敗戦間際、
ソ連が日本に参戦したことに
恨みを抱いている
自称「愛国の徒」がいる。
しかし、これは、
二つの点で歴史を見誤っている。
一つは、
日本がロシアに仲介を求めた事実だ。
もう一つは、
原爆を投下する予定だったのは、
広島、長崎に限られていなかったことだ。
下記〔資料〕にある通り、原爆投下予定地点は、
全部で12か所あった。
さて、ロシア(旧ソ連)に仲介を求めたのは、
日本の軍部中枢部が依然として自分たちの面子にこだわり、
「ポツダム宣言」にある
全面的な降伏を避けようとしたためだ。
ロシアは、
本心で言えば参戦したかった。
しかし、
中立条約があったため参戦しかねたわけだ。
しかし、日本側の
「米国と日本、どちらに理があるか貴国において示されよ」
という趣旨の申し出をしたがために
参戦されてしまったこと、努々、忘れるべきでない。
同時に、
このロシアの
対日宣戦があればこそ、
上述、忘れてはならない二つ目の
史実がある、
すなわち、これによって、
日本は、
降伏を決断して
原爆投下による被害の拡大を防止できた。
当時の日本政府は、
原爆に威力を過小評価した。
フクイチに関連して、
「放射脳」
という言葉が猛威を振るってるが、
正確な評価は、
往々日本では弾圧の対象になる。
人の命を何とも思っていない当時の日本政府に任せていれば、
それこそ、
国は滅び去ってしまうしかなかったということだ。
〔資料〕
「【殲滅作戦】米国は日本に12発の原爆を投下する予定だった事が判明!8月19日にも3発目を準備!」
サイト「真実を探すブログ」(2015.08.17 13:30)
☆ 記事URL:http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7622.html
<以下、サイト内転載資料>
(1)「米国 日本にさらに12の原爆を投下する予定だった」
☆ 記事URL:http://jp.sputniknews.com/politics/20150816/753235.html
米国は、広島と長崎に原爆を投下した後も、日本への原爆攻撃をやめるつもりはなかった。彼らは、三発目を投下するばかりでなく、さらに12もの原爆投下計画を持っていた。新聞「The Daily Beast」が、広島・長崎への原爆投下70周年に関連して公表された米国の軍事アーカイヴの資料を引用して伝えた。
1945年8月13日に行われた高位の軍事専門家らによる交渉をまとめた資料は、より強力な三回目の攻撃のための原爆用材料が、マリアナ諸島にほぼ集められ、8月19日に用いられる可能性があった事を裏付けている。またさらなる12回の攻撃用に原爆製造の準備がなされ、米国は、日本が降伏するまで、原爆攻撃を続ける計画だった。
(2)「原爆投下目標にされた都市」
☆ 記事URL:http://www.hiroshima-spirit.jp/ja/hiroshima/shiryoukan/morgue_e12.html
<投下目標の変遷(1945(昭和20)年)>
4月27日 投下目標の研究対象として、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17地域を選定
5月11日 京都、広島、横浜、小倉を選定
5月28日 京都、広島、新潟に対し空襲を禁止
6月14日 小倉、広島、新潟を選定
7月25日 8月3日ごろ以降、速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ原爆を投下する命令
8月 2日 8月6日に投下する命令。優先順位は広島、小倉、長崎
8月 6日 広島へ原爆投下(ウラン爆弾)
8月 8日 8月9日に投下する命令。優先順位は小倉、長崎
8月 9日 長崎へ原爆投下(プルトニウム爆弾)
:引用終了
(3)「原爆投下、市民殺りくが目的 米学者、極秘文書で確認」
☆ 記事URL:http://eharagen.sun.macserver.jp/atomic_bomb.html
原子爆弾が広島に投下されてから6日で38年。これについて米最高首脳はこれまで「軍事目的に限定して使った」(トルーマン大統領回顧録)としてきたが、実は「日本への原爆投下の目的は一般市民を大量殺りくすることにあった」とスタンフォード大の米歴史学者が極秘文書で確認、近く出版する本で発表する。また広島、長崎に「米人捕虜がいる」と英国情報部などが警告したのにもかかわらず、米政府はこれを無視したという。(パロアルト<米カリフォルニア州>菊地特派員)
(4)「ダウンフォール作戦」
☆ 記事URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
ダウンフォール作戦は次の2つの作戦から構成されている。両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにするとともに、広島長崎に続く原爆投下、及び大規模な化学兵器の使用、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事(すなわち、NBC兵器の無差別投入や、マスタードガス、サリン攻撃[1] も検討されていた)。
あのまま戦争を続けていたら、日本人は消滅寸前になっていましたね・・・。8月15日に玉音放送があったことを考えると、8月19日というのは本当にギリギリの日程だったと言えます。降伏宣言が数日でも遅れていたら、第三の原爆投下都市が誕生していたということです。
連合軍は1945年冬に日本本土制圧を目的とした「ダウンフォール作戦」を開始する予定だったことが分かっており、その上陸前の空爆で化学兵器の無差別投入や原爆投下を計画していました。12個の原爆だけでも軽く100万人を超える死傷者が出ることになるでしょうし、本土決戦を考えただけでも恐ろしいです。
大戦末期の米国人は「日本人を絶滅させても良い」という考えが多くなっていたことから、如何に戦争中の世界は狂っていたかが分かります。絶対に二度と繰り返してはいけない戦いです。
〔資料-2〕
< 上掲サイト記事関連過去記事>
◆ 広島原爆投下後も相次いだ核実験 戦後に行なわれた核実験の回数は約2000回に!核実験の映像と画像
☆ 記事URL:http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7489.html
ソ連が日本に参戦したことに
恨みを抱いている
自称「愛国の徒」がいる。
