タイトルにある
「国、敗れ、まさしく山河だけが残った」という原稿の書き出しは、
2013年4月28日、
「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」での
挨拶の一節だそうです。
岩佐義樹氏が
「首相の言葉には校閲が必要? 」
と題して指摘されてました。
☆ 記事URL:http://blog.mainichi-kotoba.jp/2013/08/blog-post_17.html
この文句は、
杜甫の漢詩の「国破れて山河あり」を踏まえているのだろうと
推測できます。
しかし、ならばなぜ、「破れ」と表記せず、
「敗れ」となっているのか、
誰しも疑問を抱きます。
思うに、
安倍某の大好きな修正主義という歴史観からすれば
歴史は変更できるもののはず――だからではないでしょうか。
すなわち、安倍某にあっては、
歴史とはきっと、
野球のスコアブックに類するものなのです。
スコアブックには、
ご存じのように試合の出来不出来の記録があるのみです。
もし、チームとしての機能に何の障害もないの
だったら、負けた試合を
負けてなかったと記録し直しても
問題ない…と。
もしくは、さほど支障は生じまいという風に、
結果を軽く考えているのでしょう。
しかし、「敗」でなく、
「破」という字を使えば戻せないイメージになります。
引き裂かれた紙、
セロテープでくっつけても、
破れていない紙との差は一目瞭然です。
だから「敗れた」と
書くのではないでしょうか。
無意識に
そういう判断が働いて、
「破」という文字を避けさせるのでしょう。
ただ、岩佐氏も
指摘されるように、
「引用であることを明示していない」ので、
間違いではないというだけの話です。
さて、今年の「平和記念式典」に関する挨拶について、
コピペが
盛んに話題になってます。
岩佐氏によりますと、
こちらも、コピペうんぬん以前に
日本語として点検が必要なようです。
以下、
資料として
下に転載しておきます。
〔資料〕
「浚う、夥しい、斃れる、能う限り、遵守 」
毎日ことば:岩佐義樹氏・文(2014年8月17日)
☆ 記事URL:http://blog.mainichi-kotoba.jp/2014/08/blog-post_17.html?spref=tw&m=1
この週は「首相の戦没者追悼」。過去の「沖縄全戦没者追悼式」、広島「平和記念式典」、終戦の日の「全国戦没者追悼式」で行った安倍晋三首相のあいさつのうち、難しそうな漢字を首相官邸ホームページから拾いました。
今年8月6日、ネタにしてしまった手前、今回はどんなあいさつになるのか、耳をそばだたせました。すると、聞いたことのある文言がぞろぞろ。安倍さん、間違えて去年の原稿を持ってきてしまったんじゃなかろうか、と半ば本気で心配しました。
もちろん、毎年行うのであれば内容が前年と似たものになるのは、このあいさつの性格上避けられませんが、ここまでコピペするのは、雨や猛暑の中、参列していただいた方々のことを考えれば普通避けるものでしょう。ただし一校閲者としては、コピペそのものより、疑問符が付く言葉・文字遣いまで繰り返されるというのがどうしても納得いきません。
まず広島の原爆が「一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました」というくだり。「浚う」の正解率をみても決して読みやすい字ではないし、ホームページなどに記録として残るものですから、難読漢字は避けた方がいいと思いますが、それは別としても「さらう」の使い方が気になります。 辞書では「池や沼などの水底の土砂やごみをごっそりととりのぞく。『どぶを-』『なべ底までさらってたいらげる』」(角川必携国語辞典)とあります。つまり「さらう」目的は、きれいにすることであり、「さらう」対象はごみなど、なくなってしかるべきものというイメージがあります。原爆被害の形容としてふさわしいとは思えません。これは「爆風にさらし」とするほうが適切と思いますが、いかがでしょう。
また、出題時の解説にも付記しましたが、「業火」は本来「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」(同)であり、現在は単に「大火」の意味でも用いられているものの、本来の意味しか書いていない辞書もあります。罪のない市民が焼かれたことに「業火」を使うことには違和感があります。
