のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

二つの挑戦

2009年06月27日 18時02分49秒 | Weblog
 「まだ生きてますよ~!」。
 大昔、それが口癖のようだった時期がありました。誤解を恐れずに言えば、普通とはかなり違う環境で、僕は生きてきました。正直に書けば、それがそのまま小説の世界ではないか。むしろフィクションでないと説明するのが苦しいような、特異な体験の連続でした。人によっては、作り話に聞こえるでしょう。そして、それで終わり。。。悲しいかな、そういうものでしょう。。。
 しかし、何年も特異な生活をした挙句、意外にも気づいたことは自分は決して特別ではない、ということでした。自分は、普通であった! この発見はショックでしたね。パーソナリティとしては、奇人変人の類です、多分。しかし、よくよく考えて、普通なんですよ。そこの“普通の人”という気持ちを“普通の人”に伝えたい、また、伝えるのは、義務でもあると感じています。
 伝えたいこと、残したいことは、山ほどあります。でも、まとまりがつきません。最近のうつうつとした感情の原因の一つです。少しづつ出来る範囲で、こなしていくしかないのでしょう。宿題を一杯溜めこんだ小学生のような気分です。
 そこで思いついたのが、ホームページの作成。ブログは、その性質上、日替わりで、いろんなメニューとして、体験した事柄を分類し盛り込める反面、テーマを決めてそれを掘り下げていくツールとしては、不適切です。ホームページなら、時間をかけて思いを結晶化させられるのではないか、と。これがまた、新たな宿題として、完結しないままに残って行くだけかもしれませんが。
 ところで、もう一つ、挑戦したいことがあります。ビジネスという形で、自分の思いを実証したいのです。ホームページは、どんなに充実させて言っても、所詮、言葉の集積です。生活に直結してません。生活の中で、自分の、謂うならばアイデンテティを確かめたいのです。
 折しも大阪府が財政節減のため、青少年会館を3月30日をもって、閉館致しました。そこを利用していた若者達と接触したいと考えていたところ、たまたま不動産のことで相談を頂きました。ほとんど丸抱えに近い形ですけど、支援してあげることで即決しました。
 支援することは支援されることだ、と僕は思っています。今後、どのようなビジネスとして発展させられるかは分かりません。出来うれば、不況の昨今、この日本にとって、新たなソーシャルビジネスモデルとなれば、幸いです。
 こういう組織を作って欲しいとか、ご意見ございましたら、是非おっしゃって下さいますようにお願いします。ちなみに、僕が支援することにした若者グループは、「A-yan」と名乗っております。これを機会に、お見知りおき下さい。


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2 コメント

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お元気そうで良かったです (にっこ)
2009-06-29 00:40:00
忠太さん、こんばんは。
お元気そうで、ホッとしましたよ。

更新されたということは少しは復活されたのかな?
忠太さんはお友達がたくさんおられるんで、
コメントが書かれていそうなのに、
今日は私が最初のようですね。

無理せんでぼちぼちでいいと思いますよ。

忠太さんが何を悩まれていたのか私はよく分かりませんが、介護をなさっているので、
生活のリズムも崩れ、我慢をしなければいけないことがあると思います。

私が忠太さんのブログを目にしたのは、
お母様の付き添いで婦人科に行った時のことを書かれていたブログでした。

女性でも、あの診察台は嫌なのに、
忠太さんは偉いなって思いました。
忠太さんのストレスが少しずつ無くなっていったらええですよね。

書いておられることもごめんなさい、
よう分かりませんが、なんか新しいことに
挑戦なさるようで、わくわくしますね。
拝見しましたがさすが関西のノリ(笑)と思いました。

やっぱり関西の方の強さいうんか、
笑いのセンスには敬服いたします。

実は私もブログを2つ更新しながらある掲示板に出入りしてましたけど、
そちらの掲示板に出入りすることを辞めました。

掲示板もいい時はいいけど、
争いごとみたいになると、言葉が恐ろしいですね。
私が原因の種ではありませんが、
今まで友達のように接してきた人のことを
滅茶苦茶に書きだして、
ショックを受けたし、言葉が怖くなりました。

