Mr.カトー @Mrkat0 さんのツイートです。
――「介護離職ゼロ」目指し、特養増設・待機解消へ : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150923-OYT1T50103.html?from=tw …
⇒「介護離職ゼロ」って「仕事キツい・給料安い」で、介護職を辞める人をゼロにしようとする政策かと思ったら違ったorz 〔16:18 - 2015年9月27日 〕――
白色に注目するか、
あるいは、黒色なのかで、
向き合っている顔に見えたり壺に見えたり、
そんな
だまし絵があった。
まさに
それだな。
僕も「介護離職ゼロ」という
標語を聞いて、
Mr.カトー さんのように理解した。
錯覚した理由は、
他人の労働力を国家主義的な観点から
眺めるか、
個人主義的な観点なのかの違いに由来するのだろう。
安倍某は、
とことん前者なのだ。
簡単に言えば、
競争原理に乗っかっているか否かの違いだな。
もっと簡明な、
別の表現を使うなら、
「働くこと」のみに生きることの意義を見出すか、
「働かないこと」にも
それなりに居場所を与える社会観を持つかの違いだ。
もっともっとぶっちゃけた話を
毛ば部とる子 @kaori_sakai さんの言葉を借りてするなら、
――国民なんて働かせてなんぼ、という感覚をこれほど露骨に表す政府も珍しい。〔16:45 - 2015年9月27日 〕――
ということだ。
もし、
競争原理が唯一絶対無比なら、
労働は、
「生産性」という一点で、
優劣が決められる。
しかし、「互助」に働く意義があるなら、
そこでの価値観は、
「多様性」によって育まれることになる。
恐らく、
安倍某にあっては、
介護労働など、
そもそも「労働」の範疇に入らないのだろうな。
実際、死がそこに迫っている人を相手に
どんな生産性があるのか問われて、
何があるだろう。
あるいは、重い障害を抱えている人の世話をして、
何が生産性としてあるか――。
確かに「量」として示せるものは何もないかもしれない。
しかし、ある人が「働けない」として、
その場合、
他の人がその人の分を働くって、楽しいじゃないか、美しいじゃないか
と思う。
よく「働く」の語源解釈として
「傍(はた)の者を楽(らく)にする」からだ
という説がある。
非常に優れた説明で、まったくその通りだろう。
「一億総活躍社会」
と聞いて、
いや~な感じになるのは、
そこに
入院患者や鬱で休職中の人たちに
「仕事をやれ」と
勧める傲慢さを見るからだろう。
頑張れない
誰かさんがいていいんじゃないかな。
人間を量で測る価値観からすれば、
存在の
合理性を否定せねばならない。
しかし、人間存在は、
もともと質として意味があるんじゃないか。
そこを見なければ、
生きた人間社会を掴みそこなうということじゃないか。
そういう意味で、
宋 文洲 @sohbunshuさんの
次のツイートは、
実に、味わい深い。
――枯れ枝を指して矢だと強弁している。 〔16:15 - 2015年9月27日 〕 ――
働けない人を排除する社会は、
実は、社会を機能不全に陥らせ、働かない社会を作り上げる。
――「介護離職ゼロ」目指し、特養増設・待機解消へ : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150923-OYT1T50103.html?from=tw …
⇒「介護離職ゼロ」って「仕事キツい・給料安い」で、介護職を辞める人をゼロにしようとする政策かと思ったら違ったorz 〔16:18 - 2015年9月27日 〕――
白色に注目するか、
あるいは、黒色なのかで、
向き合っている顔に見えたり壺に見えたり、
そんな
だまし絵があった。
まさに
それだな。
僕も「介護離職ゼロ」という
標語を聞いて、
Mr.カトー さんのように理解した。
錯覚した理由は、
他人の労働力を国家主義的な観点から
眺めるか、
個人主義的な観点なのかの違いに由来するのだろう。
安倍某は、
とことん前者なのだ。
簡単に言えば、
競争原理に乗っかっているか否かの違いだな。
もっと簡明な、
別の表現を使うなら、
「働くこと」のみに生きることの意義を見出すか、
「働かないこと」にも
それなりに居場所を与える社会観を持つかの違いだ。
もっともっとぶっちゃけた話を
毛ば部とる子 @kaori_sakai さんの言葉を借りてするなら、
――国民なんて働かせてなんぼ、という感覚をこれほど露骨に表す政府も珍しい。〔16:45 - 2015年9月27日 〕――
ということだ。
もし、
競争原理が唯一絶対無比なら、
労働は、
「生産性」という一点で、
優劣が決められる。
しかし、「互助」に働く意義があるなら、
そこでの価値観は、
「多様性」によって育まれることになる。
恐らく、
安倍某にあっては、
介護労働など、
そもそも「労働」の範疇に入らないのだろうな。
実際、死がそこに迫っている人を相手に
どんな生産性があるのか問われて、
何があるだろう。
あるいは、重い障害を抱えている人の世話をして、
何が生産性としてあるか――。
確かに「量」として示せるものは何もないかもしれない。
しかし、ある人が「働けない」として、
その場合、
他の人がその人の分を働くって、楽しいじゃないか、美しいじゃないか
と思う。
よく「働く」の語源解釈として
「傍(はた)の者を楽(らく)にする」からだ
という説がある。
非常に優れた説明で、まったくその通りだろう。
「一億総活躍社会」
と聞いて、
いや~な感じになるのは、
そこに
入院患者や鬱で休職中の人たちに
「仕事をやれ」と
勧める傲慢さを見るからだろう。
頑張れない
誰かさんがいていいんじゃないかな。
人間を量で測る価値観からすれば、
存在の
合理性を否定せねばならない。
しかし、人間存在は、
もともと質として意味があるんじゃないか。
そこを見なければ、
生きた人間社会を掴みそこなうということじゃないか。
そういう意味で、
宋 文洲 @sohbunshuさんの
次のツイートは、
実に、味わい深い。
――枯れ枝を指して矢だと強弁している。 〔16:15 - 2015年9月27日 〕 ――
働けない人を排除する社会は、
実は、社会を機能不全に陥らせ、働かない社会を作り上げる。
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