次に「犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました」ですが、この「べくして」の使い方、正しいのでしょうか。「①当然の結果として…するはずであって。『起こる-起こった事故』②…することはできても。『言う-おこないがたい』」(同)の①はもちろん②の用法としても苦しい。ここはやはり「犠牲と言うには」と言うべきではないでしょうか。
どうも安倍さんは難しい漢字や言い回しがお好きなようで、「倒れる」で済むところを「斃れる」と書くのも、その方が格調高くなると思っているのかもしれません。しかし8月6日に「斃れ」を使ったのと同じ文脈で8月15日には「倒れ」を使っています。こだわりがないのなら「倒れ」で十分でしょう。ちなみに音読みではヘイで「斃死」という熟語があり、辞書には「のたれ死に」のこととあります。
「能う限り」については安倍さんは、何度も「能うる限り」と述べています。この間違いについては以前もブログで指摘しましたので詳しくはそちらをご覧いただくとして、今年の沖縄慰霊の日でも「能うる限り」と言っていたので、もっと目立つところで指摘しようと毎日新聞社会面の「週刊漢字」で取り上げました。しかしこれも読んでいないのか、それとも何がどう違っているかが理解できなかったのか、やはり今年の終戦記念日でもはっきり「能うる限り」と安倍さんは読んでいました。かっこいい言葉でかざりたくて古風な言葉遣いをするのでしょうが、生半可な知識で使うものだから誤ることになります。素直に「できる限り」とすれば突っ込まれなくて済んだのに。
新聞では第1次安倍政権時の「憲法の規定を遵守し」の文言が消えたことや、昨年の「唯一の戦争被爆国民」が「唯一の戦争被爆国」と変わり「民」が消えたことが指摘されています。それも問題でしょうが、いかにも安倍さんらしいともいえます。それより一校閲者としては、一国の首相が奇妙な言葉遣いで日本語を乱し続けていることをどうしてみんな突っ込まないのか、気になってなりません。
「国、敗れ、まさしく山河だけが残った」という原稿の書き出しは、
2013年4月28日、
「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」での
挨拶の一節だそうです。
岩佐義樹氏が
「首相の言葉には校閲が必要? 」
と題して指摘されてました。
☆ 記事URL:http://blog.mainichi-kotoba.jp/2013/08/blog-post_17.html
この文句は、
杜甫の漢詩の「国破れて山河あり」を踏まえているのだろうと
推測できます。
しかし、ならばなぜ、「破れ」と表記せず、
「敗れ」となっているのか、
誰しも疑問を抱きます。
思うに、
安倍某の大好きな修正主義という歴史観からすれば
歴史は変更できるもののはず――だからではないでしょうか。
すなわち、安倍某にあっては、
歴史とはきっと、
野球のスコアブックに類するものなのです。
スコアブックには、
ご存じのように試合の出来不出来の記録があるのみです。
もし、チームとしての機能に何の障害もないの
だったら、負けた試合を
負けてなかったと記録し直しても
問題ない…と。
もしくは、さほど支障は生じまいという風に、
結果を軽く考えているのでしょう。
しかし、「敗」でなく、
「破」という字を使えば戻せないイメージになります。
引き裂かれた紙、
セロテープでくっつけても、
破れていない紙との差は一目瞭然です。
だから「敗れた」と
書くのではないでしょうか。
無意識に
そういう判断が働いて、
「破」という文字を避けさせるのでしょう。
ただ、岩佐氏も
指摘されるように、
「引用であることを明示していない」ので、
間違いではないというだけの話です。
さて、今年の「平和記念式典」に関する挨拶について、
コピペが
盛んに話題になってます。
岩佐氏によりますと、
こちらも、コピペうんぬん以前に
日本語として点検が必要なようです。
以下、
資料として
下に転載しておきます。
〔資料〕
「浚う、夥しい、斃れる、能う限り、遵守 」
毎日ことば:岩佐義樹氏・文(2014年8月17日)
☆ 記事URL:http://blog.mainichi-kotoba.jp/2014/08/blog-post_17.html?spref=tw&m=1
