島田市岸の大日如来縁日 春本祭2月15日 秋例祭8月15日
大日如来の御真言 オン バザラ ダドバン
やれやれ、嵌められちまったぜ!「大日山総代」だとさ。誠に分不相応だと思う。任期3年、この際(きわ)になると、今までの3年とこれからの3年では、”きわどさ”が全然違う。とりわけ、歳はとりたくないものだ。・・・・・
この画像のふくよかなお姿は、昭和48年1月9日の不審火による火災で焼失した弘法大師空海作と伝えられた大日如来像をモチーフにしたお札である。これは、金剛界の大日如来像で、両手でむすんだ結印は智剣印(ちけんいん)というのだそうな。それと、西遊記の三蔵法師が冠っているような冠が特徴的です。次の画像は大日如来の御真言と岸の大日如来の縁起を勒した石碑。この御真言は臍から脳天に響くように低い声でお唱えください。
大日如来の由来:おそらく西暦900年頃、弘法大師三代の法孫、空哉律師、密教弘宣流布のため岸の地、奥ノ谷に子供の守り本尊として尊崇奉される。・・・・・ということである。
高野山にこの空哉律師なる人の記録があれば、決定的な史実となるだろう。この時、開いたのが、真言宗竜雲山瞰川寺という。ここを起点にすれば、”岸の大日如来の歴史”は1,100年にも及ぶ。実に50世代余の地縁に基づく地域社会が大日如来をお守りしてきたことになる。この史実はとても重い。
ここで、西暦900年前後の日本の仏教界はどんな様相だったのだろう。・・・・・素人なりに考察してみよう。
平安仏教の巨星”空海”と”最澄”を輩出した時代でした。共に支那は唐の時代に、彼の地に渡り、真言宗と天台宗を持ち帰りました。
空海(774~835)は804年入唐し、恵果和尚から密教の教えを受け、灌丁を授かり、阿闍梨”遍照金剛”となって西暦806年に帰国して、我が国の真言宗の開祖となりました。京都の東寺、高野山金剛峰寺を開きました。水脈や鉱泉を探り当てたという類の弘法伝説は、全国津々浦々、数多く残されている思います。正真正銘の”山師”だったのかも知れませんね。加持祈祷、即身成仏、そうです、彼は金剛峯寺奥の院の洞穴で入定し、今でも生きて居られるのです。没後頂いた諡(おくりな)が”弘法大師”。
最澄(767~822)は比叡山で修行後、804年入唐し、天台教を学び翌年帰国、天台宗を設立。今どきの1年留学にも満たない短さです。まあ箔を付けに行ったようなものだろう。没後頂いた諡が”伝教大師”。比叡山延暦寺といえば、後に僧兵で有名になる寺ですね。「意のままにならぬは賽の目と荒法師」と嘆いた公家はんもあらっしゃいましたな。平安京の鬼門封じどころか鬼門となりました。
きっと、良きライバルであっただろう二人の高層は、「真言宗」と「天台宗」の布教を巡って、熾烈な競争を繰り広げたことだろう。
余談になるのだが、・・・・・ 相賀川(おうかがわ)が大井川に注ぎ込む所の地名を渡口(どぐち)といいます。ここから、大井川の対岸を見ると、山が河川敷にせり出て川幅がとても狭くなっています。最近安全対策上、山を削ったようですが。・・・・ そういえば、金谷河原に住む古老が、「大昔の東海道は、ここを渡っていた」と言っていたのを思い出しました。なるほど、それで”渡りぐち”なんだと納得。渡口から相賀川に沿って相賀の谷を1.5キロメートル程上がると、千葉山への登り口がありますので、登って行きます。峠に”どうだん”というスカイペンションがあります。一服するも好しですが、営業しているか心配です。”どうだん”から800メートル程下ると、千葉山智満寺があります。源頼朝が平氏を追討し天下取りの願をかけた寺です。この寺では、正月7日には”火祭り”と称する奇祭が深夜に行われます。実は、この智満寺、天台宗なのです。この古道を下りきった所に天徳寺がありますが、これも天台宗。ここが、大津の谷の北端になります。天徳寺から大津谷川に沿って、1.5キロメートル程下った所に、大津小学校があります。学校の信号を左折し、大谷の池の脇を通って東に下ると、そこは東光寺、寺の名称が地名になっています。この寺もまた天台宗です。ここにも風変わりな祭”東光寺の猿舞”というのがあります。この祭りは寺の奥にある日吉神社のお祭りかも知れませんが。・・・・・
