〔資料〕
「本澤二郎の「北京の街角から」(62)」
「ジャーナリスト同盟」通信(2015年08月22日)
☆ 記事URL:http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52113333.html
<残留孤児と無形の礼>
「礼儀をわきまえる日本人」の評判は、昔から高いという。有形の礼である。このことに感動する中国人は多い。「また日本旅行をしたい」という友人の声を聴く。他方で、中国人のそれは、海外旅行などで話題を提供したりする。だが、日本人は、特に安倍ら極右は、中国人の「無形の礼」について、決して忘却してはならない。日本人残留孤児のことである。
<侵略・植民地支配の悲劇>
日本の侵略戦争と植民地支配は、一部の軍国主義者によって、カルトの天皇主義に洗脳された無知蒙昧の多数国民を、有無を言わせずに動員させられた結果だが、その正体は国粋主義者と彼らを利用した財閥が真犯人である。
70年前に日本占領軍は、真っ先に財閥と軍閥を解体した。史実である。それゆえに、敗戦の局面で悲劇が起きた。ハルビン731部隊が真っ先に証拠を隠滅すると、日本へと逃亡した。「王道楽土」という大嘘に引っかかった長野県などの満蒙開拓団の婦女子が、あとに残された。悲惨な悲劇は、こうして発生した。
進軍してきたソ連軍も軍紀は低く、女性の多くが強姦された。日本人だけでなく中国人女性も被害にあった。ハルビンなどには、ロシア人混血児が多く誕生しているが、やくざのようなソ連軍の悪しき実績である。
しかし、彼らは日本兵のように、中国人女性を強姦・輪姦したあと虐殺はしなかった。中国で捕虜となった日本兵の裁判記録が、いま日本の極右向けに公開されているが、そこにはむごたらしい日本兵の蛮行ばかりが供述されている。
女性の陰部を突き刺して殺害する「天皇の軍隊」の蛮行には辟易するし、子供を殺害する証言も少なくない。全てを告白すると、どうなるか、身の毛もよだつ供述の数々である。南京大虐殺だけではない。
それでも中国政府は、その多くの日本兵を釈放した。ソ連は抑留して、過酷なシベリアで日本兵を酷使して、死なせている。
<敵の子供も同じ人間>
日本人は鬼である。それでも、鬼の子供を育ててくれた中国人がいたのである。2000人以上の日本人の子供が、無事に成長した。ドイツ人実業家・シンドラーは1100人のユダヤ人を救ったが、数千人の貧しい中国人の労働者や農民は、日本人の幼児を、自分の子供として育ててくれた。これこそが「無形の礼」なのである。
確か3歳以下の幼児を日本軍は、足手まといとばかりに、車庫に押し込んでガソリンで焼却しているが、中国人に助けられた2000人の幸運児もいたのである。極右はこのことをどう見るか。血も涙もないやくざレベルなのか。
子供に罪はない。人間はみな同じである、という信念の中国人が存在したことに、われわれは改めて驚愕するほかない。
この話をしてくれたのは、元北京週報東京支局長である。10年ほど前、日中の文化交流シンポジウムでの発言内容だ。新たな視点からの残留孤児論に対して、日本人学者に深い感動と感銘を与えた。「無形の礼」という心をえぐる言葉を、僕も初めて知った。
<養父母のほとけ心>
いま北京では、連日テレビで抗日戦争を、様々な角度で放映している。史実を踏まえた映画だけではない。学者を次々と登場させる映像も。731部隊や南京大虐殺以外にも。
建国のリーダーたちの活躍を描く映像も、次々と登場するため、中国研究はゼロの僕も、ようやく「南昌蜂起」「長征」「延安」「抗日軍政大学」「八路軍」「朱徳」「彭徳懐」という固有名詞の概要を知ることができた。戦後70年・2015年の成果であろう。
戦後50年の1995年に50人を引率して、南京・盧溝橋を旅した際、最後の日程に人民日報訪問を入れた。通訳を北京大学OBの陸国忠さん(元東京大使館参事官)が引き受けてくれた。
応対してくれた当時の国際面の編集局長が、参加者の涙の出る感想に対して「実は、初めて言いますが、私の身内も4人戦争で亡くなっています」と証言した。大変ショックを受けた記憶がある。ことほど日本人は、加害者であることをすっかり忘れて無神経なのである。
安倍に至っては、謝罪はこれまでと言わぬばかりの70年談話だ。恥ずかしい限りだ。当時のそれでも、憎い日本人という社会環境の下での養父母は、ほとけサマのような人間ではないだろうか。
しかも、日本からの「帰ってきて」という実母兄弟からの呼びかけにも応じた。これもつらい。毎夜泣き崩れる養父母だった。数千人の養父母の実態はどうだったのか。歴史から消されていいわけがない。
日本に戻った残留孤児の生活も厳しい。日本政府は、しかと対応しているのであろうか。
<残留孤児の戦争法反対>