インターネットは手軽に友達になれるけど、
距離感いうのか、ほどほどの付き合いがいいなあと思いました。

私よりも忠太さんは長い間ブログも更新されているので、
いいことも、悪いこともご存じだと思います。

忠太さんがわくわくされたらいいなあって
応援させて頂きますね♪
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☆にっこさんへ (忠太)
2009-06-29 19:01:25
 コメントがさほどないのは、僕がコメントし難い記事を書いているからでしょうね。抑うつ的な気分が人を遠ざけている面もあるでしょう。陽気さも陰気さも人に移ります。しかし、気にはしていないです。ご忠告に従って、ぼつぼつ書かせて頂きます。

 ところで、最近、つくづく思うのは、ブログを書く動機って、本当、人それぞれなんだなということです。

 僕に関して言うと、ブログは、イコール遺書なんですね。50代後半で介護なんかしているでしょう。自分も老い、出口が見えない不安のため、介護から解放されたとき、自分の人生が残り滓になっている不安に襲われます。

 今、生きているのは、お袋のためです。もしお袋がいなければ、当然、介護は免れます。しかし、それだけでは済まないでしょう。同時に、自己の意味付けも吹き飛ぶかもしれません。別に、自殺云々という話ではないですよ。ただ、介護という、どこまで続くか分からない長いトンネルの向こうに見えるのは自分の死だということです。

 他の人は知りません。僕の場合、その死を受容すべきとした場合、思い浮かぶのは、遺書なんです。しかし、だれ宛に書くのか。。。

 結婚もせず、独身でいたから、普通なら遺書を受け取ってくれるであろう相手がいません。ならば作ろうと、思いついたのが若者達の支援でした。遺書の名宛人になるべき相手は、血縁関係者である必要は必ずしもないでしょ? 受け取った方は迷惑なだけかもしれませんが。

 僕が遺書で書きたいことは、「普通でない生き方をしていれば、普通であることに誇りをもてる」ということです。奇人変人らしい遺書でしょう。でも、真実を射ぬいているような気がします。

 天才歌手、美空ひばりさんが晩年「川の流れのように」を歌って、多くの人の心を打ちました。なぜ心を打つかと言えば、歌に「人生は川」という普通の人の感慨が籠っているからではないでしょうか。

 ほんの少し前(今もかもしれませんが)、少子化が政治問題として大きく取り上げられていましたよね。僕に言わせれば、若者を普通に扱わないから、こういう事態になっているのだと思います。勝ち組と負け組というような粗雑な2分法で若者を分類するのは、決して普通じゃないですよ。社会のシステムがそのような格差を生み出しているわけです。そこに目を向けないで、自己責任論が大流行りしています。そんな状況下で、少子化を解消しようとすれば、勝ち組が種馬になって、子どもを増やせばいいってことになりかねないです。

 普通という言葉の持つ重みを、今の時代はもっと噛みしめないといけないと思います。私見では、記事本文に記したソーシャルビジネスという考え方が、参考になります。この考えの創始者は、ムハマド・ユヌスさんというバングラデッシュに住む経済学者です。日本では、この考えの下に昨年末に新聞を賑わした派遣村が設営されたと理解してます。というのも、そのときこの活動の柱になった青年が駒崎弘樹という人らしいからです。この方、ソーシャルビジネスという考え方の影響を強く受けていらっしゃるようにお見受けいたします。氏は、今、「病児保育問題」に取り組んでいます。氏の問題意識を支えるのは、育児と仕事の双方を大切にしたい若い夫婦の願望でしょう。願望が成就しなければ,多くの若い人たちが困窮します。貧困とは、困窮しながら、ますます困窮する事態にずり落ちて行く状況を指します。ソーシャルビジネスのビジネスとしての存在意義は、まさにそのような困窮を生み出す貧困との闘いなのです。そして貧困への抵抗の一つとして、「病児保育問題」があるわけです。そうとするなら、駒崎弘樹氏のやっておられることは、紛れもなくソーシャルビジネスなはずです。

 困っている人がいれば助けたい。誰でもね。それが普通の人です。そしてまた「誰もが」望むのは、もし可能なら、助ける過程の永続的な循還です。その精神にのっとって、起業したいです。

 上の記事は、その意思表明です。関西のノリだけでどこまで通用するのか、疑問無きにしも非ずなのですが、傍(はた)を楽にするのが働く意味だとする商人(あきんど)の精神に立ち返るなら実現可能と思います。というわけで、よろしく応援、お願い致します。

 にっこさん、頼りにしてまっせ!!

 コメント、ありがとうございました。
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