スカイペンション 智満寺
で、何を言いたいかというと、この地元を見る限りの話ですが、天台宗の布教の足跡ははっきりと現在でも検証できるのですが、何故に真言宗布教の痕跡が消滅してしまったかということであります。口伝による布教と文書による布教の差によるのか、エリート教育とマスプロ教育の差かあるいは布教組織体制の差か?。・・・・・この観点で言えば、伝教大師最澄に軍配が上がると思います。
平安初期の地名でいえば、大長から千葉山を超えて大津へ、大津から一山超えて東光寺へ、東光寺谷川沿いに南に下って、いよいよやって来ました”わしらが葦原郷西端の地、岸”へ・・・・・大井川が氾濫しても、まあ安全な場所ということだろう。大日略記によれば、(西暦900年頃)空哉律師和尚真言宗布教のため、この地に来る。岸奥ノ谷に竜雲山瞰川寺創立、本尊大日如来 こどもの守り本尊とある。・・・・・これ以上の記録は無いようだ。
この頃の大井川は、すこぶる荒れ狂う川でありました。一雨ごとにあっちこっちへ蛇行し、稲作ができる場所もごく限られていたことだろう。何せ本州の背骨、南アルプスを水源とし、降った雨は一昼夜で駿河湾に流れ出るといわれるぐらいだ。標高差が利用できるおかげで、その豊富な流水は、現在では「大井川用水」として活用され、袋井、磐田あたりまで田畑を潤している。
ミステリー 竜雲山瞰川寺と本尊大日如来が消えた?
1560(室町時代末期)年 庚申2月岸谷山龍江院設立 本尊木釈尊迦 開山竹堂来和尚 創建泰伝存康和尚 曹洞宗 遠州可睡斎の末寺 本堂間口八間 奥行六間半 檀家約100戸 堂前の額は天柱禅師晩年の筆・・・・・これが、龍江院開山にまつわる記録である。
(大字)岸の(小字)奥ノ谷にあり、山の中腹に位置していて大井川を鳥瞰できる。奥ノ谷=岸谷と解釈して差しつかえなかろう。・・・・・我が家は代々龍江院の末尾の方の一檀家であります。・・・・・瞰川寺と龍江院の所在が同じと仮定した場合、真言宗から曹洞宗への改宗の経過はどんな状況だったんだろうか興味が湧きます。話し合いによる譲渡か、廃寺になったので、引き受けたか全く分からない。
龍江院の開山と創建にどれくらいの時間的なずれがあったんだろうか?。開山した和尚と創建した和尚は別人だから、開山から本堂完成まで、瞰川寺をそのまま使っていたのだろうか。龍江院の本尊は釈迦牟尼仏であります。
で、瞰川寺の本尊大日如来はどうしちまったんだろう?・・・・・おそらく、記録にも残さないで、川原の堂に安置したんだろうと私は妄想する。既設の祠であったか或いは瞰川寺を移築したか全く分からない。余談であるが、こういう時は、より高いところに安置すべきものだろう。大和朝廷は大国主を地上60メートルの神殿にお祀りした、という先例がある。崇りが怖いのです。
時は流れ、江戸時代になるとキリシタン排除を目的とした寺請けが制度化され、寺は檀家を種々の面で掌握しました。幕府の行政組織の一部に組み入れられられたのです。今風にいえば、役所の戸籍課の役割を果たしました。発行したのは異教徒でない旨の証明。当時、僧侶階級は識字率100%、インテリゲンチャーでした。こういう施策を考え出した徳川家康は本当に深慮遠謀に長けていたと思います。それまで内乱の原因の一つでもあった宗教を掌握し同時に、間接的に住民の管理まで行ったのです。”外敵の侵入を許さない”、国防の手段としても画期的な方法でした。やはり徳川家康は”天下人”となる宿命を背負っていたのでしょう。江戸時代に、龍江院が火災で全焼していなければ岸地域の資料も残されていただろうに残念です。
徳川家康遺訓(久能山東照宮奥の院御廟)
大日如来発見!
