所在地 島田市岸2012番地
縁日 8月15日 2月15日
前編が2万5千字にも及び、オバーフローしましたので、「続 如意吉祥 大日如来」とします。
現在では、グーグルマップなどという便利なものがあるのですが、この所在地番で検索すると、途轍もなく広い範囲が表示されてしまいますので、島田市岸町412番地、島田信用金庫電算センターで検索し、裏山が大日山です。大清堂と表示される所です。
前編では、岸の大日如来の由来、私たち地元の人々がどのように守り伝えて来たか、今般の予期せぬ”総代就任”を機に思いを致すのも大日如来のご縁なのでしょう。奇しくも今年は、申年にあたります。羊・申の干支の方々には守り本尊でありますから、とりわけご利益がございましょう。8月15日の縁日には、是非おいでませ、岸の大日如来へ。
祭の支度と勧進
8月15日の秋の例祭(夏祭)に向けて、当番組、世話人の皆様ご苦労様です。
勧進といえば「勧進帳 安宅の関」が思い出されます。義経記では有名な場面ですね。武蔵坊弁慶が白紙の勧進帳を巧妙に読み上げ、その情にほだされた代官が、これは義経主従ではないということにして安宅の関を通過させたという物語です。こういう話は、日本人が大好きです。何度聞いても飽きない。
ワンパターンが永く続いたのが水戸黄門漫遊記、結末は分かりきっているのですが、いつ印籠が出てくるかにワクワクするのです。
勧進とは本来の意味は「物乞い」ということなんだろうけども、「おねだり」では気が引けます。酒を「冥加湯」と言い換え、敗戦を「終戦」という類の言い回しでございます。
勧進の口上 岸大日山夏祭り ご献発、ご献灯、ご献金のお願い
拝啓
平安時代(900年頃)より、この地域の人たちが一千年余、世の栄枯盛衰を越えて頑なに守り継いでまいりました弘法大師作と伝えられる大日如来の秋の例祭が8月15日例年通り執り行われる運びとなりました。この大日如来は”子供の守り本尊”と言い伝えられてもおります。
この祭典では、花火を奉納し、提灯を掲げて心願が成就し諸難が消滅するよう主催者、参拝者ともども”如意吉祥”を祈念いたすのでございます。
つきましては、この祭典を更に盛大なものとして頂きたく、みなさまのご献発、ご献灯、ご献金を賜りたくお願い申し上げる次第でございます。
尚、煙火打ち上げに際し、番付表を作成し号種、芳名を呼称披露しつつ献発致します。併せて献金者の芳名も記載し、町内全戸と勧進者に配布して、そのご厚意に応えます。また献灯された提灯は芳名を記し参道に掲げます。
敬具
平成28年5月吉日
島田市岸町 岸大日山総代会 一同
大清堂
この建物は平成19年4月 岸町出身者である河村 清氏の寄進により建築されたものです。石碑を建てそのご厚意を末永く顕彰しております。この地に生まれ暮らす者として心より感謝申し上げたい。
現在、この地を離れて三重県にお住まいの方ですが、大日山は、幼い頃、その境内でよく遊び親しんだ場所として、記憶に刻み込まれた”心のふるさと”とのことです。いつまでも、ご健勝であられますように。
故原田昇左右衆院議員が建てた碑(衆智開天地と蒙額されています。多くの人の智恵が天地を開くということなんだろう。志太平野開拓の歴史に心寄せたものか?。背面に文章が勒されているのですが、急傾斜地に建てられていることと、刻みが浅くて読めません) 次の画像は、本堂再建当時に、野ざらしだった石碑をまとめて屋根をしつらえたもの。神猿(まさる)あり、ボケ封じ地蔵ありです。拝む対象には事欠きません。境内には、この他に、仁王堂の西側に二基、山腹に光つ安全を祈念する目的で建立された観音像があります。
今日は6月4日、来る8月15日の秋の例祭のための勧進にお応えくださった方々、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
今年はどうも天候不順ですね、一昨日でしたか、関東では霜が降りたとかニュースで流れておりました。冷夏が心配されます。「寒さの夏はおろおろ歩く」などということになりませんように。
