誤解を招きやすい
「特別永住資格」という
概念に的を絞り、
最近あった、
橋下大阪市長と在特会の会長との面談に
合せるように投稿された
金明秀氏の論稿(一部)を下記に転載しました。
なお、金氏によると
安田浩一『ネットと愛国』(講談社、2012年)と
野間易通『「在日特権」の虚構』(河出書房、2013年)が
お勧めな本のようです。
〔資料〕
「特別永住資格は『特権』なのか」
(「特別永住資格は『在日特権』か?」より)
SYNODOS:金明秀氏・文(2014.10.22 Wed)
☆ 記事URL:http://synodos.jp/politics/11245
在特会会長は、京都朝鮮学校への人種差別的行為を問われた民事訴訟で、「一番許せないのは、入管特例法によって在日朝鮮人は殺人、強姦しても国外退去されないこと。他の外国人ならば万引きしただけで国外退去だ」「入管特例法を廃止して一般の外国人と同じにして、温かい祖国に帰してあげる」と陳述したそうだ[*12]。
[*12] 「万引きしただけで国外退去」というのはまったく事実に反することで、実際の退去強制事由は、刑法犯でいえば「無期又は1年を超える懲役若しくは禁錮に処せられた者」である。
しかし、旧植民地出身者に与えられた特別永住資格とは、はたして《日本人にはない特権》というべきものなのだろうか。そのことを考えるため、少々長くなるが、在日コリアンの国籍と特別永住資格について、できるだけ細かい法理論に立ち入ることなく、歴史的経緯を解説しておきたい。
なお、戦後の在日コリアンの歴史を正確に理解するには、(1)日本政府、(2)在日コリアンの代表組織、(3)GHQ、(4)朝鮮半島の政体の少なくとも4者をプレイヤーとして視野に入れなければならないが、そのことがこの問題を分かりにくくしている原因でもあるため、本稿では議論を単純化するため日本政府の政策に論点を集約する。
(1)在日コリアン一世は不法入国者か?
ネット右翼の中で流通しているデマの一つに、在日コリアン一世はそのほとんどが密航してきた不法入国者だ、というものがある。だがこれほど荒唐無稽な話はないだろう。なぜなら、一世が日本本土に渡来した植民地時代、朝鮮人は日本臣民だったからである。たとえるなら、政府が推奨する就職先を選ばずに自力で九州から東京の企業に就職した日本人大学生を「密航してきた不法入国者」と呼ぶようなものだ。
なるほど、三一独立運動後の治安対策や内地の雇用過剰感等から、大正14年(1925年)から昭和19年(1944年)まで、植民地朝鮮から内地へ渡航しようとする者には許可制による制限が加えられた[*13]。そして、行政上は許可を得ずに渡航する者を「密航者」と呼んだようである[*14]。しかし、同じ国民の地域移動を法で規制できるわけもなく、あくまで「朝鮮人を保護するため」を名目としたものにすぎなかった。制限外での渡航が「密航」と呼ばれようとも、それは決して「不法入国」などではなかったのである。
[*13] むしろ、この渡航制限に関しては、それをかいくぐって渡航した「密航」を非難するよりも、日本人には適用されない明らかな民族差別的制度が存在したことをこそ批判されるべきであろう。
[*14] 昭和2年(1927年)時点の統計によると、許可を得ずに本土に「密航」した者の比率はわずか0.7%にすぎず(南滿洲鐵道株式會社經濟調査會著『朝鮮人勞働者一般事情』南滿洲鐵道、昭和8年、42頁)、大多数は適切に許可を得て移動していた。
むしろ、植民地期の渡航制限に関して留意すべきことは、それが朝鮮人を《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》した差別処遇であったということだ。
(2)在日コリアンはいつまで日本国籍を保持していたのか
上述の渡航制限のほか、植民地時代にはさまざまな差別政策があったものの、少なくとも国籍という点では朝鮮人も同じ日本国民であった。では、日本に居住するコリアンはいつまで日本国民だったのか。
一般には、「終戦(ポツダム宣言受諾)」(1945年9月2日)によって日本国籍を失ったと考える人が多いようだが、そうではない。ポツダム宣言の受諾によって日本の朝鮮支配は終結したが、それによって実質的に日本国籍が意味を失ったのは朝鮮半島に居住するコリアンだけであった。日本本土に居住していたコリアンが日本国籍を失うのは、もっと先の話である。