1706年、突如として、大日如来は文献に現れるのです。「川原より山腹の地に大日堂を移転する。・・・・・伝伝、往古大井川溢(あふれ)し、この地荒れし折に効原に一樹の松ありし側に小童何れかよりか大日の尊像を携え来たり、花を供し置けるを、里老見て草堂を営み安置せしに、宝永三年今の堂宇造建せり云々」。・・・・・よくあるパターンの縁起話だと思います。子供の守り本尊だから、小童が携えて来たんだろう。・・・・・納得。
ともあれ、永らく大井川の川原に幽閉されていた大日如来もようやく日の当たる場所に移されました。
この普請は、田中城の鬼門除けということで、時の城主、土岐頼稔の命でなされました。原木調達以来、完成までに十数年かかる大事業でした。内、建築工事に5年を要したと言われています。実際に竣工したのは1713年と記録されている。棟梁は木原光右衛門長規とその息子義助でした。残念ながら、本堂は昭和48年の火災で焼けてしまいました。しかし、随分と匠として念を込めた建物だったのだろう。奇しくも自筆で書いた名前部分は焼けずに残っていたのだから。・・・・・この時のまま、仁王門と鐘楼は現存しています。
アップした写真は、大日山登り口、仁王門、仁王像一対、口を開いたほうが阿形、口をきりっと結んだほうが吽形です
何故に、この地が田中城の鬼門除けの地足り得たのか?。疑問を持つのはよいことだ。ここから、大井川の対岸を見ると、遠近江の国榛原郡、”谷口”、牧之原台地の東端の地、地勢でいえば大井川の谷が終わる所となります。その対岸、駿河の国志太郡側が”岸”です。島田の一部も含まれますが、志太平野はここから広がっています。
時の田中城主にとって、荒ぶる大井川を治めることが農業(生活の糧年貢米)を安定させるうえで最重要課題でした。志太平野を水田に開墾する。その要衝の地が「志太郡岸村」だった、という解釈でよかろう。だから、真言宗の最高位に位置する”大日如来”を”それ相応の堂宇”を造り、川原から迎えて安置したのだろう。大井川を鎮魂するための”瞰川寺大日堂宇一式”、ちょっとでき過ぎた話かな!。・・・・・こういうご縁だから、志太郡にお住いの善男善女は、大いに「昔がって」志太郡岸の大日さんへ足をお運びください。
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「しかし、困ったもんじゃのう。此度の大雨が五十年に一度あるかないかのものとはいえ、被害は甚大である。三つの村が全壊、人的被害もさることながら、濁流で表土を浚われ大井川の川原に戻ってしまった水田が10町歩、わが田中藩の命運はまことに大井川次第じゃな。荒れ川の治水、最重要課題である。策はないのか?良い策は!」
「されば殿、志太平野の地勢を把握することが肝要かと拙者考えまする。まず対岸の遠州側は”谷口”まで、牧之原台地という強固な自然の堤で護られておりまする。対する志太側には”白岩寺”という山がありまして、大津谷川の出口となっておりまするが、この川の取り扱いを誤ると大井川の濁流を呼び込んでしまいまする。まあ、なんですな、志太平野の喉元につきつけられた匕首(あいくち)のようなものでござります。しからば、白岩寺から南に強固な堤を築き、可能な限り南で、大井川に合流させる。これがまずもって肝要なことと存じまする。」
「なるほど、流石にわが家臣、一理もニ理あることを申すのう。さように人事を尽くしたとしても、荒ぶる大井川を鎮魂する神仏の御加護も必要じゃろうのう。何しろ志太平野の首根っこを治める話じゃ。事は重大である。」
「そのことにござりまするが、此度の惨状を調査した折、岸村の庄屋が、実は大井川の川原に彼の弘法大師がお作りになったと伝わる大日如来があると申しておりましたが、まことのものなら、この際、それをまつりあげたら、如何なものかと存じまするが。」
「なるほど、弘法の大日如来であるか、真言の加持祈祷の法力で大井川を鎮魂するとな・・・・・なるほど、妙案じゃな。・・・・・されば、藩内の武士、百姓、町人に至るまで、岸村に大日堂宇を建立する旨の触れを出し、水難から逃れるべく、領民の安寧を祈念する場であることを周知させよ。建立の場所は岸山の登り口とする。これが為の寄進苦しからず。藩主の要請による普請なれば、堂前には仁王門を配置いたせ。」