”雨にも負けず” 宮沢賢治詩
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きしわかり そして忘れず 野原の松の林の陰の 小さな萱葺きの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 東に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしはなりたい
・・・・・まあねえ、こういう人になっちまったら、たいへんである。親としても心配になりましょう。しかし、”こういう人の心根”の”万分の一”は持ちたいものだと思います。特に政治家には、求められる素養ですよねえ。
この2枚の画像はグーグルマップを写したものです。1枚目が志太平野、2枚目が大津谷川、伊太谷川の合流点の写真です。
前編で書き残したことを追稿しておこう。
大井川の水かさが増した時には、神座あたりから勢いを増した水流は天然の堤防、牧之原台地(権現原)で向きを変え、白岩寺目がけて蛇行します。これは地勢的に避けられない自然現象で、更に大津谷川と伊太谷川の濁流が合流するとなれば、もうお手上げです。即刻逃げ出すしか手段がない。これが古来、この地に住む人の日常でありました。どれほど洪水とは無縁の日常でありたいと願ったことでしょう。現在に至る治水設備が完成したのが昭和7年でした。
私は、昭和24年生まれで、平成28年現在時点で67歳ですが、昭和34年或いは35年でしたか、栃山川が決壊して、東光寺谷川右岸からJR東海道本線の間の地域で床上浸水したのが記憶に残っています。国道一号線が川のようになりました。阿知ケ谷の材木屋の丸太が民家に突き刺さっていたりしました。
それと、昭和49年でしたか、東光寺谷川が氾濫して、その右岸では床上浸水に至った所もありました。想定外の豪雨もあり得ることを頭にいれて、個々に問題意識をもって、周囲の河川をチェックしてみることも肝要かと思います。
私が、問題だと思うことは、大津谷川と伊太谷川の合流角度が大き過ぎるのではないかということです。45度近くある。阿知ケ谷側に越流する危険性大であると案じられます。・・・・・で、どうなんでしょう。浜岡の原発に衝立を構築する勢いで白岩寺からせめてJR東海道線の区間だけでも堤防を1m程度かさ上げしてもらえないもんでしょうかねえ。これは2級河川だから、管理者は静岡県ということになります。
今日は平成29年5月27日、67歳最後の日。
一年以上ブランクが開いてしまいました。
想えば、昨年の夏まつりは実に散々な目に遭いました。いざ花火を奉納しようという時に突然の局地的な集中豪雨に見舞われ、すべてが水の泡となりました。奉納花火は1週間後に打ち上げましたが、祭典関係者諸氏には2倍3倍の御苦労をお掛けしてしまったのは元より、参拝を予定していた方々もあの豪雨では如何ともし難いものでありました。今年は是非とも天気に恵まれますよう願を掛けよう。
回覧の草稿
岸町の皆様へ 平成29年4月吉日
「目に青葉 山ほととぎす 初がつを」 すがすがしい時節が到来しております。町内の皆様におかれましては、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
平成29年度初頭にあたり、大日山の運営費につきまして昨年同様ご負担いただく件、あらためて、宜しくお願い申し上げます。
大日山総代会・世話人会
津々浦々で、過疎化が問題視される昨今でありますが、幸い岸地区は多くの若いカップルが転入し新居を構え、それに伴い小中学校に通う子供たちも俄かに増えました。地域にとって、実に有難いことだと思います。
以下余談ですが、・・・・隣の家へ行って、「アンタの土地に俺の家の”地の神さん”の祠を建てさせろ」などと言えば、「オマエ、気は確かか?」と刃傷沙汰に至るかもしれません。
