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ダウン症児の超早期教育を受けて短大卒後後就職した娘の小学生時代

2023-05-27 14:17:51 | 日記

小学校に入学してからは、教科書があって、それに沿って行くわけですから、今までのように先は何かと考える必要はなくなり、その点は楽になります。けれども別の大変さが出て来ます。幼稚園時代に砂場から動かなかった電話をして、様に、トイレに籠ってしまいでてこなかったり、その為に一学年上の長女が、迎えに行ってくれたり、自宅に電話が掛かってきて、自宅から近かったので私が迎えに行ったりしました。娘は、新しい環境に直ぐに馴染めず、しゃがみ込んで返事をしなかったりするので、その姿はとても遅れて見えるので、先生も、何で普通級にと思われる訳です。それに対応する為、仲良くなってくれたクラスメートをうちに遊びに来てもらったり、夏休みには、泊まりに来てもらったり、蛍を見に行ったり、一緒にキャンプに誘ったりしました。そんな訳で夏休みを過ぎると何とか先生やクラスに緊張せずに過ごせるようになるというのが、クラス替えごとにありました。特に大変だったのは、3,4年の頃でクラスメートがやんちゃになり、首を絞める真似等、ふざけるのが、度を過ぎてしまったり、先生が娘を信じてくださらなくて、トイレに脱ぎっぱなしのパンツを娘のではないかとおっしゃったりした時期には、現実がつらいと夢想するようで、約束をしてないのに友達が遊びに来ると話したりしました。いつも困ったときには、直ぐにクラスメートの親御さんに電話をかけて大事にならないように対応しました。勉強の面でも大変で、特に算数は、早期教育で、褒めて伸ばすという事を学んでいたのに、仕事との両立で、寝不足で、ヒステリックなったりしながら教えてしまっていました。バイトで、小学生の帰り道に学研のチラシを渡す仕事をしていたのですが、他の小学校の生徒はありがとうございます。ともらう子もいるのに、娘たちの小学校では、紙吹雪のように粉々に破かれたチラシが大量で、やんちゃな子が多いなと思いました。その為上履きが、池に投げ込まれたり、バカと言われたりしました。その都度長女が拾ってくれたり、バカという子は自分がバカと書いた紙をその男の子の背中に貼ってくれました。5,6年になると初めて親友が出来、やっとトイレに籠らなくなりました。娘からその話を聞いた時、にわかには信じられませんでしたが、一人は日本人の女の子で、一人は、中国人の女の子でした。その中国籍の子は、高校で転居した後も転居先に遊びに来てくれたり、成人式の時に誘ってくれたりしましたが、娘は、いじめられた記憶のある横浜市の式に出るのは嫌だと、知り合いの誰もいない平塚の式に一人で出たのは、忘れずに誘ってくれた友達のことを考えると少し残念でした。何故色々あったのに普通級から頑として動かなかったかというと娘が幼少期に、アメリカの大学に進んでいるダウン症の男の子を見て自分の子供もと、夢見たからです。又、特別支援級があったのですが、そこが幸せとは思えなかったし、というのも、1人のダウン症の女の子は直ぐに人を押して来ると長女が言うのです。ダウン症の子は真似しやすいので、多分いつも誰かに押されているのだといるのだと推測しました。又、校庭に座ってパンを食べていても誰も注意しないと言うのです。いじめられはしなくても、特別視もつらいと、思いました。長女は、休み時間に支援級に行き、黒板の算数の式の答えを教えて直していたようです。又、普通級から支援級に変わったとたん、書けていた文字をどんどん忘れてしまうとあるお母さんが言っていました。使い続ける環境を与え続ける事が大事なのだと思います。又、私の読んだ記憶によると、間違っていたら申し訳ありませんが、アメリカのケネディ大統領のお姉さんが、知的障がい者で、そこから色々な研究がされ、法律も変え、早期教育、超早期教育が始まったと聞きました。頑張れば夢が叶うとその時、大学入学が夢になりました。次は、中学時代の事を書きたいと思います。

 


ダウン症児の超早期教育を受けて短大卒後、就職した娘について

2023-05-25 14:59:37 | 日記

先程、養護教育センターのことを、児童相談所と書いてしまったことを、訂正したいと思います。パソコンが苦手なため、本文の訂正が判らないためここで訂正します。

それからその前に書いた文が入っていなかったため、前後しますが、書きたいと思います。

読み返してみると、早期教育で、久里浜の国立特殊総合研究所の超早期教育について書いてないことに気付きました。こども医療センターの先生から紹介され、0歳の時から通い始めました。おもちゃの沢山ある部屋で先生がその中から、幾つか選んで遊んでんで