「ははー、御意」
「幕府も開墾、開墾と声高に叫んでおるし、天領の島田宿より川下の開拓については勝手たるべしとの触れも出している故、あわせて、そこもとの考案致した水田開拓の指図書にのっとって、志ある農民を募って、岸村から南に、東に、水田開拓を奨励いたせ!。」
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当時、岸村の人口は如何ばかりのものだったのだろう。龍江院開山当時の戸数が100戸、明治21年の戸数調査では160戸、人口803人とあり、120戸あったとして、一戸平均5人とすれば600人。子供年寄りを入れてこの人口では、十年余に亘る大事業を支えるのは大変な負担だったろう。ご先祖様たち、本当にご苦労さまでした。封建制度上ほとんどが百姓に身分を縛られた時代だったから、生活も楽ではなかったろうに。・・・・・大日如来への想い篤く、城主・村民心を一つにして大日堂宇は完成されました。・・・・・察するに、田中城主の号令で始めた工事とあれば、志太郡下の金ある者は金を出し、腕に覚えある大工は鑿と鎚を持ち、体の丈夫な者は鍬を持ってここに集い、協力しあって、作業にあたったことだろう。われらがご先祖たちを顕彰し頭を垂れましょう。
思い出
おそらく昭和30年(1955年)だったと思います。私が幼稚園生の時。
日本国、日本国民にとって泥沼の総力戦を強いられた大東亜戦争中に鐘楼の釣り鐘は供出されてしまいました。以後、梵鐘なしのままでしたが、戦後間もなくて、自分たちの生活もままならない状況にもかかわらず、岸の住民は浄財を募りあって、釣り鐘を鋳造しました。京都あたりで鋳造されたのか。鐘は島田駅まで列車で運ばれ、そこから荷車に乗せられ、故事にのっとり、子供たちが稚児行列で迎えるという体裁で延々と大日堂まで運ばれました。当然、私も参加しましたが、ただただ疲れた記憶だけがのこっています。このとき鐘楼の基礎も改修されました。
アップした写真は現在の鐘楼の様子です。コンパクトながら、均整の取れた佇まいです。
蛇足ですが、”岸のお大日さん”は、子供の守り本尊です。縁起では、ご本尊を”小童”が携えて来たのだから。とにかく、「子供がいなけりゃ始まらない」、これが”アイデンティティー”です。だからと言ってはなんですが、子宝に恵まれたい夫婦は、岸の大日如来に願を掛けてみたら?・・・・・たちどころに願いが叶うかもしれません。
また、これから良縁を得たい若者は、男女の別なく”岸のお大日さん”に足をお運びください。その法力により、きっと良き相手が見つかるでしょう。大日如来の智剣印にも力が籠ろうというものです。婚姻は誕生の素であります。
大日堂炎上そして再建
1973(昭和48)年1月9日未明、不審火により大日堂炎上。私はこの日、大阪から最終の新幹線こだまで浜松で降車、そこから在来線に乗り換えて、島田駅に着いたのが午後11:00頃だったと思います。歩いて帰るには距離がありすぎるので、島田駅からタクシーに乗って、帰宅するとき”大日さん”に火の手が上がっているのを偶然にも、目撃しました。おそらく付け火、この時、巷で囁かれていたことは、賽銭箱あたりがひどく焼けていたため、心ない者が箱に火のついたタバコを放り込んで行ったんだろう、あるいは、酔っぱらいの悪ふざけだったか、等々。まことに腹立たしい限りです。子供のころから慣れ親しんだものが焼失してしまった無念さを感じながら、焼け残りの残骸を皆でかたずけたのです。私も一日だけでしたが、作業を手伝いました。
あれから40年経過した今となっては、ほとんどの人が鬼籍に入ってしまいましたが、私たちの親の世代は偉かったと思います。大日堂焼失後直ちに再建計画を立ち上げ、資金も工面し合って、なんと三年後の昭和51年には大日堂を再建してしまいました。鉄筋コンクリート造りの建造物となってしまいましたが、地域としての結束力、実行力の結晶が現在の大日堂だと思っています。今、私たちの世代にそれだけのポテンシャルがあるかと自問すれば、「甚だしく心もとない」。そう思います。