「無形の礼」についての話は、連日東京から届く市民の国会包囲デモの場面で、元残留孤児の「2度と繰り返すな」という声が画面に映った。それを見た元北京週報記者が、思い出したように語ってくれたものだ。
撫順捕虜収容所での中国側の対応も、仰天するほかない。当時の中国は、まさに貧困そのものだった。白米を食べる余裕などなかったが、日本人捕虜には白米を与えた。
最も罪の重い日本兵でも、最高刑8年で保釈している。大半を、すぐに帰国させた。その判決場面の日本兵の号泣するサマを、先日見ることができた。無数の中国人を殺戮・強姦した日本兵への対応も「無形の礼」であろう。72年の国交回復場面では、空前絶後ともいえるはずの戦争賠償を、あっさりと放棄したことも、決して日本人は忘れてはなるまい。
70年後に安倍・自公内閣は、中国を仮想的にした戦争法を強行しようとしている。そこに創価学会まで巻き込んでいる。狂気であろう。
<元奈良市長の一言>
僕に残留孤児の恩を語ってくれた人物は、元奈良市長から政界に転じた鍵田忠三郎さんである。彼は72年に日中国交回復すると、すばやく大平外相を訪ねて西安と奈良の友好都市を実現した。
福田内閣の幹事長となった大平さんは、鍵田さんに北京行きの密使を頼んだ。相手は周恩来外交の日本窓口の廖承志さんである。「福田内閣で平和友好条約?岸信介が反対して無理だろう」という北京認識に対して、鍵田さんは「あんたは大平を信用できないか」と食い下がって納得させ、その後、無事に平和友好条約は調印できた。国交回復も平和友好条約も大平さんの実績なのだ。
鍵田さんは、そんな関係もあって、廖承志さんから直に重大な要請を受けていた。台湾との平和統一支援である。「日本は台湾とパイプが太い。平和統一に力を貸してほしい」というものだった。
彼は台湾派の実力者の金丸幹事長の説得を始めると、僕に台湾の国民党との説得を求めてきた。そのさいの僕への説得材料が残留孤児のことだった。「このような国も国民もいない。一つ骨折ってくれないか」という要請に二つ返事で応じたものである。
しかし、残留孤児のことが「無形の礼」であることだとは気づかなかった。礼儀正しい日本人は、確かに「有形の礼」であるが、この機会に「無形の礼」もできる日本人でありたい。
2015年8月22日記(政治評論家・武漢大学客員教授)
「本澤二郎の「北京の街角から」(62)」
「ジャーナリスト同盟」通信(2015年08月22日)
☆ 記事URL:http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52113333.html
<残留孤児と無形の礼>
「礼儀をわきまえる日本人」の評判は、昔から高いという。有形の礼である。このことに感動する中国人は多い。「また日本旅行をしたい」という友人の声を聴く。他方で、中国人のそれは、海外旅行などで話題を提供したりする。だが、日本人は、特に安倍ら極右は、中国人の「無形の礼」について、決して忘却してはならない。日本人残留孤児のことである。
<侵略・植民地支配の悲劇>
日本の侵略戦争と植民地支配は、一部の軍国主義者によって、カルトの天皇主義に洗脳された無知蒙昧の多数国民を、有無を言わせずに動員させられた結果だが、その正体は国粋主義者と彼らを利用した財閥が真犯人である。
70年前に日本占領軍は、真っ先に財閥と軍閥を解体した。史実である。それゆえに、敗戦の局面で悲劇が起きた。ハルビン731部隊が真っ先に証拠を隠滅すると、日本へと逃亡した。「王道楽土」という大嘘に引っかかった長野県などの満蒙開拓団の婦女子が、あとに残された。悲惨な悲劇は、こうして発生した。
進軍してきたソ連軍も軍紀は低く、女性の多くが強姦された。日本人だけでなく中国人女性も被害にあった。ハルビンなどには、ロシア人混血児が多く誕生しているが、やくざのようなソ連軍の悪しき実績である。
しかし、彼らは日本兵のように、中国人女性を強姦・輪姦したあと虐殺はしなかった。中国で捕虜となった日本兵の裁判記録が、いま日本の極右向けに公開されているが、そこにはむごたらしい日本兵の蛮行ばかりが供述されている。
女性の陰部を突き刺して殺害する「天皇の軍隊」の蛮行には辟易するし、子供を殺害する証言も少なくない。全てを告白すると、どうなるか、身の毛もよだつ供述の数々である。南京大虐殺だけではない。
それでも中国政府は、その多くの日本兵を釈放した。ソ連は抑留して、過酷なシベリアで日本兵を酷使して、死なせている。
<敵の子供も同じ人間>
日本人は鬼である。それでも、鬼の子供を育ててくれた中国人がいたのである。2000人以上の日本人の子供が、無事に成長した。ドイツ人実業家・シンドラーは1100人のユダヤ人を救ったが、数千人の貧しい中国人の労働者や農民は、日本人の幼児を、自分の子供として育ててくれた。これこそが「無形の礼」なのである。