くださるのを眺めるというものでした。その部屋が時折、小さなゴムのボールが一杯入ったプールの様な部屋だったり、外でトランポリンだったりしました。私は、超早期教育というと何か特別な事があるのではないかと思い、次は何か特別なことがと思い、何回かボーっと眺めて過ごしてしまい、何回目かでやっとおもちゃで遊ぶのが超早期教育だと気が付いたのでした。前のところで書いたように自発的に行わせて、手伝ってやり遂げさせて、達成感を味合わせ、褒めて伸ばすというものでした。一度缶の貯金箱にコインを入れることが出来る様になったとき、先生が缶を回して、手を回さないと入らないようにしたことがあって、いつもその子にちょっとだけ難しいこととは工夫だなと気づきました。

今度6月にあおいちきゅうという童話の本を出版する事になったのですが、その作者の自分のプロフィールのところに、ダウン症の次女は、ダウン症児の赤ちゃん体操、超早期教育を受け、短大卒業後、就職と書いたので、それを読んで超早期教育の事を知ってもらい、このブログを見て一人でも多くの人が試みてもらえることを祈っています。本当に途中大変なことは多いけれど、例えば痛いところが何処でどの様に痛いかいいと思うし、自分で行きたいところに一人で行き、好きなものを買える自由があったほうが楽しいし、兄弟も背負うものが少ないし、親もとても楽だと思います。初めに大変な事を選び、将来の楽を選んだほうが私はいいと思うのです。

勿論個々の家庭環境があるし、差もあるので一概には言えませんが、自分の子供より軽度だと羨ましく思った人たちがいらしたので、能力だけではない様に思います。普通級から支援級に移ったら字を忘れていくという話を聞いたことがあるので、私たちが英語や、数学を忘れるように、使い続ける事が出来る環境を与える事が大事なのではないでしょうか。

勿論大変な事を通り過ぎてチンプンカンプンでは、意味がないので、そうならないための早期教育なのだと思います。この早期教育は普通の子供にも言えると思うし、年齢が過ぎていてもそこからの発達を進めることが出来ると思います。

 

 


ダウン症児の超早期教育を受けて短大卒後仕事をするまで

2023-05-25 11:02:35 | 日記

青い鳥愛児園から、後に横浜市南部療育センターに移られた故高口先生は、早く子供を育て上げ、自分の好きなことをしたいとか、伸びていてこのまま普通と変わりなく育っていくのではないかと、自分に甘く考えていた私に、講演で子供を育てることは大変だ。ましてや、障がい児を育てることはもっと大変だから、覚悟しなければならない。とお話になり、改めて覚悟を決めた一言でした。又障害を特別視する事を怒られて、性格の一部のように考える様におっしゃいました。例えば、娘を乗せる自転車の前の椅子を、特別高額の椅子にした方がいいかと尋ねた時に𠮟られた事を覚えています。又、赤ちゃん体操を、スキンシップのように微笑みかけながら行うようにと、おっしゃっていました。

久里浜の国立教育総合研究所の先生は、前に書いた様だったためかちょっとだけ難しい事を溢れさせ、その子がそれに手を伸ばした時にちょっとだけ手伝ってやり遂げさせてあげる。という事でした。強制ではなく、出来たという達成感を味合わせ、褒めて伸ばすという事です。又ある時、遺伝科の先生が、ダウン症の子供は、計算が苦手だから、今は電卓が有るから、無理をさせる必要はないとおっしゃったと伝えたときに、両方出来ればもっといいですよねとおっしゃったことです。ダウン症の特性として低緊張から、言葉の遅れや、運動面での遅れが有りますが苦手でも諦めずに続けさせることによって、今自分の娘は、スポーツジムでエアロビクスの様な教室に出ていますが何とか続けていられるのはやり続けたからだと思います。

又、横浜市の児童相談所でのダウン症の超早期教育の先生は、ご自身がアメリカのオレゴン大学のダウン症乳幼児のステップ指導の本の訳者のお一人だったためか、池田由紀恵先生の講演を行ってくださったり、とても早期教育を熱心に行ってくださり、よく覚えているのは、口の筋力トレーニングのためか、スルメや硬いお煎餅を食べる様に言われたことや、口の周りに蜂蜜などを塗り舌の運動をする様にいわれたり、舌を出しながらべろべろと舌の運動をする様に言われたことです。又、幼稚園を決める時に、そこの園児が輝いていたからと答えたときに、そういう目を持つことが大事とおっしゃった事です。

 

 