しかし、300年程昔、田中藩主は掛川藩領地「岸村」に田中城裏鬼門封じのためと称し、十年余手間暇かけて大日堂宇を建立し、「川原」にあったとされる大日如来を祀り上げました。それ程までにして、田中藩主は何を願掛けしたのでしょうか。 大井川下流域の膵炎開発を目論む田中藩にとって、最も重要なことは大井川の氾濫を根本でくい止める策を講じる事でした。要は白岩寺の麓から頑強な大津谷川の堤防を構築し、できるだけ南で大井川に合流させることに尽きます。併せて、灌漑用水の取り入れ口と水路を造ることでした。大井川流域の水田開発をするうえで、私たちの郷土は大井川の岸辺ですから、治水事業の前線基地だったと思います。
この治水事業は何度も失敗を繰り返し、ほぼ現在の姿に完成されたのは、実に昭和7年のことです。大日堂宇建立後220年の歳月と徒労の果てに歴代の田中藩主や志太平野の住人が願ってやまなかった栃山川治水システムが完成しました。
大日如来のお慈悲でしょうか。この事業の竣工を旧田中藩主の末裔、本田正復「ほんだまさもり」氏に見届けさせました。彼は皇室の祭祀を司る部署の次長だった人ですが、記念碑を蒙額し竣工を見届け、昭和8年没しました(享年62歳)。
岸の大日如来は、平安初期に開山された真言宗を布教するための寺「竜雲山瞰川寺」の本尊でありました。「子供の守り本尊」とも言い伝えられています。開祖は空哉律師。この寺は岸山にあって、大井川を眺望していたと思われます。
鎌倉室町時代にかけて駿河・遠江は守護大名今川氏の知行地でした。当然、当地も今川領でありました。ところが、1560年6月、桶狭間で今川義元は織田信長の不意打ちに遭い絶命しました。つぎに起こるのは当然ながら、今川領の分捕り合戦です。この事変で、岸村は遠州の武将の支配地となりました。時を同じくして、遠州可睡斎の末寺として龍江院が開山され現在に至っております。
瞰川寺は廃寺・・・・で、本尊大日如来像はどうなったのか?。その答えは、「川原の祠に安置された」です。現在、「中川原」という地名が残っていますが、そのあたりのお堂から、現在の場所に移されたのでしょうかね。近くに産婦人科医院もでき、日々新しい命が産声を上げています。「子供の守り本尊」の真骨頂といったところでしょうか。(余談が長くなりました68歳翁敬白)
町内向けの回覧は拙文であっても、これでご勘弁願おう。
次に一般向け勧進文を草稿しよう。岸の大日如来をアピールするためその縁起を簡潔に織り込んだものにしたいと思うのですが、短い文章に纏めるのは一苦労。
岸の大日如来縁起(田中藩と大井川)
「岸の大日如来」は平安初期に開山された真言密教の寺「瞰川寺」の本尊でありました。岸山に在って、広く大井川流域を眺望し、地域の安寧を見守るものでありましたが、この寺は現在では存在しておりません。しかし、本尊だけは千百年余に亘り、当地の人々が「かけがえのないもの」として、祀り続けて参りました。
江戸時代に至り、徳川幕府は水田開発を奨励しました。このような時節、弘法大師作と伝えられる左様な大日如来が岸村に在ることを知るに至った田中藩主は、1713年、岸山の登り口に、大日堂、鐘楼、仁王門を鎌倉時代様式で建立し、この大日如来を安置しました。その志は、大井川下流域の水田開発の成就でありました。事業完遂を期して、堂宇一式を建立して「大日如来に事業成就の願」を掛けたのです。
往古より、大井川は有数の暴れ川で、豪雨ともなれば、その濁流は白岩寺山目がけて押し寄せました。このような地勢故、下流域を開発するには、白岩寺山の麓から大津谷川の堤防を頑強に築き、できるだけ南で大井川に合流させる。併せて、灌漑用水の取り入れ口を設ける。これに尽きるのですが、言うに易く、行うに難しでありました。暴れ川相手のこの事業は幾度となく失敗を重ね、徒労の果て、220年の歳月を掛け、昭和7年(1933年)に至り、ほぼ現在の姿に治水システムが完成しました。
