合、
外見に即して判断してよかったのではないでしょうか。
顔写真が
ネットに流失してます。
それを見ると、
いかにも幼い顔をしているのが分かります。
虐待を経験したお子さんの場合、
幼く見える傾向が顕著だ
という指摘を耳にしたことがあります。
実際、その傾向はあるようです。
ただし、虐待が日常的になされる家庭で育つ
少年・少女は、
精神年齢がどんなに低くとも
大人としての行動パターンを身につけます。
幼く見える
ということと矛盾しているようですが、
これは、他方の真実です。
彼の場合、
奇しくも述べた
「終始笑う」
という自己特性として
それが現れ出ている、ということでしょう。
悲しくとも笑う、腹が立っても笑うのです。
つまり、感情の表出が
抑制され、
見た目に釣り合っていないということです。
精神の肉体からの乖離(かいり)と言ってもいい
心の状態――
被告ににとって、
「心ここにあらず」
という肉体から剥落した精神状態――が
心理的な防衛システムとして
常態化していたのではないでしょうか。
ただ、悲鳴を上げられたりすれば、
逆上してしまい、
簡単にその日常的な防衛システムに綻びが出来てしまう
脆弱さがあったように見受けられます。
そう解すれば、
突然の凶行も理解できなくはないです。
なお、被告人には、
斜視という肉体的条件がありました。
真正面を見ると、
横に目をやっているように見えるとのことです。
被告人が
法廷を出る際、
「自分を睨みつけていた」
という遺族の報告があるようです。
しかし、実際のところは、
そう見えただけに過ぎないことは、
「斜視」という
眼球の特色からだけでなく、
乖離という心理的規制からも十分に頷けることです。
では、二つ目の論点に移ります。
被告人は、
友人に宛て送った手紙の中で
こう述べたとされてます。
「あいつ(遺族である本村さんのこと)、
調子のってるな。
殺人たって、無期懲役ならば、
7年で娑婆に芽が出る」と。
この表白が
死刑を決定づけるんじゃないかと、
密かに感じました。
反省がないという意味では、
間違いなく言質とされて文句の言えない
凶悪な印象があるからです。
案の定でした。
さて、実は、
この友人につき、
死刑判決が出るまで知らなかった事柄があります。
実は、この友人、
失礼ながら、
いわゆる警察の犬(いぬ)的人物らしく、
ことさらに被告人を挑発し
生意気な表現を誘い出していたそうです。
警察は、
世論の後押しを受けて
被告人を死刑にしたいわけです。
そのために、
被告人をば決定的な悪人に仕立て上げねばならない、
という事情があったのです。
旦那であり、親でもあった遺族、
本村さんが
執筆した本に
「天国からの手紙」
という著作があります。
その書物に
「無期懲役の場合、7年経ったら釈放される」
という記載があるそうです。
被告人は、
その本を通して情報を得たのです。
警察に協力した、その友人とは、
事件を起こした後、知り合ったと言います。
言うなれば、
被告人は、まんまとおとり捜査の罠に
ひっかかってしまったのです。
皮肉なことに、
わずかな時間で、無二の親友になったり、
恋人になってしまったりするのは
虐待家庭に育った
少年・少女の特徴なんです。
本村さんを気の毒と思わないわけではありません。
ただ、妻が亡くなったことについて、
彼が口にした言い草に、
納得できないものがあります…
曰く、普通は、命を奪われるのを避けるため
言いなりになる、
しかし、私の妻は、そんなことをしなかった、
『私の女』でいたいがために、
己の命を捨てるのを躊躇しなかったのだ云々。
そして旦那は、被告人の死刑判決が確定し、
これで晴れて、
第二の人生が歩めるとばかりに
再婚するとのことです。
女性が
貞節を守ったからと言って、
男性もそうせよとは言いません。
「貞淑」という観念は、
もう古いし、捨て頃です。
にもかかわらず、今回の事件で
明瞭にされたのが
男の側の、この、
女性に対する一方的な
「操を守れ」
みたいな、
男中心社会ならではの願望です。
単に押しつけに過ぎないご都合主義を、
理念(イデー)にまで押し上げ、
正当化する
不公平感があります。
(・・・ほんとお前ら、気持ちぃ悪ぇんだよ!!)