龍江院の石塔の下で、父ちゃん母ちゃんたちが「おまえたち、ようやく、わしらの生きざまが素直に評価できるようになったかね。で、子はつつがなく育ったのかい、孫はいるのかい?」などと、うそぶいているのが聞こえてきそうだ。・・・・くわばら、くわばら。
まあねえ、欲を言えば、際限のないことになってしまいますが、ご縁に恵まれ、結婚して子供ができ、どうにかこうにか育てて成人させ、その子が縁づいて結婚し、更に孫の顔が見られる。これで十分と思わねばなるまい。自分たちに託されたご先祖の血が繋がったのを見届けたんだからさ。さらに、孫たちが幼稚園に入園しただの小学校に入学しただのと、時を共有させてもらい、なけなしの小遣いなどをせびられていれば、至福であります。だから、父ちゃん母ちゃんたち、是非とも、ゆっくりと、お迎えにおいで下さい。
アップした写真は現在の大日堂 再建の貢献者を勒した石碑
ここで、一服しよう。
しかし、待てよ、鉄砲伝来が1543年、織田信長が、駿河の国、遠近江の国の守護大名だった今川義元を桶狭間の戦いで討伐したのが1560年、龍江院の開山も時を同じくして1560年、これが偶然だろうか?、世は戦国時代の真っただ中の出来事である。今川領の分割が行われたのは必然だったろう。
とすると、論功行賞で岸村の領主となったおそらく遠州の武将が、敢えて、可睡斎の末寺としての龍江院を建立した。新しい統治を知らしめるためだったのか?。”政治的な着想”なんだろうけれど、そこまでしなくても、という気がしますがね。
1573年、織田信長は将軍足利義昭を京都室町から追放して、室町幕府滅亡。比叡山延暦寺焼き討ち、一向一揆武装集団撲滅、武田軍との戦いで勝利。その信長も、平安京に対峙する安土城を建設し、間もなく天下統一という時に家臣の謀反にあって敢え無く本能寺にて自害、時に1582年。・・・・・豊臣秀吉の天下平定へ、動乱の時代でした。
安土城祉 織田信長が夢の跡
それから、時を経て、江戸時代、われらが岸村はどこの知行地だったのか?、これがなんと掛川藩領だったのです。遠州の勢力圏は継承されました。その縁で”遠州の可睡斎の末寺龍江院”が存在します。
だから、「竜雲山 瞰川寺」という”寺号”を出すのが憚られて”封印”されたままになっているのか。・・・・・この辺のいきさつを明らかにする史料が出てくる可能性はなかろうが、「当たらずと雖も遠からず」といったところだろう。
こうした激動の時代、世の中の変化をも乗り越えて、とにかく大日如来像を守り伝えてきた、岸村の人々の真心がしのばれます。”弘法大師がお作りになったありがたいもの”を大切に伝えながら、この地に暮らしてきた人たちの史実はとても重い。
今川義元が織田信長のまさかの奇襲で死亡した影響は、岸村の「瞰川寺」「大日如来」にも及びました。実に不運な出来事でありました。
大井川 流れは尽きず 蓮台の影を映して ゆかりある 古き宿場も 新しい希望に満ちて さかえゆく われらが島田市
これは3年程前までの島田市歌でした。印象が暗いからだろう、どうもよろしくないということで、公募により新しい歌詞になったようですが、私はそれを覚えられない。
幕府が大井川に橋を架けさせなかった為、島田宿はおかしな意味で繁盛しました。雨が降って増水すれば、「川止め」、それが三日も続けば、宿場は旅人でごった返したことだろう。”雨降って商売繁盛”あまり人聞きの良い話ではありませんが、「川越人足」という職業の人たちはお手上げでした。”入り鉄砲出女”を監視するのに便利な所でもありました。また、幕府の財政を支えた赤石材の集散地でありましたから、島田宿から川上の大井川筋は幕府直轄の天領とされ、代官が統治しました。切り出した材木は筏を組んで、水運により島田宿に集めらたのです。・・・・・この頃の繁栄が戻ればねえ。
1枚目は岸山から撮影した大日堂、2枚目は対岸の谷口方面を撮影 3枚目は牧之原谷口付近から岸方面を撮影 4枚目は金谷原から谷口、白岩寺方面を撮影、大井川の蛇行、金谷、島田、志太平野の地勢を把握できるとても良い位置です。空気が澄んでいれば、駿河湾、伊豆半島も見えるのですが。
”目に青葉 山ほととぎす 初がつを” こういう句が瞬時に出てくる才能ってすごいですね。春の視覚、春の聴覚、春の味覚、待ちに待ったものを見事にいい当てています。ここは茶どころ、新茶が芽吹いています。