栃山川の起点にあたる水門の畔に、栃山川放水路竣工を顕彰する碑が建てられていて、読むほどに、往時が偲ばれます。この碑を蒙額したのは、本多正復(ほんだまさもり)という人です。彼は、田中藩主の正統な末裔で、廃藩置県の時の藩主の孫にあたります。また「掌典次長」という皇室の祭祀を司る部署の次長を務められました。
昭和7年、彼は歴代田中藩主が夢にまで見た治水システム竣工に立ち会い、確と事業成就を見届けました。そして、翌、昭和8年、享年62歳で没しています。
この数奇な巡り会わせは、大日如来が、堂宇を建立した田中藩主の大恩に報いた証だろうと「岸大日山」を護持する者としては、信じるところであります。
花火御献発 御献灯 御献金のお願い
8月15日は岸大日如来の縁日で、祭典と併せて、門前に提灯を掲げ、花火を奉納し、大井川流域の安寧、善男善女の心願成就、諸事如意吉祥を祈念致します。是非、足をお運びいただき、大日如来に願い事をお告げ下さい。きっと良い兆候が発現することでしょう。
この日は、月遅れの盂蘭盆に終戦の日が重なり、慰霊と鎮魂ムードに包まれます。その夕べに奉納される花火の御献発、提灯の御献灯、御献金を賜り、この祭典を一層盛り上げていただきたく、切にお願いするもので御座います。
島田市岸 大日山総代会一同
6月2日に花火の献発、献金の結果をとデータを世話人会に提出。6月11日には、花火の打ち上げの番付表の下書き作成、献金・献灯者のリストも併記。21日にはゲラ刷りのチェックと。祭りの準備も佳境に入って来ました。
8月15日縁日の花火大会で、最後に献金者御一同に奉納して頂く「大スターマイン」への添え書きを書くのも総代会の役目だそうで、頭も痛むのであるが、書けぬともいえまい。
大スターマイン添え書き口上の草稿
襟元には一条の汗、豊穣の秋へと心は弾む
知るも知らぬも集い来て、袖擦りあうも如来のご縁、和気藹々の大日の宴
愈々、大スターマイン登場、善男善女の願いを乗せて、眩しく咲き誇れ
心願成就の華よ咲け、大日如来の天空に
爺婆達が稚児なりし頃遠き途を引来奉じし鐘楼の鐘
今や孫等が群れ打ち鳴らす
その響き安寧の調べを奏で涼風に乗りて心地好し
大日如来がお膝元健やかに育て子宝達よ
・・・・私などが書いてもこんなとこ、勢いはあってもあってもセンスは無いねえ。
その他、6月中に行ったこと。
花火打ち上げ場となる岸町スポーツ広場の使用許可をロクティーに申請すること。
花火奉納当日、スポーツ広場周辺道路の車両規制を行うための道路使用許可申請と、通行規制の標識4枚の借用申請
月が替わったら、消防団へ奉納花火大会への消防車等の派遣のお願い。コミュニテー会長へアンプ等の機材の貸出依頼。交通安全部長へ当日の交通整理等の協力依頼等々しなければならない。それに祭りの準備から片付けまでの間責任賠償保険と障害保険に加入するのも忘れてはなるまい。
今日6月15日現在で、本堂の外装の塗装工事が完了する。祭りに間に合うように段取りできて良かったと思います。追って町内に報告の回覧も回さねばなるまい。
町内への回覧状の下書き
回覧
岸町の皆様へ
日頃より、大日山の運営に対しご協力いただき有り難う御座います。
昨年より、本堂の外装全体と内装の一部につき、再塗装を施す件、御周知頂いている通りでありますが、今般、その作業が完了致しましたので、報告申し上げます。シリコン系の塗料を使用しましたから、15年程度の耐用年数が見込めるものと思います。
また、この工事に伴い、屋根瓦の一部から雨漏りしていることが判明しましたので、塗装作業の足場がある内にという判断から、応急的な処置として修繕致しました。この原因は建設時に装填されていた防水のための漆喰が喪失してしまったことと、経年による瓦のずれによるものでありました。内部塗装のめくれや天井の絵の傷みは、雨漏りが原因だったかもしれません。
何はともあれ、梅雨に入る前に一連の作業が終了し、安堵しております。これで、大日堂の装いも新たに、来る8月15日の秋の例祭・奉納花火大会が迎えられます。