この週は「首相の戦没者追悼」。過去の「沖縄全戦没者追悼式」、広島「平和記念式典」、終戦の日の「全国戦没者追悼式」で行った安倍晋三首相のあいさつのうち、難しそうな漢字を首相官邸ホームページから拾いました。
今年8月6日、ネタにしてしまった手前、今回はどんなあいさつになるのか、耳をそばだたせました。すると、聞いたことのある文言がぞろぞろ。安倍さん、間違えて去年の原稿を持ってきてしまったんじゃなかろうか、と半ば本気で心配しました。
もちろん、毎年行うのであれば内容が前年と似たものになるのは、このあいさつの性格上避けられませんが、ここまでコピペするのは、雨や猛暑の中、参列していただいた方々のことを考えれば普通避けるものでしょう。ただし一校閲者としては、コピペそのものより、疑問符が付く言葉・文字遣いまで繰り返されるというのがどうしても納得いきません。
まず広島の原爆が「一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました」というくだり。「浚う」の正解率をみても決して読みやすい字ではないし、ホームページなどに記録として残るものですから、難読漢字は避けた方がいいと思いますが、それは別としても「さらう」の使い方が気になります。 辞書では「池や沼などの水底の土砂やごみをごっそりととりのぞく。『どぶを-』『なべ底までさらってたいらげる』」(角川必携国語辞典)とあります。つまり「さらう」目的は、きれいにすることであり、「さらう」対象はごみなど、なくなってしかるべきものというイメージがあります。原爆被害の形容としてふさわしいとは思えません。これは「爆風にさらし」とするほうが適切と思いますが、いかがでしょう。
また、出題時の解説にも付記しましたが、「業火」は本来「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」(同)であり、現在は単に「大火」の意味でも用いられているものの、本来の意味しか書いていない辞書もあります。罪のない市民が焼かれたことに「業火」を使うことには違和感があります。
次に「犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました」ですが、この「べくして」の使い方、正しいのでしょうか。「①当然の結果として…するはずであって。『起こる-起こった事故』②…することはできても。『言う-おこないがたい』」(同)の①はもちろん②の用法としても苦しい。ここはやはり「犠牲と言うには」と言うべきではないでしょうか。
どうも安倍さんは難しい漢字や言い回しがお好きなようで、「倒れる」で済むところを「斃れる」と書くのも、その方が格調高くなると思っているのかもしれません。しかし8月6日に「斃れ」を使ったのと同じ文脈で8月15日には「倒れ」を使っています。こだわりがないのなら「倒れ」で十分でしょう。ちなみに音読みではヘイで「斃死」という熟語があり、辞書には「のたれ死に」のこととあります。
「能う限り」については安倍さんは、何度も「能うる限り」と述べています。この間違いについては以前もブログで指摘しましたので詳しくはそちらをご覧いただくとして、今年の沖縄慰霊の日でも「能うる限り」と言っていたので、もっと目立つところで指摘しようと毎日新聞社会面の「週刊漢字」で取り上げました。しかしこれも読んでいないのか、それとも何がどう違っているかが理解できなかったのか、やはり今年の終戦記念日でもはっきり「能うる限り」と安倍さんは読んでいました。かっこいい言葉でかざりたくて古風な言葉遣いをするのでしょうが、生半可な知識で使うものだから誤ることになります。素直に「できる限り」とすれば突っ込まれなくて済んだのに。
新聞では第1次安倍政権時の「憲法の規定を遵守し」の文言が消えたことや、昨年の「唯一の戦争被爆国民」が「唯一の戦争被爆国」と変わり「民」が消えたことが指摘されています。それも問題でしょうが、いかにも安倍さんらしいともいえます。それより一校閲者としては、一国の首相が奇妙な言葉遣いで日本語を乱し続けていることをどうしてみんな突っ込まないのか、気になってなりません。
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