のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

仏教を弄ぶ長谷川三千子女史の反・人権論の不毛

2015年06月22日 01時12分08秒 | ファシズム
言葉というのは人に依るのですな。

普通の場合は、

「正論」とも言うべきこの言葉、

この人が言うと

とても如何わしいです。



なぜ、如何わしいのか――。

この御仁は、

憲法を自分を拘束するルールとして、

最も大切なものだのに、

ルールだとは思ってないからですな。

では、何と思っているのか

って言うと、

国民支配のツールなんですかな

(サイト「晴耕雨読」記事「安倍晋三は憲法をルールだとは思ってないのよ。国民支配のツールだと思っている。:ネコには都合が多い氏」参照。*http://sun.ap.teacup.com/souun/17661.html)。

言うならば、

宗教理念と同じ扱いだということでしょうか。

これは、一見すると、

宗教の

真価を認めているようでありながら、

実は、宗教の冒涜です。

彼らの口にする、

イラっとくる言葉のNo2は、

自衛権行使の新3要件ですかね。

まるで

生臭坊主のやる読経のようで

全然、心が入ってません。


転載元:PassyKis @passykisさんのツイート〔0:03 - 2015年6月21日

「国民」というのが

いけないのかもしれませんね。

「国民のみなさんの生命と平和な暮らしを守るために、チ~ン」

彼らが

「国民」という度、

我々、国民は、

大きな苦しみを背負わされるようです。

国民礼賛の、どの言葉も

すべて欺瞞的で、

かつ、内容が宙に浮いています。

こんな人を食ったようなことばかり言う

内閣は、かつて、

見たことがありませんでした。

さて、そんな犯罪的なほど軽薄な安倍内閣の後ろに控え、

精神的に安倍某らを支えている

信徒代表の一人に

NHK経営委員の長谷川三千子がいます。

この人は、

日本会議のイデオローグであるらしいですよ。

『民主主義とは何なのか』

という著書において

人権はインチキとごまかしの産物と言い切っているようです。

「Brezza di Lago 」というサイトにおいて、

そんな彼女の

考えがまとめられています

(下記〔資料〕参照)。

☆ 記事URL:http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7.html

安倍同様、

憲法を支配のツールと考えていて、

「人権は、こっそり裏側では神に頼り、神のご威光によって正当化しておきながら、それと一対となるべき「神への義務」に頬かむりを決め込んでいる、そういう代物なのである」