尚、この工事費用につきましては、前任総代から引き継ぎました河村 氏から頂いた浄財と一部総代会の会計で賄わせて頂きました。
平成29年7月吉日
岸大日山総代会
以下、余談でありますが・・・・
昭和30年のことだったと思いますが、敗戦後間もない時期で、日々の生活も楽ではなかったにも拘わらず、私たちの親或いは祖父母達は、戦時中に供出され失なった鐘楼の鐘を何とかしたいとの思い篤く、総意として新しく鋳造して、奉納したのが、現在の鐘です。
これを奉納した際の演出がとても工夫を凝らしたものでありました。岸の大日如来が子供の守り本尊という伝承を踏まえてか、分かりませんが、児童達にも重要な役割を与え、村挙げての行事に参加させたのです。稚児装束を纏わせ稚児行列に仕立てて、島田駅から遠き道のりを遥々と、鐘を乗せた荷車の綱を引かせて運ばせました。行列に加わった児童達には、歩き疲れてへとへとになった記憶と同時に、この釣鐘に格別な思い入れが残りました。
爺、婆の域に達した今、孫、曾孫と同じ年端の子供達が群れて、この鐘を打ち鳴らす様を観ると、素直に「有り難いこと」と胸が熱くなります。歳を重ねると、些細なことにもセンチメンタルになるのは致し方なしとしても、この情緒はどこから湧いて来るのかと思いを巡らすと、あの時、皆で苦心して歩いた稚児行列に思い至ります。鮮明に記憶が蘇ります。一種の条件反射なのか、幼き頃の姿を彼らに重ねて観ている。だから殊更、愛おしいと感じるのでしょう。
幼児期の感動や記憶はのちの情緒に強い影響を及ぼすものだと身をもって感じます。ともあれ、一生に一度の稚児行列は貴重な体験でした。
左様に、梵鐘奉納の儀は有意義なものでありました。今は昔、祖父母達が私達に伝えた心根とは自分たち体験を「子供達と共に致せ」こういうことでありましたか。感謝
外装塗装工事が完了した大日堂
祭典時の祭壇
祭壇上部中央に逗子が二つ並んでいますが、向かって右側には火災に遭い焼け残った像が、左側には再建の際高野山で入魂された新しい像が納められています。
大日堂天井画 島田市尾川 杉山有画伯筆
大日如来写真パネル
このパネルは昭和48年1月9日深夜未明に不審火に遭い焼けてしまった本尊の写真なのか分りませんが、パネル裏側に書かれていることは、重要文化財 木造大日如来坐像 平安時代 信仰 奉納者 藤枝市志太 中村髙文 おそらく昭和になってからの作品だと思うし、この中村髙文という方他界されている可能性の方が多いにしても、末裔の方はきっと居られると思う。藤枝市志太の中村という写真屋さん或いは余程のカメラマニアだった方、見つからないかな。冠を戴いていないけれどもすでに喪失していたんだろうか。
岸大日山のお札とお守り
2月と8月の縁日にお求め頂ける様々な厄除け開運グッズの一覧
如意吉祥、これをどう読むか?。私は「にょいきっしょう」でいいのだろうと思っていましたが、僧侶の皆様は「にょいきちじょう」と発せられております。国語の仮名使いとして間違いということでもないし、don't mindとしておこう。
今日は平成29年8月13日、縁日まであと2日。此のところ天気の塩梅が宜しくないので、15日が心配です。
yahooの天気情報によれば、14日の降水確率は10~20%で曇り、15日が降水確率30%の曇りとなっています。天気のことだから如何ともしがたいのだが、雨だけはご免被りたい。
「炎照りの時は、オロオロ歩き、寒さの夏は涙を流す」以外のことはできないのであるが、天気に恵まれたいものだ。
謹賀新年
謹んで新春のお慶びを申し上げます 島田市岸大日如来共々この一年のご多幸をお祈り申し上げます
平成三十年元旦
今年も昨年同様大日山で御籠りをしながら新年を迎えました。これは岸地区の大日山総代六名のお勤めとなっている習慣に沿ったものです。昔は、除夜の鐘を突くために鐘楼を訪れる人も大勢いましたが最近ではめっきり減ってしまいました。時代が変わってしまいましたな。御籠りしていても実に張り合いがありません。
日本のブラバン女子力について