この時期の風景写真は春霞でぼやけてしまいます。
これは大津谷川の末端の放水路の写真です。田沼藩の殿様が1713年大日堂宇を十年余の歳月をかけて岸村に建立して志太平野の治水と安寧を願った灌漑システムの完成形といえよう。完成したのは1932年(昭和7年)のことである。実に219年の歳月を要したロマンスでした。今ではメインの水門が最新式のものに改修されています。通常は貯水し、増水したらゲイトを開けて大井川に放流するのですが、逆流させないよう知恵が使われて、大井川に並走させてから放流し、流水が流水を飲み込むような構造となっています。
ここで貯められた水は栃山川の水門に流され、志太平野の灌漑用水となります。陸運が発達していなかった時代にはこの栃山川は運河としても利用されました。紀伊国屋文左衛門が開拓した木屋川に合流します。また、大井川河床に作られたトンネル経由で大井川用水として榛原方面へも送られています。
この2枚は栃山川の水門と栃山川です。
これは榛原へ送る水量を制御する水門です。
この水利事業をPRするための看板、水を大切に。水は命の源。
昭和天皇がこの事業を評価なされて、侍従をこの地に差し向けなされたことを顕彰する碑。
(昭和第五年初夏暢適の候畏れ多くも天皇陛下静岡県に行幸あらせられ給ふや五月三十日を都志て特に我が県営栃山川沿岸用排水路改良事業地へ黒田侍従御差遣の恩命を給い翌三十一日浜松公会堂に臨幸の際には当放水門の模型並びに図面に対し特別天覧品として照察を垂れさせられ且これに関する申奏を委曲聴取あらせ給う乾徳洪大誰か恐よう感佩せざる者あらんや謹みて按ずるに此の盛事たる啻に当地本事業に干預する者の栄誉なるのみならず実に正に進出途上にある我が帝国農業土木界に画期的の光明を発揚せられたるものと謂うべし茲に当地青年団員諸子は克く感激に奮起して自ら其の光栄と重責とを終生に肝銘すると共に更に之を碑石に刻して普く後昆に伝え以て神州瑞穂の名をして永遠に彌榮えしめんと欲す企図洵に歎称するに余りある余威に龍駕に扈従し天顔に咫尺し奉りて感激に終始し今此の美挙を聞きて転た欣快の至りに堪えず懇請に応じ悦びて一言を述ぶと云爾
静岡県知事従四位勲三等 白根竹介 選文 志太郡六合村長勲八等 塚本蠖三 書之 昭和六年三月六合村青年団建立)
事業並びに功労者を顕彰する記念碑。旧田中藩主、大洲村の村長、大富村の村長などの名が刻まれています。
(この碑文は更に読めない。識字能力の無さと苔むしてしまっていていかんともし難いが、わかる範囲で意訳しよう。・・・・・放水路碑 旧田中藩主掌典次長正四位勲三等子爵 本多正復閣下蒙額
古来栃山川しきりに氾濫し惨害毎に至りて、被る流域の住民、困阨窮まりなく、之が防過の途を索せること切なりと雖も数次の企画ことごとく蹉跌に帰し、いたずらに痛恨を重ねること既に幾年にも及ぶ。然れども、国運の進暢の停滞にも及び国政また之に伴いて更新を加う。大正十二年政府農政革め大いに農村の振興に資するの政令を布くにならい本県当局は率先して之に着手の画策をめぐらす直ちにその改修の大計を立てたり。郷民亦翕然として奮起し協心戮力難を排し怨を解き鋭意その実現にこれ努むのち大正十五年五月県営事業栃山川用排水幹線改良の起工となり新たに巨閘を築き超渠を通し或いは河床を整え旧堤を修め日夕精勤五年を経て功課全く竣工せり。是に於いて防堤崩壊の憂いなく田畝荒廃の厄はらわれ創生幾万の宿志初めて成り後昆永遠の福祉応に期すべし、まことに聖代の恵みなり。加えて昨年五月車駕にて県下巡行なされた際に、天皇陛下は畏れ多くも侍従を差遣して審に此の放水の施設を検せしめ給う天恩優洽愛民厚生の至徳は表に光被し僻陬の稼穡爰至仁の雨露に霑う感激何そ任えん。爰に沿岸七箇町村胥謀りて石を建て聖徳仰感の微忱を表すると共に其の顛末を不朽に伝え且つ専ら干与鞅掌せる者の氏名と事業の梗概とを碑背に勒して是を記念す 云爾
維時 昭和六年四月
静岡県志太郡栃山川水害予防組合管理者 大富村長 勲七等 村松朋太郎誌 大洲村長 勲七等 鈴木辰二郎書)