先日お邪魔した時に、やっぱり忠太さん、記事にしておられるわと思いました。
この裁判、広島でも行われたので、ローカルニュースでもよく取り上げられていましたよ。
忠太さんは色々お調べになっておられるんだと分かりましたが、元少年のこと、こんなに分かるんですか?驚きました。
ある意味、怖い世の中ですね。
こういう情報が飛び交ってるんですね。
元少年の育った環境、身体のことなど、全然知りませんでした。
私も死刑が妥当と考えていたので、こういうことを知ると確かに死刑でいいのだろうかと考えてしまいますね。
この少年は成人になっていて、一部の報道では姓名が明らかになって、報道のことも問題視されていましたね。
本村さんが再婚なさっていると私も知りましたが、ホッとした思いと、また反対に残念に思う気持ちがありました。
でもあれだけ裁判も長引き、精神的にも苦痛になることが多かったと思うので新たなパートナーが現れたことは本当によかったと思います。
こういう大きな事件で死刑など刑の重さが問題になりますが、亡くなられた命はかえってこないし、御遺族の御心労を考えるといたたまれなくなります。
こういう事件が無くなっていけばいいのですが…難しい問題ですね。
その視点を外してしまうと、被告人の取った行動は、奇奇怪怪で理解しづらいです。だから死刑なんだ、ということかもしれません。しかし、現行法の秩序に則って刑を科すにしても、死刑は残酷です。上に書いたように、被告の精神年齢が幼すぎるからです。僕は、死刑判決が確定し、本名も含めマスコミが垂れ流した情報によって被告の顔も知るに至りました。にっこさんも見られたらよいでしょう。どう見ても、小学4年生にしか見えないですよ。本文に書きましたけど、被告人の正味の心の世界の年齢を反映してるんじゃないでしょうか。
本村さんは、仇討感覚で極刑を求めたんだと思います。しかし、ただの子どもに罠をかけるような真似をし、皆で、言うなれば、なぶり殺しにするわけでしょ?
どうやって奥さんが、あるいは、娘さんが成仏できるでしょう。その内、被害者と加害者の立場が逆転するんじゃないでしょうか。国家権力の力を借りて、一人の人間の命を奪うんです。しかし、相手は、幼過ぎて自分の罪を直視できそうにありません。その罪の分も含め、自分の殺害者としての罪を背負って生きていかなくなりました。耐え切れるんでしょうか・・・
被告人は幼児を床に叩きつけたことなっているらしいです。もしそれが事実なら、幼児の頸椎に損傷があってよさそうなのに、そんなものはないと言う。また、奥さんの首を両手で絞めたことになっているけれど、担当弁護士によれば、首に残された型を見る限りは、両手で絞めたと見るのは無理なようらしいです。となると、殺意があると断定するのは早計でしょう。片手で首を絞めた痕跡しかないなら、誤って殺害したということではないでしょうか。
そういう証拠不十分な裁判でした。被告人の悪魔性は、率直に言って、マスコミがでっち上げたものです。友達への手紙たって、殺人容疑で逮捕されて以降、取り調べの最中に知り合ったという経緯からして、信頼関係がないはずです。
被告人は、恐らく愛情乞食です。煽られた勢いで、つい強がりを言ってしまった、というのが真実でしょう。幼児性を丸出しにしながら、精一杯大人ぶって見せたところ、友人(?)はいたく喜びました。そこまでは良かったけれど、受け取った手紙というボールを飼い主である刑事のところに持って行ってしまいました。お陰で死刑が確定。もし、被告人の主張通りに殺意がなく、強姦の意図もなかったというのが真実なら、被告人があの世に持っていくお土産は、(友達を作れなかった)という反省だけです。それで、本村さんは平気なのか――ということが逆にひっかかってしまいます。