「この子らを世の光に」
糸賀一雄という知的障害者支援に関わった先達の言葉です。「この子らに」ではな
く、「この子らを」になっているところに、この人の深い人間性の洞察力を感じます。
さて、僕が知的障害者の関わったとき、この言葉に何度励まされたかしれません。
この見方、宮沢賢治が「どんぐりと山猫」という童話の中で、背比べするどんぐりた
ちに山猫が言う「この中で一番偉いのは、最も格好の悪いものだ」(例の如く原文の
ままではありません)というテーマに響き合うものがあります。
格好が最も悪いかどうかはともかく、知的障害者を支援しようとすると、逆に、支援さ
れてるような不思議な感覚を味わいます。障害者の人は、まさに光でした。それが僕
の介護の日常でした。
介護論を書いたと、前の記事で書きました。中身は、そのような介護の日々です。
原稿用紙で400枚と言えば、新書の分量です。
(介護論として何を書いたの?)と好奇心をもたれても当然かもしれません。
しかし、内容として、上のテーゼ以上のことを書いたわけではありません。
全然、目新しくはないのです。だから、日の光を見ることのない介護論であっても、
惜しくはないです。好奇心だけ持たして、後は知らん振りというのは、あまり好きで
はありませんので、念のため言い添えておきます。
糸賀一雄という知的障害者支援に関わった先達の言葉です。「この子らに」ではな
く、「この子らを」になっているところに、この人の深い人間性の洞察力を感じます。
さて、僕が知的障害者の関わったとき、この言葉に何度励まされたかしれません。
この見方、宮沢賢治が「どんぐりと山猫」という童話の中で、背比べするどんぐりた
ちに山猫が言う「この中で一番偉いのは、最も格好の悪いものだ」(例の如く原文の
ままではありません)というテーマに響き合うものがあります。
格好が最も悪いかどうかはともかく、知的障害者を支援しようとすると、逆に、支援さ
れてるような不思議な感覚を味わいます。障害者の人は、まさに光でした。それが僕
の介護の日常でした。
介護論を書いたと、前の記事で書きました。中身は、そのような介護の日々です。
原稿用紙で400枚と言えば、新書の分量です。
(介護論として何を書いたの?)と好奇心をもたれても当然かもしれません。
しかし、内容として、上のテーゼ以上のことを書いたわけではありません。
全然、目新しくはないのです。だから、日の光を見ることのない介護論であっても、
惜しくはないです。好奇心だけ持たして、後は知らん振りというのは、あまり好きで
はありませんので、念のため言い添えておきます。
全然、目新しくはないもの。さらっと言われますね。
全然かかわった事のない者にとっては、惜しい物だと思います。
障害者の人は、まさに光。これはどんなに本を読んだところで、どんなに感動したところで、実際にふれてみないと本当のところはやはり解らないものなんですよ。
だから携わってきた方たちは凄い強みだという所以です。世の人たちにかかわりを持ちたいと思わせることが必要なのだと思います。
一例をしゃべります。
目の前に、自分の耳をばんばん叩いている人がいたとします。怒っているのは、顔の表情を見て分かります。
obichanさんならどうします?
腕力で自分が勝るなら、腕を摑んで、叩かせないようにするでしょうね。
しかし、相手のほうが自分より腕力が強ければどうします?
腕力を行使する対象として、obichanさんは、自身の耳を差し出されるのではないでしょうか?
また、障害の現れ方って、自傷他害の形ばかりとは限りません。発作の形を取ることもあります。大発作、目の当たりにすると慌てますよ。
利用者の顔がみるみる土色になって、遺体の如くなるんですから・・・
でも、悪いことばっかりではないわけです。
(発作や~)が日常用語になり、息を抜きやすくなります。また、自傷行為の激しさに、全身全霊で接することの喜びを教えてもらえます。
自傷より他害の方が人間の行為としては自然です。そう考えて、利用者の暴力行為があった場合、僕は喜んで自分の身を捧げてきました。
知的障害者を中心にした生活をしていると、普通の人間の序列の関係など、崩れます。純粋に愛情だけが頼りの世界が開けます。
い心地がいいんですよ、これが!
僕が知っているのは、大体そんなところです。