のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

読売の記者が朝日新聞に先立つこと10年も前に、従軍慰安婦問題を取り上げていた

2015年01月19日 01時33分03秒 | 戦争犯罪
GREEN ‏@green00999 さんのツイートです。

――朝日新聞より10年以上も前に読売新聞の記者が「朝鮮の女を何十人も騙して連れてきて日本兵用の慰安婦にした」と書いてますよ。批判するなら朝日だけでなく読売も批判してください。→ http://www.twitlonger.com/show/n_1s510jl #tvasahi #asamadetv  #慰安婦〔4:29 - 2014年9月27日 〕――


〔資料〕

「読売新聞の従軍記者 小俣行男氏の記録」
 
      ~1942年5月か6月頃 ビルマ(現ミャンマー)

   きっこ · @kikko_no_blog (20th Aug 2014 )

☆ 記事URL:http://www.twitlonger.com/show/n_1s510jl

(朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)
 私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」

 考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブ(将校専用の慰安所)がけっして安全なところでないことは戦地の常識である。その後この少女たちはどうなったろうか。

※出典 小俣行男著『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社(1967年)より

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