今では、中学高校を問わず女の子たちが吹奏楽の主役となってしまった感がありますな。とりわけ九州ではブラバン女子が大活躍しているらしい。ユーチューブには様々な学校の吹奏楽部の映像が投稿されていて私も楽しませてもらって居るのですが、そのジャンルは坐位でのコンクールとマーチングコンクールに2分されているようだ。日本全国にアマチュアの吹奏楽団が幾つ存在しているか知りませんが、切磋琢磨しながら全国大会に出場するのは甲子園並みの難しさだろう。昨年、高校生でこの2部門で全国大会まで行き、2部門共に金賞を獲得した女子高が2校あります。一校は九州福岡の精華女子高、もう一校は熊本県の玉名女子高。名は体を顕わすと言われますが精華は実に華やかな音を出しますし、玉名は磨きに磨かれた玉が出す音といった感がありますな。玉名の女の子たちが楽器に息を吹き込むと木管楽器も金管楽器も素材そのものの音が出てくる。そして音程がぶれないからそのハーモニーは実に聞き心地が良い。
昨年の課題曲に「春風の通り道」という優しいマーチがあって、金賞受賞校の演奏がユーチューブにアップされているので、聞き比べてみるのも楽しい。曲の主題を風とするか道とするか或いはその情景とするか?。好みの問題でありますが、「この子達、いつの間にか風になっちゃってる」と感じさせるチームはどれかな?。ちなみに2017年金賞受賞チームは精華女子高、玉名女子高、市立柏高、東海大付属札幌高あたりか(ほかにあったらごめんなさい)。
それともう一つ、これもユーチューブからのネタでありますが、毎年元旦に米国カリフォルニア州パサデナでローズパレードという大掛かりなイベントが行われているという。その中にマーチングバンドの行進があって、米国内外から21チームが招聘されて、その素晴らしい演奏が披露されるのだ。アジア・オセアニア地域で1団体という枠があるそうだが、近年は日本から1団体が選ばれていると聞く。
今年は京都橘高校が招聘されて、遺憾なくその底力を披露したと思います。
とりわけ、昨年12月30日に行われたパサデナシティー単科大学スタジアムで行われたエキジビジョンは大変に感動的で印象的なものでした。
このメンバーの中に左足にハンデキャップのある子がいるのですが、何と主催者は、演技の前にこの子を前に呼んで観衆と共に拍手喝さいをもってこの子を祝福しました。こういう時、日本人としては、「見て見ないふり」をしてくれていれば良いのにという感情がどうしても先に立ってしまう。しかしだね、「叩かなければ戸は開かない」という宗教観を持ち能動的な国民性の彼らからすれば「ハンデをもちながらひたむきに努力している子をヒロインとして拍手喝采し、祝福して何が悪かろう」ということなんだろう。
何かその秋篠寺(この寺は京都ではなく奈良にあるのか)の伎芸天のような雰囲気のあるドラムメジャーが登壇して演奏が開始されたのですが、この学校のいつもの曲芸のような演技ではなくメリーゴーランドを連想させるようなものでした。とても愛嬌のある演奏でした。ここでは、ほほ笑ましい笑いと拍手が起こりました。この子が2曲ほど指揮をしてドラムメジャーが男性(時期音楽顧問か?)に替って、大人数での立位不動の演奏が始まるとオレンジの恐竜のぬいぐるみが登場し、旗をもってよちよちと尻を振り振り演技しながら隊列の中に入って行ったのですが、途中で躓いて転倒してしまう。すると、空かさず仲間が引き起こしに行き、立ち上がると二人の子に左右の手を支えられながら元の場所に走って戻って来る。ただこれだけのことでしたが、大変に感動しました。・・・・・なるほどね、これが京都橘高校吹奏楽部の答えなんだね。躓いても支えて一緒に連れて行くとね。言葉は無くともよく分りました。
それから、恐竜のぬいぐるみがもう一頭登場して、昨年6月にパレード招聘の旗を持って来校した会長夫妻にワルツハッピーバースデーのプレゼント。この後はソロあり飛んだり跳ねたりの演奏をして終了。