では、「朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国の樹立」(1948年8~9月)かというと、それも違う。国家の樹立により、国際法的効果を持つ国籍を手に入れたのは、やはり朝鮮半島に居住するコリアンだけであった。
日本本土に居住していたコリアンが日本国籍を失ったのは、「朝鮮の独立を承認して……朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と定めたサンフランシスコ講和条約が発効した瞬間(1952年4月28日)である――というのが日本の政府および裁判所の見解である。
ただし、法理論上、在日コリアンが1952年時点までは日本国籍を保持していたといっても、実質的には日本国籍に伴う諸権利の行使を制限されていった。
(3)アクロバティックな参政権の停止
日本政府は敗戦直後から民主化に向けて選挙法の改正について協議を重ねた。1945年10月23日に閣議で決定された「改正要綱」に「内地在住の朝鮮人および台湾人も選挙権および被選挙権を有す」[*15]という規定がある。ようするに、日本に在住する朝鮮人・台湾人については、選挙権・被選挙権を保持すると決められていたのである。
[*15] 仮名遣いは現代語風に改めた。
しかし、この内閣案に対して、衆議院議員清瀬一郎が「次の選挙において天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らくは国籍を朝鮮に有し内地に住所を有する候補者ならん」[*16]などと政治的観点から強硬な反対論を展開した。結果、成立した改正選挙法では、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権を当分の内停止し選挙人名簿に登録することをえざるものとする」[*17]という条項が付加され、植民地戸籍に記載された朝鮮人、台湾人の参政権を《当分の間》停止するということになった。
[*16] 仮名遣いは現代語風に改めた。
[*17] 仮名遣いは現代語風に改めた。
ここで重要なことは、在日コリアンは講和条約が発効するまで日本国籍を有するとの立場を日本政府は取っていたにもかかわらず、(i)戸籍法を媒介するアクロバティックなアイディアを導入することで参政権が停止されたこと、(ii)参政権の停止にあたっては、法理論よりもゼノフォビア(異民族恐怖症)による政治的判断が優先されたこと、(iii)結果として、《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という差別処遇はここでも引き継がれたこと、である。
(4)最後の勅令「外国人登録令」
日本国憲法施行の前日1947年5月2日、旧憲法に依拠した外国人登録令が公布・施行された。ここでいう「外国人」とは、日本に居住する旧植民地出身者、とりわけコリアンのことである。これにより、日本に在住する朝鮮人は、法的には日本国籍を持つとされていたにもかかわらず、国籍等の欄に出身地である「朝鮮」という記載がなされるようになった[*18]。
[*18] 「朝鮮」とは朝鮮民主主義人民共和国のことではなく、朝鮮半島をあらわす地域名あるいは「記号」である。1950年以降は本人からの変更手続きがあれば「韓国」に変更することも可能になった。
日本国籍を持つ在日コリアンを「外国人」として取り締まるというのはじつに矛盾に満ちた話ではある。しかし、「朝鮮人は……当分の間、これを外国人とみなす」というあいまいな規定を設けることで、その矛盾を強引に突破しようとしたのがこの勅令である。
繰り返しになるが、ここでも重要なことは、やはり《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という行政上の差別処遇が採用されたということである。
(5)サンフランシスコ講和条約
1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するや、日本政府は旧植民地出身者の日本国籍の喪失を宣告した。その際、国際慣習にのっとった手続きはとられなかった。国際慣習というのは、植民地の独立など領土変更にともなって住民の国籍変更が生じる場合、住民に旧宗主国と新独立国の国籍選択権を与えるというものである[*19]。
