この動画を見て、
意外な
武田さんと僕との共通点を
発見しました。
すなわち、ブログを書くに際して
著作権を放棄している点です
(検証のため、
僕のブログ記事を引用したり
転載する場合は、
クレジットはつけておいて欲しいというのは、別論)。
ただ、理由が
ちょっと違います。
彼にあっては、
知識に対する寄与度の小ささから、
「これは俺のものだ」
と言えない
ということを根拠にしてます。
僕の方は、
「共有知」を
形成したいという
野心からです。
どういうことかと言うと、
ジャーナリズムを
活性化するには
どうしても「共有知」は必要不可欠と
思います。
3・11のとき、
ある方が
もし、原発事故が起きた場所が
イギリスならば、
ジャーナリストがすべてを解説してくれるのに――
とぼやいていらっしゃいました。
つまり、日本だと、
専門的知識が必要なとき、
学者が
それの説明を行うのです。
イギリスだと、
ジャーナリストが庶民と学者の仲介をするんです。
小保方さんが
イギリスの「ネイチャー」という雑誌に
論文を提出しましたよね。
後に
撤回しましたけど、
それが騒ぎになるほど、
「ネイチャー」
という雑誌に権威が与えられている証拠です。
しかし、ネイチャーを支えている人間を
幾ら探っても
専門家、すなわち、学者は出て来ないです。
これって、
すごいことだとおもいません。
ジャーナリストなんて、
所詮素人なんですよ。
その素人がイギリスでは
壁を乗り越えてるってことです。
これ、
正直言って羨ましいと思いました。
こんな風に
素人が専門分野を語る文化があれば、
学者の隠ぺいや
ごまかしは成り立たなくなるでしょ。
それで、
どんな風にすれば、
こういった学者と庶民を仲立ちする
ジャーナリスト集団を養成できるのでしょうか――。
その答えが
「共有知」
なんです。
知識を小さく括り、
共有化するという方法です。
「共有化」
ですからね、
小さく
括られた範囲で
著作権が
無くなるんです。
その点からの気づきで
著作権のことは
言わないでおこうと決めたわけです。
小保方さんを非難する人に僕が怒りを爆発させたのも
論文構成要素を
パーツに分けて考えて、
発明発見に直接かかわる部分と枕になる部分を区別すべきで、
後者については、
借用すればいいと考えていた
ことも影響してます。
何もかもオリジナルである必要があると言うのは、
研究者にとっては、
意味のない拷問みたいなものです。
それを認めない心の狭さに
苛立ちました。
イギリスという国は、
とことん合理主義の国です。
たとえば、
「医者」と「介護福祉士」さんを
比較した場合、
権威としては前者が上でしょ。
日本で
その関係が引っくり返るなど
あり得ないです。
イギリスでは、
“場合によって”関係が引っくり返ってしまうんです。
どんな場合かと言うと、
精神医療の
世界での薬物を処方する場合です。
日本でも
薬漬けが問題になっていますけど、
かの国では
医者に処方させない
という形で問題を克服しました。
患者としても
介護士さんが相手だと
納得のいくまで話を聞いてもらえます。
そこが大切なんです。
この発想の転換、
すごいなと思いました。
日本では
あまりにもみんなステレオタイプで、
角度を変えて観察し直してみようという発想が出にくいのですな。
著作権も
金儲けのツールとして
日本では「悪用」と言っていいぐらい
弊害がでているのではないですか。
小保方さんの話に戻りますが、
コピペが問題なら、
一度、コピペしてない論文は失格と言う
逆転の発想で
評価し直してみるのです。
そうしますと、
ノーベル賞級のすばらしい学者が
自己申告で自分の論文の
コピペ部分を告発し始めることでしょう。
そういうやり方を採用して何の支障も生じないなら、
「コピペは駄目」
というのは
意味のない束縛なんです。
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