確か3歳以下の幼児を日本軍は、足手まといとばかりに、車庫に押し込んでガソリンで焼却しているが、中国人に助けられた2000人の幸運児もいたのである。極右はこのことをどう見るか。血も涙もないやくざレベルなのか。
子供に罪はない。人間はみな同じである、という信念の中国人が存在したことに、われわれは改めて驚愕するほかない。
この話をしてくれたのは、元北京週報東京支局長である。10年ほど前、日中の文化交流シンポジウムでの発言内容だ。新たな視点からの残留孤児論に対して、日本人学者に深い感動と感銘を与えた。「無形の礼」という心をえぐる言葉を、僕も初めて知った。
<養父母のほとけ心>
いま北京では、連日テレビで抗日戦争を、様々な角度で放映している。史実を踏まえた映画だけではない。学者を次々と登場させる映像も。731部隊や南京大虐殺以外にも。
建国のリーダーたちの活躍を描く映像も、次々と登場するため、中国研究はゼロの僕も、ようやく「南昌蜂起」「長征」「延安」「抗日軍政大学」「八路軍」「朱徳」「彭徳懐」という固有名詞の概要を知ることができた。戦後70年・2015年の成果であろう。
戦後50年の1995年に50人を引率して、南京・盧溝橋を旅した際、最後の日程に人民日報訪問を入れた。通訳を北京大学OBの陸国忠さん(元東京大使館参事官)が引き受けてくれた。
応対してくれた当時の国際面の編集局長が、参加者の涙の出る感想に対して「実は、初めて言いますが、私の身内も4人戦争で亡くなっています」と証言した。大変ショックを受けた記憶がある。ことほど日本人は、加害者であることをすっかり忘れて無神経なのである。
安倍に至っては、謝罪はこれまでと言わぬばかりの70年談話だ。恥ずかしい限りだ。当時のそれでも、憎い日本人という社会環境の下での養父母は、ほとけサマのような人間ではないだろうか。
しかも、日本からの「帰ってきて」という実母兄弟からの呼びかけにも応じた。これもつらい。毎夜泣き崩れる養父母だった。数千人の養父母の実態はどうだったのか。歴史から消されていいわけがない。
日本に戻った残留孤児の生活も厳しい。日本政府は、しかと対応しているのであろうか。
<残留孤児の戦争法反対>
「無形の礼」についての話は、連日東京から届く市民の国会包囲デモの場面で、元残留孤児の「2度と繰り返すな」という声が画面に映った。それを見た元北京週報記者が、思い出したように語ってくれたものだ。
撫順捕虜収容所での中国側の対応も、仰天するほかない。当時の中国は、まさに貧困そのものだった。白米を食べる余裕などなかったが、日本人捕虜には白米を与えた。
最も罪の重い日本兵でも、最高刑8年で保釈している。大半を、すぐに帰国させた。その判決場面の日本兵の号泣するサマを、先日見ることができた。無数の中国人を殺戮・強姦した日本兵への対応も「無形の礼」であろう。72年の国交回復場面では、空前絶後ともいえるはずの戦争賠償を、あっさりと放棄したことも、決して日本人は忘れてはなるまい。
70年後に安倍・自公内閣は、中国を仮想的にした戦争法を強行しようとしている。そこに創価学会まで巻き込んでいる。狂気であろう。
<元奈良市長の一言>
僕に残留孤児の恩を語ってくれた人物は、元奈良市長から政界に転じた鍵田忠三郎さんである。彼は72年に日中国交回復すると、すばやく大平外相を訪ねて西安と奈良の友好都市を実現した。
福田内閣の幹事長となった大平さんは、鍵田さんに北京行きの密使を頼んだ。相手は周恩来外交の日本窓口の廖承志さんである。「福田内閣で平和友好条約?岸信介が反対して無理だろう」という北京認識に対して、鍵田さんは「あんたは大平を信用できないか」と食い下がって納得させ、その後、無事に平和友好条約は調印できた。国交回復も平和友好条約も大平さんの実績なのだ。
鍵田さんは、そんな関係もあって、廖承志さんから直に重大な要請を受けていた。台湾との平和統一支援である。「日本は台湾とパイプが太い。平和統一に力を貸してほしい」というものだった。
彼は台湾派の実力者の金丸幹事長の説得を始めると、僕に台湾の国民党との説得を求めてきた。そのさいの僕への説得材料が残留孤児のことだった。「このような国も国民もいない。一つ骨折ってくれないか」という要請に二つ返事で応じたものである。
しかし、残留孤児のことが「無形の礼」であることだとは気づかなかった。礼儀正しい日本人は、確かに「有形の礼」であるが、この機会に「無形の礼」もできる日本人でありたい。
2015年8月22日記(政治評論家・武漢大学客員教授)
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