[*19] 例えば、1875年に日本がロシアとの間で締結した樺太千島交換条約では、住民が従来の国籍を保有しうることが定められているし、同条約の附録条款にはアイヌの国籍選択権が明記されている。戦後の日本政府もこれが国際慣習だとの認識を持っており、1945年12月5日の衆議院議員選挙法改正委員会にて、堀切善次郎大臣は「日本の国籍を選択しうるということになるのがこれまでの例」と述べている。1947年に外務省条約局が作成した「平和条約における国籍問題」と題する調書でも、日本が主張すべきこととして「日本国籍を希望するものに対しては選択権を与えること」が挙げられている。そして、1949年12月21日国会衆議院外務委員会でも、「国籍につきましては、平和條約が具体化しなければ決定をなしかねると思いますが、大体において本人の希望次第決定されるということになるのではないか」と川村政府委員が答弁している。
国籍選択権が与えられなかった件について、前述のブログで池田信夫は韓国のせいだと主張していた。右派の中にしばしば見られる見解だが、日本国籍の離脱というのは日本の政策である。日本の政策について、韓国に責任があったかのように主張するのはナンセンスである。そのことは、講和条約発効と同じ日、外国人登録法が制定されたが、国籍欄には韓国ではなく「朝鮮」と記載され続けたことからも明らかである。
あるいは、在日コリアン側から国籍選択の要求がなされなかったではないかという主張もあるが、それに対しては田中宏による簡潔なコメントを紹介しておきたい[*20]。
在日コリアンの要求云々についても、日本側が在日の要求に耳を傾けて政策決定をしたことがあったろうか。例えば、外国人登録法に初めて指紋押捺義務が登場するが、もちろん在日コリアンからの要求があったわけではない。
この「宣告」後に待っていたのは、外国人登録法での指紋押捺義務の登場であり、二日後に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法に国籍・戸籍条項が付され、国家補償から排除されたのである。以後のさまざまな制度的排除・差別は、ことごとく「国籍」を口実にすべて正当化された。
[*20] 田中宏編『在日コリアン権利宣言』(岩波ブックレット)p.5
植民地時代から一貫して《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という行政上の差別処遇を採用してきた経緯からいっても、日本政府が国籍選択権を与えなかったことは、法理に基づくものというより、さまざまな政治的排除を目的としたものだと考えるのが自然である。
(6)特別永住資格
1952年に在日コリアンは日本国籍を名実ともに失った。しかし、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国もサンフランシスコ講和条約の当事国ではなく、したがって日本は両国とも国交を回復していなかった。それは、日本国籍の代わりになる外国籍がない、という状態を意味する。日本政府としては国際人権法の手前もあり、事実上の無国籍のまま旧植民地出身者を放り出すという形にすることは避けたかったのだろう。しかも、技術的な問題として、日本国籍を喪失した旧植民地出身者は、パスポートもビザも持たず、一般の外国人のいずれの在留資格にも当てはまらなかった。
そこで、日本政府がどういう選択をしたかといえば、問題を「先送り」した。すなわち、旧植民地出身者については、「別に法律で定めるところによりその者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」としたのである。
最終的に「別の法律」の定めができたのがいつかといえば、様々な紆余曲折があったが、最終的には1991年の「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(通称、入管特例法)を待つことになった。サンフランシスコ講和条約から、じつに約40年もたってのことである。これによって在日コリアンら旧植民地出身者に与えられたのが、「特別永住」という滞在資格である。
「特別永住」というと何か「特権」であるかのような響きも感じられるが、じつのところ退去強制(場合によっては一度も足を踏み入れたこともなく、言葉も分からない「祖国」へ)の対象になりうるなど、「権利」とは程遠い、単なる滞在資格の一つにすぎない。しかも、ひとたび日本を出国すれば、自宅のある日本へと入国するために「再入国許可」を得なければならないなど、けっして安定的な地位ではない。
