月見そば(その3)
(令和二年1月15日)
昨日は歳徳(どんど)焼き。年末から年始にかけてのおめでたい物々や気分は炎の中に昇華し、今日から日常。ずーっと日常ですね。
さて、“日常”と、一見、対極的な“ニュース”ですが、この半月ほどでも、ずいぶん多くのニュースがありました。米による爆殺・イランによる誤爆(さあどうする福音派vsシーア派)、台湾での国民党大敗北(さあどうする一国二制度)、鉄火場に群がるカラスの捕獲(さあどうする大型財源)。どれをみても出口ない感にあふれています。不謹慎なことこのうえないのですが、どうなっていくか知りたい気持ちがより大きくなります。
ところで、多くの個人にわき上がるこの心持ちはどういう仕組みで説明できるのでしょうか?よく聞きますところでは、日常とニュースは対極的なものではなく、ニュースは、あなたの現実と他者の現実を媒介する第3項であり、この三者の落ち着き具合は大変よろしい。ゆえに、その状態を維持することで、あなたはあなた自身であることを確認できるのだというものです。何か、もう一声という感じです。それでも、今年の初めは、この一声を聞いたような気分になれました。
場所は神社。初詣に出かけた際、若い女の子たちおよび男がおみくじをひいています。
「いやー大吉、大吉」 (なんでいやーなんだ?)
「末吉、まあいいか~」
「なによこれ、凶よ、凶」
「えー、見せて、見せて」
「なにこれー、信じられな~い」
信じられる・信じられない、当たる・当たらないもありません。占いなのですから、あなたがどう感じ、どうふるまうかだけです。このとき思い出しましたのは、一昔前、新宿で大人気の占い師さん。その方はご託宣のあと、
「でもどう生きようと、ひとは最後には死んでしまうのですよ」
という一言を付け加えるそうです。聞く方もなにやら神妙な面持ちとなり、結果、この新宿の占い屋は大繁盛、はは。
“そうだ、ニュースも、たんに聞いているだけでは、同じレベルの短絡さしか持たないのだ”
「○○司令官が爆殺されました」(でもあなたは生きています)
「○○議員が収賄の疑いで再逮捕されました」(でもあなたは生きています)
「新大河ドラマが1月19日に放映されます」(でもあなたは生きています)
これは、社会とつながりが消えても、テレビさえ見ていれば、かろうじて気は狂わないよといった程度のことでしょう。しかし、わたしは、これでは少し寂しい感じがします。いずれそうなるのでしょうが、今のところ意味付けにより日々をやりくり的に過ごします。
ニュースについて言えば、早晩、ニュースの中心はオリンピックになるのでしょう。野次馬、冷笑的なニュースが多い中、何か感動できるものがより多く混じればなと期待しています。
わたしは、2006年トリノ大会の女子フィギュア個人で荒川静香選手が金メダルを獲得した演技がいまだに記憶に残ります。荒川選手は、この金以前は万年三位。ずーっと銅メダリストでした。が、雨が降ろうが槍が降ろうが三位、ぶれることなく絶対に三位を維持し続けていたのです。そして、この実績の意味するところは、トリノ大会で世界の人々に知れ渡ることになったと思います。
この競技で金銀の本命は、アメリカとロシアの選手でしたが、両選手は金を争うがために、自然、難度の高い技にいどみ減点を重ねていきました。それに対して荒川選手は無暗に技に挑まず、得点よりも自分の実力を出し切ることで、結果、ノーミスで金メダルの栄冠に輝くこととなります。首位を争う二者が競合して消耗する中、確実に自己の資源を活用して機会を伺う。これは荒川静香戦略として、いろいろな競合モデルの実例として使えるのではないでしょうか。この戦略には発展性がないという方もおられますが、負けた人は消えていくので充分に発展的かと思いますし、発展、発展と唱える声の中には、発展したいなという気持ちの逆形成みたいな、占いみたいな響きが聞こえます。
もちろん、荒川静香戦略の重要なポイントはいかなる場でも実力を出し切ることができるということでしょう。武道の奥義では平常心というものを重視するそうです。すなわち、
“基本技が最も強い。そして基本技を出し切れるかどうかは平常心である”
というものです。度胸がいかに大事なものかと感じさせられます。また同時にこの域は、観念論では到達できない実践の域で、それゆえ、多くの物事には出口論が少ないのかなとも思いました。
今でも、荒川選手が平常心で挑んだ演技を思い出します。たとえ点数には加算されなくとも、通常の練習でやっていたからこそ通常通り実行したイナバウアー、例えは悪いのですが、五目うどんの薄切りかまぼこがしなるような端正なさま。月見そばのように、見た目は月ですけれど、いざ食べるときはぐっちゃぐちゃにならざる得ないのに比べ、実に美しいではないですか。
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さて、食べるときにぐっちゃぐっちゃな月味そばについてですが、わたしはあの日空港で、
《月見そば-生卵=かけそば》
という恒常式の中の、どこに価格設定をし、どう合意を得るかについて悩み、悩みつつラウンジへあがるエスカレーターで、カルロスくん(仮名)を見かけたところまで書きました。
カルロスくんは原色が混じったあげく灰色になったかのような表情で、銀と黒のリモアを曳き、それこそ強引に、リモアを前後してエスカレータに乗り込みます。
“わ、あぶねぇ”と思いましたが、案の定、銀リモア‐カルロスくん‐黒リモアの順に仲良くバランスを崩します。
「ウワォーッチ!」悲鳴をあげるカルロスくん。
次に、銀リモアはカルロスくんの上に、銀リモア及びカルロスくんは黒リモアの上に重なります。
「シュワーッチ!」
激しい苦悶の表情でエスカレーター上を回転するカルロスくんたち。まるで、ハムスターと積み木が同じ回転輪で回っているかのようです。しかし、エスカレーターは無表情に上がっていくわけですから、彼らもそのまま上っていき、すぐに天井のひさしに隠れて見えなくなりました。
その一二秒後でしょうか、いきなりエスカレータの上から我々の視界に、銀リモアが弾丸のように滑り落ちてきます。
“うわぁー”
しかし、流石は空港ですね。そんな方は多いと見えまして、エスカレーター乗り口手前には太くて頑丈なポール様が設置されています。憎悪めいた速度でポール地蔵に激突するリモア。その音こそまさに、
“ゴーン”(可笑!可笑!)