しかし、これは、
二つの点で歴史を見誤っている。
一つは、
日本がロシアに仲介を求めた事実だ。
もう一つは、
原爆を投下する予定だったのは、
広島、長崎に限られていなかったことだ。
下記〔資料〕にある通り、原爆投下予定地点は、
全部で12か所あった。
さて、ロシア(旧ソ連)に仲介を求めたのは、
日本の軍部中枢部が依然として自分たちの面子にこだわり、
「ポツダム宣言」にある
全面的な降伏を避けようとしたためだ。
ロシアは、
本心で言えば参戦したかった。
しかし、
中立条約があったため参戦しかねたわけだ。
しかし、日本側の
「米国と日本、どちらに理があるか貴国において示されよ」
という趣旨の申し出をしたがために
参戦されてしまったこと、努々、忘れるべきでない。
同時に、
このロシアの
対日宣戦があればこそ、
上述、忘れてはならない二つ目の
史実がある、
すなわち、これによって、
日本は、
降伏を決断して
原爆投下による被害の拡大を防止できた。
当時の日本政府は、
原爆に威力を過小評価した。
フクイチに関連して、
「放射脳」
という言葉が猛威を振るってるが、
正確な評価は、
往々日本では弾圧の対象になる。
人の命を何とも思っていない当時の日本政府に任せていれば、
それこそ、
国は滅び去ってしまうしかなかったということだ。
〔資料〕
「【殲滅作戦】米国は日本に12発の原爆を投下する予定だった事が判明!8月19日にも3発目を準備!」
サイト「真実を探すブログ」(2015.08.17 13:30)
☆ 記事URL:http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7622.html
<以下、サイト内転載資料>
(1)「米国 日本にさらに12の原爆を投下する予定だった」
☆ 記事URL:http://jp.sputniknews.com/politics/20150816/753235.html
米国は、広島と長崎に原爆を投下した後も、日本への原爆攻撃をやめるつもりはなかった。彼らは、三発目を投下するばかりでなく、さらに12もの原爆投下計画を持っていた。新聞「The Daily Beast」が、広島・長崎への原爆投下70周年に関連して公表された米国の軍事アーカイヴの資料を引用して伝えた。
1945年8月13日に行われた高位の軍事専門家らによる交渉をまとめた資料は、より強力な三回目の攻撃のための原爆用材料が、マリアナ諸島にほぼ集められ、8月19日に用いられる可能性があった事を裏付けている。またさらなる12回の攻撃用に原爆製造の準備がなされ、米国は、日本が降伏するまで、原爆攻撃を続ける計画だった。
(2)「原爆投下目標にされた都市」
☆ 記事URL:http://www.hiroshima-spirit.jp/ja/hiroshima/shiryoukan/morgue_e12.html
<投下目標の変遷(1945(昭和20)年)>
4月27日 投下目標の研究対象として、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17地域を選定
5月11日 京都、広島、横浜、小倉を選定
5月28日 京都、広島、新潟に対し空襲を禁止
6月14日 小倉、広島、新潟を選定
7月25日 8月3日ごろ以降、速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ原爆を投下する命令
8月 2日 8月6日に投下する命令。優先順位は広島、小倉、長崎
8月 6日 広島へ原爆投下(ウラン爆弾)
8月 8日 8月9日に投下する命令。優先順位は小倉、長崎
8月 9日 長崎へ原爆投下(プルトニウム爆弾)
:引用終了
(3)「原爆投下、市民殺りくが目的 米学者、極秘文書で確認」
☆ 記事URL:http://eharagen.sun.macserver.jp/atomic_bomb.html
原子爆弾が広島に投下されてから6日で38年。これについて米最高首脳はこれまで「軍事目的に限定して使った」(トルーマン大統領回顧録)としてきたが、実は「日本への原爆投下の目的は一般市民を大量殺りくすることにあった」とスタンフォード大の米歴史学者が極秘文書で確認、近く出版する本で発表する。また広島、長崎に「米人捕虜がいる」と英国情報部などが警告したのにもかかわらず、米政府はこれを無視したという。(パロアルト<米カリフォルニア州>菊地特派員)
(4)「ダウンフォール作戦」
☆ 記事URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
ダウンフォール作戦は次の2つの作戦から構成されている。両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにするとともに、広島長崎に続く原爆投下、及び大規模な化学兵器の使用、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事(すなわち、NBC兵器の無差別投入や、マスタードガス、サリン攻撃[1] も検討されていた)。
以上、サイト「真実を探すブログ」内転載資料
あのまま戦争を続けていたら、日本人は消滅寸前になっていましたね・・・。8月15日に玉音放送があったことを考えると、8月19日というのは本当にギリギリの日程だったと言えます。降伏宣言が数日でも遅れていたら、第三の原爆投下都市が誕生していたということです。
連合軍は1945年冬に日本本土制圧を目的とした「ダウンフォール作戦」を開始する予定だったことが分かっており、その上陸前の空爆で化学兵器の無差別投入や原爆投下を計画していました。12個の原爆だけでも軽く100万人を超える死傷者が出ることになるでしょうし、本土決戦を考えただけでも恐ろしいです。
大戦末期の米国人は「日本人を絶滅させても良い」という考えが多くなっていたことから、如何に戦争中の世界は狂っていたかが分かります。絶対に二度と繰り返してはいけない戦いです。
〔資料-2〕
< 上掲サイト記事関連過去記事>
◆ 広島原爆投下後も相次いだ核実験 戦後に行なわれた核実験の回数は約2000回に!核実験の映像と画像
☆ 記事URL:http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7489.html
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