1998年11月、国連自由権規約委員会が出した対日勧告の中に次のようなくだりがある[*21]。特別永住資格がこの要請にこたえられるものでないことは、自明であろう。
出入国管理及び難民認定法第26条……に基づき、第2世代、第3世代の日本への永住者、日本に生活基盤のある外国人は、出国及び再入国の権利を剥奪される可能性がある。……委員会は、締約国に対し、「自国」という文言は、「自らの国籍国」とは同義ではないということを注意喚起する。委員会は、従って、締約国に対し、日本で出生した韓国・朝鮮出身の人々のような永住者に関して、出国前に再入国の許可を得る必要性をその法律から除去することを強く要請する。
[*21] http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c2_001.html
在特会は入管特例法の存在を「在日特権」だと主張している。同会の桜井誠会長は、在日コリアンのライターである李信恵さんに向かって、「入管特例法は特権だ。漢字で特別法と書く。特別法とは特権のこと」などと述べたらしい[*22]。しかし、特別法とは、一般法ではとらえきれない例外的な問題を扱う法律を指す言葉であり、「特権」とは何の関係もない[*23]。ましてや、《日本人にはない特権》でなどあろうはずもない。あくまで「外国人」の中では比較的安定的な地位であるということにすぎない。
[*22] 「差別排外デモ」密着ルポ 在特会・桜井誠会長への突撃取材(下)
[*23] 現行法の中で「特例」の文言を名称に含む法令は686件にものぼる。そのいずれも「特権」とは何の関係もない。
また、橋下市長は「特別永住者制度っていうのは、もうそろそろやっぱり終息に向かわなきゃいけないと思ってる」というが、むしろ特別永住資格の創出そのものがまだ最近のことであり、その間ずっと不安定な状況に据え置かれてきたという経緯が完全に無視されている。
そもそも、欧州各国では、居住国生まれの三世以降が外国籍のまま参政権を所持しないことを人権侵害だとみなし、重国籍や地方参政権付与などによって問題を解消する傾向にある。それに比して、かりに、日本では民族浄化を目的とした極右排外主義団体のデマや誣告に乗せられる形で、滞在資格を「特権」として議論しようとしているとすれば、民主主義を標榜する法治国家としてあまりにも情けないことではないだろうか。
サムネイル「Reflective Distortions 3D」Michael Gil
http://www.flickr.com/photos/msvg/5505031142
「特別永住資格」という
概念に的を絞り、
最近あった、
橋下大阪市長と在特会の会長との面談に
合せるように投稿された
金明秀氏の論稿(一部)を下記に転載しました。
なお、金氏によると
安田浩一『ネットと愛国』(講談社、2012年)と
野間易通『「在日特権」の虚構』(河出書房、2013年)が
お勧めな本のようです。
〔資料〕
「特別永住資格は『特権』なのか」
(「特別永住資格は『在日特権』か?」より)
SYNODOS:金明秀氏・文(2014.10.22 Wed)
☆ 記事URL:http://synodos.jp/politics/11245
在特会会長は、京都朝鮮学校への人種差別的行為を問われた民事訴訟で、「一番許せないのは、入管特例法によって在日朝鮮人は殺人、強姦しても国外退去されないこと。他の外国人ならば万引きしただけで国外退去だ」「入管特例法を廃止して一般の外国人と同じにして、温かい祖国に帰してあげる」と陳述したそうだ[*12]。
[*12] 「万引きしただけで国外退去」というのはまったく事実に反することで、実際の退去強制事由は、刑法犯でいえば「無期又は1年を超える懲役若しくは禁錮に処せられた者」である。
しかし、旧植民地出身者に与えられた特別永住資格とは、はたして《日本人にはない特権》というべきものなのだろうか。そのことを考えるため、少々長くなるが、在日コリアンの国籍と特別永住資格について、できるだけ細かい法理論に立ち入ることなく、歴史的経緯を解説しておきたい。
なお、戦後の在日コリアンの歴史を正確に理解するには、(1)日本政府、(2)在日コリアンの代表組織、(3)GHQ、(4)朝鮮半島の政体の少なくとも4者をプレイヤーとして視野に入れなければならないが、そのことがこの問題を分かりにくくしている原因でもあるため、本稿では議論を単純化するため日本政府の政策に論点を集約する。
(1)在日コリアン一世は不法入国者か?