わたしたちは、しばし呆然です(当たり前だ)。みな、激突したてのそれを眺め、次に、そういえば昇天したカルロスくんはどうなったのかと思い、みなエスカレーターの方を注目していたのです。
しばらくして、カルロスくんは、黒リモアとともに、下りエスカレーターに乗って降臨してきました。さきほどの苦悶の表情など微塵もなく、あの灰色の顔つきです。そして、我々のフロアに降り立ったカルロスくんは、日本人なら見せるであろう、羞恥や斬鬼の振る舞いなど全く見せず、堂々としたままリモアを立て、エスカレーターには一瞥もくれず、堂々とエレベーターの方へ去って行きました。
“あれまー、ずいぶんとずいぶんだわ”
多分、あの場にいた日本人はほぼ同じ感想・呆れ顔をしていたのではないでしょうか。
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その一件があったからでしょう。ラウンジで考え込んでいたわたしは、いきなり、ある聞いた話を思い出しました。“ハロー”しか喋れない日本人がニューヨークのスラムを歩いていてチンピラに因縁をつけられ、ぼっこぼこにされたそうです、しかし、彼に喋れる英語はハローのみ。殴られながら“ハロー、ハロー”と叫び続けていたら、チンピラたちは変な顔をして彼を解放したそうです。もし、彼が生半可に英語が喋れていたならどうなっていたでしょうか?多分、彼は刺されるか、撃たれるか、さらにひどい災難に見まわれていたのではないでしょうか。
“「出口論も考えて説明してきてね」って、出口論って何ですか?”
“つまり、ぼっこぼこ。喋ってぼっこぼこ、叫び続けてぼっこぼこ。前者を託されたわけね”
“いらねぇ、言い訳なんかしねぇ。そもそも俺はハローしか喋れないんだ。”
そう、どんどん腹が立ってきました。悩むより怒れ、自身よ、自心よ!
わたしたちの日常のほとんどは、この身と心の折り合いをつける、自身の存在の同一性を保つことに費やされています。さまざまな経験は間違いなく断片でできています。見たり聞こえたり、沸きあがる衝動などは各々ばらばらです。また断片ならまだしもわたしたちは自身の背中や、自身を包む普遍性(魚にしてみれば水)を見ることはできません。身体は知覚されるより先に、幻想されるのです。思惟とは身体の延長以外ではないとしたならば、悩みは本質ではなく幻想です。
“幻想だ。俺は何か勘違いしているんだ”
“普遍性?魚と水?・・・”
そしてわたしは気が付きました(開き直りました)。
“かけそば、ざるそば、天ぷらそば、そして月見そば、いずれも普遍性は蕎麦だ”
“ああそうか、蕎麦屋であることが幻想だ。生半可に蕎麦屋ですと言うから、蕎麦概念の端から端まで走り回るんだ”
“それならば初めから、月見そば以外の選択肢(品質、価格、ケア)がなければどうなるのだろう?”
“そうだ、そうだ。その世界ではかろうじて認められるオプションは、「生卵抜いてね」ではないか・・”
よし決めた。
「おおそうよ、俺は今日から月見そば専門店だ。他者が何と言おうと俺は月見そばだ。一生、月見そばを出し続け、言い張るのだ!!」
そして、この暗い情念にも似た決意を試すかのように、今、搭乗手続きは始まります。
今日の夜、任地では月がでているでしょうか。できれば満月が良いですね。これから、ずーっとお付き合いできるような満ち満ちた月が。
(月見そば終わり)
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