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栃山という地名について、由来が全く分かりません。大津谷川が白岩寺(山)の麓で伊太谷川と合流しているのですが、どうもそのあたりから下流を栃山川と通称呼んでいるらしい、現に旧国道一号線、由緒ある一言製茶の前に「栃山バス停」があり、御仮屋に渡る橋の名称が「栃山橋」という。ひょっとして、その昔、白岩寺を栃山と呼んでいたことがあったのか?、一番説得力がある説と思うのですが、それも寡聞にして聞かない。地元の人でさえ、伊太谷川を栃山川と勘違いしている向きが多かろうと思います。したがって、上述の栃山川放水路とは大津谷川末端の放水・灌漑施設のことです。正式には、栃山川の起点は、この水門となっているようです。
どうでしょうか、栃山川沿線にお住いの方々、これら二つの石碑が示すようにこの地が、大井川水系の恵みを享受する者たちにとって、どれほど有難く、同時に非常に厄介な場所であるのかを認識し、また、父祖たちがどれほどに水害防止のために心骨を注いで来たかに思いをいたすべきではないでしょうか。
志太地区各市の教育委員会は協力し合って、この碑文の真意を咀嚼し、小学生でも理解できる文章に改めて、この石碑の横に並べて説明書きを設置していただきたいと思います。この地域特有の水害と背中合わせが日常であった歴史を学ばせる教育の場として頂きたい。そう思います。それが、後昆たる私たちの務めであります。
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急ぐべからず、或いは急がば回れ、ということだから、書いておこう。碑文の本多正復(まさもと)という方、旧田中藩主の後昆(こうこん)でありまして、廃藩時の田中藩主本多正訥(まさもり)の孫の代に当たる人です。明治政府が廃藩置県に伴い本多正訥に授与した爵位が正四位「子爵」で、その家督を正統に相続した者という意味合いです。
掌典次長とは、皇室の祭祀をつかさどる役職の次長ということで、昭和天皇がこの治水事業に関心を寄せられるきっかけを作った功労者だった方かもしれません。
とりわけ、この地の治水に御苦労された田中藩主の正統な末裔というご縁でここに登場しているのでしょう。明治6年(1873)に生まれ、昭和8年(1934)に没しています。享年62歳。
ところで、田中藩の系譜を遡ると、岸村の大日堂宇竣工時(1713年)の藩主は土岐氏でよいのですが、1700年頃、大日堂宇建立の号令を出したのは、太田資直(おおたすけなお)(1685~1705年)であったと推定されます。というのも、掛川藩主の太田氏と縁戚関係にあったため、掛川藩領である岸村での大日堂宇建立計画が叶ったものと思われます。
田沼藩主は、太田氏以後、次のように移り変わりました。
1685年(太田氏 田中にて没)1705年(内藤氏 他藩へ移封)1712年(土岐氏2代 他藩へ移封)1730年(本多氏7代による世襲)1868年廃藩。
”岸の大日如来”もまた、歴代の田中藩主が願った志太平野の治水が叶い、それを田中藩後昆が見届けてくれたことを喜んでおるのでございます。更に安寧な日々が続きますように 合掌。
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放水路堤防に植樹された桜並木 シーズンには花見に訪れる人も多いです。大日如来に見えるかな。
私は大日山の総代という立場で”岸の大日如来"について広くPRしなければならない責務があります。しかし、この地味なブログでなんぼ声を張り上げたところで如何ばかりのものなんだろうとも思っています。一人でも二人でもおとなう人あらば有り難いことであります。
岸の大日如来は子供の守り本尊、子は宝、子は鎹(かすがい)です。子供がいるおかげで離婚などという不運も回避される。そういう効能もさることながら、社会の活性化ひいては国力増強の礎であります。
「一人の女性に三人は産んでもらいたい」ものですはね。ところで最近、「二人産め」と言って、辞職に追いやられた校長も居られたようですが、男にできないことを、女に要求して何が悪いのかさっぱりわかりません。そのためにこの世に命を授かっているんだからね。動物も植物も無生殖の先にあるものは絶滅しかありません。こんな簡単なことを理解できなくするのが昨今の教育だとしたら、忌々しき事態であります。子作りをした後、存分にその権利を主張してください。