ネット右翼の中で流通しているデマの一つに、在日コリアン一世はそのほとんどが密航してきた不法入国者だ、というものがある。だがこれほど荒唐無稽な話はないだろう。なぜなら、一世が日本本土に渡来した植民地時代、朝鮮人は日本臣民だったからである。たとえるなら、政府が推奨する就職先を選ばずに自力で九州から東京の企業に就職した日本人大学生を「密航してきた不法入国者」と呼ぶようなものだ。
なるほど、三一独立運動後の治安対策や内地の雇用過剰感等から、大正14年(1925年)から昭和19年(1944年)まで、植民地朝鮮から内地へ渡航しようとする者には許可制による制限が加えられた[*13]。そして、行政上は許可を得ずに渡航する者を「密航者」と呼んだようである[*14]。しかし、同じ国民の地域移動を法で規制できるわけもなく、あくまで「朝鮮人を保護するため」を名目としたものにすぎなかった。制限外での渡航が「密航」と呼ばれようとも、それは決して「不法入国」などではなかったのである。
[*13] むしろ、この渡航制限に関しては、それをかいくぐって渡航した「密航」を非難するよりも、日本人には適用されない明らかな民族差別的制度が存在したことをこそ批判されるべきであろう。
[*14] 昭和2年(1927年)時点の統計によると、許可を得ずに本土に「密航」した者の比率はわずか0.7%にすぎず(南滿洲鐵道株式會社經濟調査會著『朝鮮人勞働者一般事情』南滿洲鐵道、昭和8年、42頁)、大多数は適切に許可を得て移動していた。
むしろ、植民地期の渡航制限に関して留意すべきことは、それが朝鮮人を《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》した差別処遇であったということだ。
(2)在日コリアンはいつまで日本国籍を保持していたのか
上述の渡航制限のほか、植民地時代にはさまざまな差別政策があったものの、少なくとも国籍という点では朝鮮人も同じ日本国民であった。では、日本に居住するコリアンはいつまで日本国民だったのか。
一般には、「終戦(ポツダム宣言受諾)」(1945年9月2日)によって日本国籍を失ったと考える人が多いようだが、そうではない。ポツダム宣言の受諾によって日本の朝鮮支配は終結したが、それによって実質的に日本国籍が意味を失ったのは朝鮮半島に居住するコリアンだけであった。日本本土に居住していたコリアンが日本国籍を失うのは、もっと先の話である。
では、「朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国の樹立」(1948年8~9月)かというと、それも違う。国家の樹立により、国際法的効果を持つ国籍を手に入れたのは、やはり朝鮮半島に居住するコリアンだけであった。
日本本土に居住していたコリアンが日本国籍を失ったのは、「朝鮮の独立を承認して……朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と定めたサンフランシスコ講和条約が発効した瞬間(1952年4月28日)である――というのが日本の政府および裁判所の見解である。
ただし、法理論上、在日コリアンが1952年時点までは日本国籍を保持していたといっても、実質的には日本国籍に伴う諸権利の行使を制限されていった。
(3)アクロバティックな参政権の停止
日本政府は敗戦直後から民主化に向けて選挙法の改正について協議を重ねた。1945年10月23日に閣議で決定された「改正要綱」に「内地在住の朝鮮人および台湾人も選挙権および被選挙権を有す」[*15]という規定がある。ようするに、日本に在住する朝鮮人・台湾人については、選挙権・被選挙権を保持すると決められていたのである。
[*15] 仮名遣いは現代語風に改めた。
しかし、この内閣案に対して、衆議院議員清瀬一郎が「次の選挙において天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らくは国籍を朝鮮に有し内地に住所を有する候補者ならん」[*16]などと政治的観点から強硬な反対論を展開した。結果、成立した改正選挙法では、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権を当分の内停止し選挙人名簿に登録することをえざるものとする」[*17]という条項が付加され、植民地戸籍に記載された朝鮮人、台湾人の参政権を《当分の間》停止するということになった。
[*16] 仮名遣いは現代語風に改めた。
[*17] 仮名遣いは現代語風に改めた。