もちろんこの演奏は満場の拍手喝采、スタンディングオーベーションで称えられたのですが、その意図するところは深く観衆の記憶に刻まれたことだろう。私にしてみれば、古いパソコンであるがこういう画像が見られてとても良かったと思っています。戦後77年、日米でこのようなデリケートなコラボレーションができるようになったんですね。もう感無量ですわ。
このイベントに橘高校は2度目の参加ということで、多くの映像が要領よくアップされていて楽しませてもらえる。9キロ?にも及ぶ人垣の中を喝さいを浴びながら隊列を組んで飛んだり跳ねたりしながら演奏して行く、何とも素晴らしい女の子達と12人のガイ達だこと!。
またベネフィットコンサートのマーチングでも彼女は舞台で仲間と溶け合って自然にフルートを演奏していましたし、坐位での演奏も舞台からはみ出そうなくらいの大人数で重厚で美しい見事な演奏を披露してくれました。京都橘高校吹奏楽部の皆様本当に有り難う。
大日山新年のお飾り
KK氏の御寄進により新しくなった仁王門周辺のフェンス
KI氏作成の観音像の線香立収納ボックス
大日山総代会より岸町の皆様へ
謹んで新年のご挨拶を申し上げます
この一年の皆様方のご多幸を大日如来共々心よりお祈り申し上げます
お気づきになったかたも居られるかも知れませんが、仁王門の前のフェンスがアルミ製の立派なものに替っています。おかげで、仁王門の美観が良くなったことに加え、境内で遊ぶ子供たちの安全にも資するものだと思います。
このフェンスは三重県四日市市にお住いのKK氏が御寄進くださったものです。
KK氏のこれまでの御寄進により、平成19年2月に大清堂も建立され、また昨年の本堂の修繕塗装工事も叶いました。
このように、いつも大日山をお気遣い下さり多大な浄財を奉じてくださるご厚情に対し、まず町内の皆様にその功績を周知していただくことこそKK氏の御恩にことだと思い報告申し上げます。
平成16年11月14日に期し大日山御開帳法要が行われました。このときの総代会長だったRO氏は次の御開帳の際、参考になればとその一部始終を映像として記録しました。今般、それをDVD化されたのですが、再生機材が必要とのことで、KK氏に相談したところ、快く大型の液晶ディスプレーを御寄贈くださったとのことです。現在このディスプレーは大清堂にて保管しています。
来る2月15日の春の祭典の際に、このディスプレーとDVDの映像を広く披露したいと存じますので、是非大日山へ足をお運びくださるようお願い申し上げます。
境内の西側の山を切り取っや斜面の上部に交通事故による物故者を慰霊すると同時に交通安全を祈念する御影石の観音像が立っておりますが、その線香立を収納するボックスを支える支柱が腐食して折れてしまいました。KI氏にお願いし、ステンレス製の丈夫なものを作っていただいたことも併せてご報告致します。
平成30年正月吉日
岸大日山総代会一同
今日は2月6日、寒い寒いで終わってしまう今日この頃ですが、北米辺りでは氷点下30~40°Cの寒波が襲い凍てついてしまっているようだ。愈々氷河期に突入か?。例年だとこの時期ソラマメやエンドウ豆がすくすくと育つのに、凍りついてしまって全滅です。こんな状況が長引けば、野菜の価格が高騰してしまう。
この15日は大日如来の縁日であるが、この寒さでは参拝者も減るだろうし、例のDVDのお披露目もどうなることやら、案じられます。
平成30年2月15日、風は強かったものの、昨日までの寒さも和らぎ、とても良いお祭り日和となりました。岸大日如来のお札を貼っておきます。心願成就、諸事如意吉祥となりますように。
平成31年3月31日大日山総代任期満了。新しい総代に無事申し送ることができてほっとすると同時にとても長く感じた3年間でありました。
この3年間をサマライズすると、8月の祭典は悉く雨に祟られました。水害に備えろという啓示であるのかも知れません。最近の天候とは、降ればドシャ降り、吹けば暴風と云う具合に極端だから、うかうかして居られません。土砂崩れ、老木の倒木、河川の堤防の決壊などに備えましょう。