などと断罪してます。

その断罪の基準を仏教に求められています

長谷川氏は、

「悉有仏性」(しつうぶっしょう)をもって

「人権」を攻撃します。

それは、何事かを「要求する」さもしい根性によって

支えられていると言いたげす。

仏教では、

確かに野に咲く花、鳥、

すべて仏性(仏となりうる種子を宿している)があります。

しかし、だからと言って、

それらのものが即身成仏を命じられているかのように

考えるのは、

明らかに仏教の曲解です。

花は、太陽の光を求めますし、

慈雨に

命を育みます。

鳥とて同じです。

命の営みを続けるでしょ。

その過程では

もちろん、殺生を行います。

しかし、だからと言って、

仏教は、

生きとし生けるものに

灰塵滅死(死して灰となってしまうこと)を求めているわけではありません。

むしろ、逆を説いています。

生きんがために

求める欲求を否定したんでは

かえって

仏の道に反するのです。

すなわち、

「煩悩即菩提」

という考え方です。

思うに、

世界にあるいろんな宗教の中で

仏教は、

とりわけ共生的なんじゃないでしょうか。

その宗教をもって、

他宗教を排撃する一神教のような

役割りを

果たさせるような考え方は、

偽善の一言です。

人の命は、

仏教的に見ても

「天からの頂き物」です。

別に、

キリスト教的世界観に特有のものではありません。

それを大抵は、

我々の与り知らぬものなのをいいことにして、

あらぬ裏口入学の疑いをかけます。

いわく、こっそり裏側では神に頼り云々。

しかもうっかり、裏口入学して人権享受を楽しんでいたら、

「それと一対となるべき

『神への義務』に頬かむりを決め込んでいる」わけですから、

いつどこで「神への義務」の履行を求めて神様が押しかけてくるかもわからないぞって、

まるでぼったくりバーのようではないですか。

それはまるで

「鬼畜米英。戦争に負けたら、女全てが強姦されるぞ」と言って純朴な若者を脅していたという

日本の軍人のようでもあります。

そりゃ、宗教だからね、

「信じなさい」

という神への義務の履行がもとめられるでしょう。

しかし、仏教だって、

五戒というものがあって、

頭を丸めなくても実践しなければならない戒律(義務の履行)の問題があります。

長谷川さんは、

本格的に仏教の教理を習得したいとでも

思っていらっしゃるのでしょうか。

もし、この道一筋のような誠実さで仏道を欣求されるなら、

頭を丸めにゃならんですよ。

そのときになって、

見苦しくも頭を抱え込んで

「私は、尼ではないから…」

と、在家者である

立場を“権利”として主張すされる姿が目に浮かびます。

最後に、

折角のご指摘ではありますが

義務について

人権思想が頬かむりしていない証拠として、

日本国憲法の

次の条項を示しておきたいと思います。

憲法第12条です。

その条項にいわく、この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ云々。

憲法には規定はありませんが、

求められる

「国民の不断の努力」の中には、

独裁的な政権の専横を許すなということが含まれるでしょう。

その帰結として、

政権の打倒が求められる

ということが

憲法理念として正当化されると考えるべきです。

しかし、これは、

ギリシャに淵源するばかりでなく

東洋においても

「易姓革命」として

中国の古典「周易」で認められています。

「悪代官は、ぶちのめせ」

という人情の然らしめるところです。

長谷川氏自身、

NHKの番組が自分の信条に反するからと、

同放送局の経営陣を

「悪玉」

として吊し上げる意図をもって

受信料の支払いを拒絶していたではありませんか。

言っていることと、

やっていることがあまりに違いませんか。

まあ、この人とか、

冒頭に少し触れた

「皆さん、しっかりルールは守って行こうではありませんか」と、

嘯きながら、

他方で、自分は、

「我々が提出する法律の説明は正しいと思いますよ。私は総理大臣なのですから」

と宣言して

説明責任を果たそうとしない安倍某とか、

ひょっとして自分を神様と思っているのかもしれません。

その推測が正しいんだとしたら、

言動がちぐはぐなのは当然ですかね。

それは、

彼らにあっては

神さまの特権とでも言うべきものなのでしょうから。


〔資料〕

「長谷川三千子『民主主義とは何なのか』第四章インチキとごまかしの産物−人権 」

   サイト「Brezza di Lago 」(2014-03-07)

☆ 記事URL:http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7.html

長谷川三千子『民主主義とは何なのか』  2001年文春文庫

第一章 「いかがわしい言葉」 デモクラシー
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

第二章 「われとわれとが戦う」病い 第三章 抑制なき力の原理 「国民主権」
要約へのリンク http://manomasumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_4.html

第四章 インチキとごまかしの産物 人権  要約

 仏教に「悉有仏性」(しつうぶっしょう)すべてのものにはことごとく仏性がそなわっているという教えがある。すべての人間のみならず万物が平等であるという思想なのである。
 悟りをひらくことの第一歩は、何かを「権利」として要求するようなさもしい根性を洗い流すことにあるのであり、「自由」とはまさにそのような執着から自己の心身を解き放つことにある。
 …そうした立場から見れば、次の「独立宣言」の一節は、ただ嗤うべき矮小さ、そのものでしかない。
 「われわれは、次の真理を自明のものと信じる。すなわち、すべての人間は平等につくられている。すべて人間は創造主によって、誰にも譲ることのできない一定の権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、及び幸福の追求が含まれる」 
 宗教といえばキリスト教しか知らない、当時のアメリカ植民地人にとっては、これは十分に「自明の真理」であったに違いない。
 ところで、「独立宣言」を手本として作られた「人権宣言」においても、「人の譲渡不能かつ神聖な自然権」という権利には、それに見合った「神聖な義務」については完全な沈黙がある。これは一方的な義務なき権利なのである。
 一口に言って「人権」の概念は、こっそり裏側では神に頼り、神のご威光によって正当化しておきながら、それと一対となるべき「神への義務」に頬かむりを決め込んでいる、そういう代物なのである。

 人民が結束して政府を作るのは、「人権」の確保のためであり、「国民主権」のもとで人民が同意を与えたとき、はじめて正当な政府として認められる、という筋書きがある。政府がその大目的に肯かなくなったとき、人民はその政府を改廃する権利を持つという筋書きである。国家の指導者を悪玉扱いして引きずり落とそうとする性癖がギリシャの時代からあった。デモクラシーとはその性癖をイデオロギーとして掲げる運動なのだ。人権はこの運動の原動力として使われている。

 わたしたちには権利があるという発想は、本来は知恵を出し合って解決してゆかなければならない問題を、権利を主張しあうことでいたるところで単なる闘争に変えている。権利の概念が人々の思考停止を招いているのである。
 そして様々な権利の合唱の果てに、「絶対的恣意的権力」の幻だけが残って、結局は国家や大企業が悪者である、という気分のみが漂うことになる。
 「人権」の呪縛を断ち切ったとき、はじめて我々は本当の「国民のための政治」を考える出発点に立つことが可能なのである。




----以上、民主主義擁護の立場からではなく、著者の言わんとしたことにできるだけ忠実に要約したつもりである。言葉遣い・引用は原文そのままではない。孫引きには適しません。

第一章 「いかがわしい言葉」デモクラシー
第二章 「われとわれとが戦う」病い
第三章 抑制なき力の原理 国民主権
   国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
   惨劇を生み出す原理--国民主権
第四章 インチキとごまかしの産物 人権
   義務なき権利
   独立宣言のインチキ
   革命のプロパガンダとしての人権
   人権 この悪しき原理
   とどまるところを知らない「人権」の頽廃
結語  理性の復権

ー 完 ー

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