ここで重要なことは、在日コリアンは講和条約が発効するまで日本国籍を有するとの立場を日本政府は取っていたにもかかわらず、(i)戸籍法を媒介するアクロバティックなアイディアを導入することで参政権が停止されたこと、(ii)参政権の停止にあたっては、法理論よりもゼノフォビア(異民族恐怖症)による政治的判断が優先されたこと、(iii)結果として、《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という差別処遇はここでも引き継がれたこと、である。
(4)最後の勅令「外国人登録令」
日本国憲法施行の前日1947年5月2日、旧憲法に依拠した外国人登録令が公布・施行された。ここでいう「外国人」とは、日本に居住する旧植民地出身者、とりわけコリアンのことである。これにより、日本に在住する朝鮮人は、法的には日本国籍を持つとされていたにもかかわらず、国籍等の欄に出身地である「朝鮮」という記載がなされるようになった[*18]。
[*18] 「朝鮮」とは朝鮮民主主義人民共和国のことではなく、朝鮮半島をあらわす地域名あるいは「記号」である。1950年以降は本人からの変更手続きがあれば「韓国」に変更することも可能になった。
日本国籍を持つ在日コリアンを「外国人」として取り締まるというのはじつに矛盾に満ちた話ではある。しかし、「朝鮮人は……当分の間、これを外国人とみなす」というあいまいな規定を設けることで、その矛盾を強引に突破しようとしたのがこの勅令である。
繰り返しになるが、ここでも重要なことは、やはり《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という行政上の差別処遇が採用されたということである。
(5)サンフランシスコ講和条約
1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するや、日本政府は旧植民地出身者の日本国籍の喪失を宣告した。その際、国際慣習にのっとった手続きはとられなかった。国際慣習というのは、植民地の独立など領土変更にともなって住民の国籍変更が生じる場合、住民に旧宗主国と新独立国の国籍選択権を与えるというものである[*19]。
[*19] 例えば、1875年に日本がロシアとの間で締結した樺太千島交換条約では、住民が従来の国籍を保有しうることが定められているし、同条約の附録条款にはアイヌの国籍選択権が明記されている。戦後の日本政府もこれが国際慣習だとの認識を持っており、1945年12月5日の衆議院議員選挙法改正委員会にて、堀切善次郎大臣は「日本の国籍を選択しうるということになるのがこれまでの例」と述べている。1947年に外務省条約局が作成した「平和条約における国籍問題」と題する調書でも、日本が主張すべきこととして「日本国籍を希望するものに対しては選択権を与えること」が挙げられている。そして、1949年12月21日国会衆議院外務委員会でも、「国籍につきましては、平和條約が具体化しなければ決定をなしかねると思いますが、大体において本人の希望次第決定されるということになるのではないか」と川村政府委員が答弁している。
国籍選択権が与えられなかった件について、前述のブログで池田信夫は韓国のせいだと主張していた。右派の中にしばしば見られる見解だが、日本国籍の離脱というのは日本の政策である。日本の政策について、韓国に責任があったかのように主張するのはナンセンスである。そのことは、講和条約発効と同じ日、外国人登録法が制定されたが、国籍欄には韓国ではなく「朝鮮」と記載され続けたことからも明らかである。
あるいは、在日コリアン側から国籍選択の要求がなされなかったではないかという主張もあるが、それに対しては田中宏による簡潔なコメントを紹介しておきたい[*20]。
在日コリアンの要求云々についても、日本側が在日の要求に耳を傾けて政策決定をしたことがあったろうか。例えば、外国人登録法に初めて指紋押捺義務が登場するが、もちろん在日コリアンからの要求があったわけではない。
この「宣告」後に待っていたのは、外国人登録法での指紋押捺義務の登場であり、二日後に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法に国籍・戸籍条項が付され、国家補償から排除されたのである。以後のさまざまな制度的排除・差別は、ことごとく「国籍」を口実にすべて正当化された。
[*20] 田中宏編『在日コリアン権利宣言』(岩波ブックレット)p.5
植民地時代から一貫して《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という行政上の差別処遇を採用してきた経緯からいっても、日本政府が国籍選択権を与えなかったことは、法理に基づくものというより、さまざまな政治的排除を目的としたものだと考えるのが自然である。