ダウン症児の超早期教育を受けて短大卒後仕事をして居る現在まで

2022-08-12 17:08:31 | 日記

パソコンの調子が悪くて暫く書かなかったのですが、何故超早期教育が大事なのかというと、先に進めて幼稚園、小学校行き慣れた行き慣れた出来る様にしておく為だと、私は思っています。障がい児を、普通高校に入れる会みたいな会があって、親がついて行って行かせる様な話を聞いた事がありますが、そのいる場所がつまらなく、チンプンカンプンでは、意味がないと思うのです。その為に発語が遅くても、字を読むことで発語出来る様になったりして、何とか娘は幼稚園時代に童話の本を読んでいたのですが、先さきの努力を工夫してやり続ける事が、つまり、0歳から3歳まで、次は、3歳から小学校入学までと、大事になると思うのです。小学校からは、授業があるので、それに沿って行えばいいので、工夫する努力は、それ程では、なくなると思います。兎に角、成長を喜び、褒めて本人のやる気を伸ばす事です。そのたった数年が将来を決めると思い、敢えて超早期教育を受けてというタイトルにしたのです。勿論小学校に入ってからは矢張り、又別の大変さはあるのですが、普通高校専門学校卒業後、銀行に長く勤められたダウン症の先輩のお母さんは普通の兄弟の100倍教えたと、おっしゃっていたのですが、私はそこまでではないのですが、家計のために、やむなく幼稚園の後半から、早朝や夜間自宅で出来る仕事をしたのですが、いつも子供優先で、睡眠時間を削って仕事をしていました。その為寝不足で少々ヒステリックになることもあり、反省しています。家は散らかり、その為子供達が今でも片付けが苦手なのは私のせいだと思います。けれどもいいこともあり、仕事を一生懸命頑張るのは、頑張る背中を見せたからかなと、思います。書いたかもしれませんが、小学校入学前に、養護教育センターでの進路相談があります。そこで進められるのですが、ダウン症の子供は特に自分の娘は、人見知りが激しく、行き慣れた場所だったので良かったのですが、実際より重く見られてしまうので、そこで普通級を進められなくても、親が強く希望すれば行けるそうです。私の娘の先輩はそうして、普通高校まで進学しました。勿論その為には、授業についていけるだけの力と、これからの上手く教える努力が必要です。例えば書いたかもしれませんが、習い事は公文、お絵かき、習字、ヤマハの幼児教室等、幼児教室は大変だったので二回繰り返し、その後自宅にピアノの先生に来ていただきました。公文は数の概念が苦手で今でも指を使って暗算しているぐらいで、暗算のところから進まないと困るので先生に相談して、いつも授業と同じ所をやっていただきました。他に一人で買い物に行く練習、自転車縄跳び様々です。又幼稚園のお友達や、長女の幼稚園のお友達に遊びに来て貰うとか。その時一緒に遊べなくても後で真似して同じ事をしているので、大丈夫です。真似してのびていきます。次からは本当に小学校時代を書きたいと思います。

 


ダウン症の娘が早期教育を受けて、短大卒後仕事をしている今まで

2022-06-30 16:46:05 | 日記

書き忘れたのですが、幼稚園入園前、横浜市の新杉田にある、南部地域療育センターにも通い、青い鳥愛児園から赤ちゃん体操の高口先生が移られて、そちらでも指導して頂きました。又、何人かで、1クラスの通所保育があり、親子で通いました。確か週1回だったと思います。それらを経て幼稚園の年少クラスに入園出来、通い始めたのですが、童話の本を読むことは、何とかできても、言葉がまだ、少なかったので先生にはご迷惑を掛けたと思います。泥んこ幼稚園で、畑で野菜を作ったり、ヤギなどがいる素敵な幼稚園でした。年中組の時は、ダウン症の子は頑固な子供が多いと言いますが自分の娘も砂場から動かずに迷惑をおかけしました。近所に同じ学年の女の子がいたので毎日、楽しく遊び、又、幼稚園の、長女の同学年のお友達や次女の同学年のお友達に遊びに来てもらい、にぎやかでした。できるだけの習い事をと思い、ヤマハの幼児教室や、公文にも通わせ、幼稚園の中で放課後行なわれていた絵画教室や、習字も習いに行かせました。ただ、ヤマハ教室は少し難しかったので、同じ所を繰り返し、その後は自宅に来て下さる先生にピアノを教えて頂きました。運動も三輪車から、補助輪の付いた自転車へと、進みました。初めてのお使いで、近くのパン屋さんに行かせたり、急にではなく、ステップを踏んで出来る様に進めていきました。けれど、お友達の力が大きいと思います。幼稚園後遊びに来てと声を掛けて、預からせてもらうように努めるのがいいと思います。又団地時代から猫は飼っていたのですが、幼稚園の行き帰りに犬をなで、飼いたいと言うので猫と暮らしていた3歳のシェットランドシープドックをもらい飼い始め、賑やかな毎日でした。生まれてから、幼稚園に入る前は2週間に1回は病院に行っているほど、風邪などかかりやすかったのですが次第に元気になって、その後小学校時代は本当に元気でした。次は小学校時代を書きたいと思います。