のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

福島作業員ハッピー さんの思い

2012年11月01日 22時52分15秒 | Weblog
福島で働いていらっしゃるらしい

原発作業員の方の

発した言葉を見つけました。

発信者は、

ハッピー
@Happy11311 さんです。(リンク

僕が見つけたのは、

下記の連続ツイートです。再稼動や新たな原発建設、海外への輸出。

続き7にある文言

「再稼動や新たな原発建設、海外への輸出」

に原発作業員と

原子力村の村長たちが

考えていることのギャップを感じます。

事故収束に

向けての作業は

戦争に似たところがあります。

自分の命の

危険が懸かっているというところです。

指導者は、

兵として働いてくれている人の

士気を削いではいけない

ということを何よりも重要視して

工程表を

実現すべきじゃないでしょうか。

それとも、

工程表って

見せるためだけのもの

だったのですか?


‐‐‐‐‐‐‐‐

続き1:リンク
オイラ達は3.11からの一週間まともに寝ず、飲まず、食わずで毎日頭フラフラしながら必死に体を動かした。なんで現場に残ったのか今になるとはっきりとした答えがない。二人共3.11の夜、渋滞が収まった頃に一度富岡の家に戻ったが家の中は滅茶苦茶でとても寝れる状況じゃなかった。

続き2:リンク
真っ暗闇の街の中で行くあても場所もないので二人して何故か現場に戻ってしまったんだよなぁ…。現場の車中でウトウトと一夜を過ごし、翌日の朝に全面マスク被った上司から起こされ異様な雰囲気に呑み込まれながら免震棟に連れて行かれたのが最初だったんだ

続き3:リンク
それから二人して1号機爆発の後も頑張ったけど、さすがに3号機爆発した後には上司に今は避難しろって云われたんだ。それまでは必死に二人共フラフラになるまで頑張ったなぁ…。あの時は線量とか汚染とか内部被曝とか全然気にしてなかった。ただただ何とかしなきゃの思いのみだった。

続き4:リンク
爆発前はまるで時限爆弾の導火線がだんだん短くなる感じはあったけど恐怖はなかった。ただただ必死だった。あの時、建屋の海側はまるで海岸の砂浜みたいな状況で、長靴で走って二人共よく転んでたなぁ…。長靴で砂浜は走るもんじゃないね。って感じの話で今日は色々盛り上がったでし。

続き5:リンク
彼が最後に言った言葉は「俺達、完全に国に騙されたよね。最初250mSvまで被曝しても、それは除外で5年100mSvとは別だって…、別枠になるからって云われ信用したのに…。結局、国は俺達に何にもしてくれないよね」って彼は話したんだ。そんな思いで現場を離れて行く人は沢山いる

続き6:リンク
彼はしばらく原発従事出来なくなり畑違いの部署に来週から行く事になった。でも畑違いでも彼ならきっと大丈夫でし。強い奴だからね。1Fは未だに現場検証もされないまま当時の現物証拠はどんどん解体され、土に埋もれ、コンクリートに固められ日々無くなっている。

続き7:リンク
作業員も事故現場も全て有耶無耶になりそうな気がしてならない。1Fの現場検証もないまま事故を無理やり収束させ、再稼動や新たな原発建設、海外への輸出。このままで…。オイラこのまま日本丸は進むべきじゃないと思うんだけど。1日でも早くしっかりとした舵取りやクルーを選ばないと…。






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