(6)特別永住資格
1952年に在日コリアンは日本国籍を名実ともに失った。しかし、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国もサンフランシスコ講和条約の当事国ではなく、したがって日本は両国とも国交を回復していなかった。それは、日本国籍の代わりになる外国籍がない、という状態を意味する。日本政府としては国際人権法の手前もあり、事実上の無国籍のまま旧植民地出身者を放り出すという形にすることは避けたかったのだろう。しかも、技術的な問題として、日本国籍を喪失した旧植民地出身者は、パスポートもビザも持たず、一般の外国人のいずれの在留資格にも当てはまらなかった。
そこで、日本政府がどういう選択をしたかといえば、問題を「先送り」した。すなわち、旧植民地出身者については、「別に法律で定めるところによりその者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」としたのである。
最終的に「別の法律」の定めができたのがいつかといえば、様々な紆余曲折があったが、最終的には1991年の「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(通称、入管特例法)を待つことになった。サンフランシスコ講和条約から、じつに約40年もたってのことである。これによって在日コリアンら旧植民地出身者に与えられたのが、「特別永住」という滞在資格である。
「特別永住」というと何か「特権」であるかのような響きも感じられるが、じつのところ退去強制(場合によっては一度も足を踏み入れたこともなく、言葉も分からない「祖国」へ)の対象になりうるなど、「権利」とは程遠い、単なる滞在資格の一つにすぎない。しかも、ひとたび日本を出国すれば、自宅のある日本へと入国するために「再入国許可」を得なければならないなど、けっして安定的な地位ではない。
1998年11月、国連自由権規約委員会が出した対日勧告の中に次のようなくだりがある[*21]。特別永住資格がこの要請にこたえられるものでないことは、自明であろう。
出入国管理及び難民認定法第26条……に基づき、第2世代、第3世代の日本への永住者、日本に生活基盤のある外国人は、出国及び再入国の権利を剥奪される可能性がある。……委員会は、締約国に対し、「自国」という文言は、「自らの国籍国」とは同義ではないということを注意喚起する。委員会は、従って、締約国に対し、日本で出生した韓国・朝鮮出身の人々のような永住者に関して、出国前に再入国の許可を得る必要性をその法律から除去することを強く要請する。
[*21] http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c2_001.html
在特会は入管特例法の存在を「在日特権」だと主張している。同会の桜井誠会長は、在日コリアンのライターである李信恵さんに向かって、「入管特例法は特権だ。漢字で特別法と書く。特別法とは特権のこと」などと述べたらしい[*22]。しかし、特別法とは、一般法ではとらえきれない例外的な問題を扱う法律を指す言葉であり、「特権」とは何の関係もない[*23]。ましてや、《日本人にはない特権》でなどあろうはずもない。あくまで「外国人」の中では比較的安定的な地位であるということにすぎない。
[*22] 「差別排外デモ」密着ルポ 在特会・桜井誠会長への突撃取材(下)
[*23] 現行法の中で「特例」の文言を名称に含む法令は686件にものぼる。そのいずれも「特権」とは何の関係もない。
また、橋下市長は「特別永住者制度っていうのは、もうそろそろやっぱり終息に向かわなきゃいけないと思ってる」というが、むしろ特別永住資格の創出そのものがまだ最近のことであり、その間ずっと不安定な状況に据え置かれてきたという経緯が完全に無視されている。
そもそも、欧州各国では、居住国生まれの三世以降が外国籍のまま参政権を所持しないことを人権侵害だとみなし、重国籍や地方参政権付与などによって問題を解消する傾向にある。それに比して、かりに、日本では民族浄化を目的とした極右排外主義団体のデマや誣告に乗せられる形で、滞在資格を「特権」として議論しようとしているとすれば、民主主義を標榜する法治国家としてあまりにも情けないことではないだろうか。
サムネイル「Reflective Distortions 3D」Michael Gil
http://www.flickr.com/photos/msvg/5505031142
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