子供の守り本尊はいつも子供を待っておられます。爺ちゃん婆ちゃんは孫を連れてきて、境内で遊ばせてください。そして孫の健やかな成長をお祈りください。子宝に恵まれたいカップルも是非お出で下さい弘法大師の霊力で願いが叶うでしょう。
また、これから良縁を得たい若者もこぞってご参拝ください。良縁、婚姻、誕生、大日如来が心底より望むところであります。大日山総代といたしましては、ここが”縁結びのパワースポット” たらんことを希(こいねが)っておるのでございます。
「とにかく子供がいなければ始まらない」という意識をみんなで共有し前向きでありたい。そう思います。
幸い、島田市六合地区はこの界隈で唯一人口が増加しているところです。縁あって、この地に転入され、新たに居を構えられた若者達も多かろうと思います。ぜひとも岸の大日山にはこうした縁起、謂れがあること、また地縁の象徴となっていることを知っていただき、更なる地縁の輪を広げてくだされば、宜しかろう。
今般の熊本大地震、被災されました熊本の皆さま頑張ってください。遠方より、衷心お見舞い申し上げます。
昨今、防災といえば地震、津波にばかり目が行くのでありますが、私たち志太平野の住人にとって、最も用心すべき天災とは何かを認識し直すべきです。祖父母の時代まで、何が一番恐ろしかったかといえば、大井川の氾濫、堤防の決壊でした。台風が来たり、豪雨の時は気が気ではなかったことでしょう。一旦、堤防が決壊し大井川の濁流を呼び込んでしまえば、家屋敷も田も瞬く間に浚われて、大井川の川原と化してしまいます。勿論多くの人命も失われる。こういう水難の歴史が、つい最近まで繰り返されたことを忘れるべきではありません。それに、最近の天候は極端に振れます。降れば土砂降り、吹けば台風並み。よもや大井川は決壊すまいと油断していてはなりますまい。相手は天下の暴れ川です。油断大敵、天災は忘れた頃にやって来ます。
田沼の殿様が立派な堂宇を御建造のうえ、川原より祀り上げてくださいました駿河の国志太郡岸村の大日如来は、爾来、志太平野の治水の要となる施設並びに、ここに暮らす人々の安寧をずっと見まもっておるのでございます。
”如意吉祥” 殿さまの願った治水システムは2百余年後に実現しております。・・・・・
毎年2月15日、8月15日が縁日となっておりますれば、是非足をお運びくださいまして、何なりと大日如来にお申し付けくださいませ。如意吉祥、たちまち思うが如く好ましい兆候が発現致すでしょう。
大日如来の思し召しなのだろうか。魂の彷徨するままに行き着いた先がこの5枚の写真の地点、伊太発電所であります。白岩寺の麓で大津谷川と合流する伊太谷川をさかのぼって行くと、此処に至ります。志太平野への大井川用水取り入れ口となっており、その放流水を利用して発電が行われています。
毎秒17立方メートルの水が勢いよく放水されます。その水を利用するこの小規模の発電所でさえ、1200戸分の平均電力需要を賄えるというのだから、驚きです。もっともピーク時の需要に応えられる戸数は600戸ぐらいかもしれませんが。
この写真撮影時において、現在の発電量は882キロワット、今年の総積算発電量が980メガワットと、表示されています。ここで、放水された用水が栃山川放水路に流れて行きます。途中、白岩寺の麓の水口から東光寺谷川へも供給され、阿知ケ谷、岸町やその先の上青島、南新屋、水上などの水田の灌漑用水となります。
また、ここに掲げられた案内板は大変分かり易く大井川用水の受益地、仕組み、効用を説明しています。しかし、これに目を向ける人がいなければ、何にもなりませんがね。
この小さな水力発電所の動力源となる水は、大長中学校、合掌造りの「百姓家」あたりの水門から山をくりぬいたトンネルを経由して供給されています。この水系を更に上流にたどると、露出、或いはトンネルを経由して赤松発電所、川口発電所に至ります。川口発電所がが現在の大井川用水システムの水源地となります。(国土交通省がそう言うんだから間違いないだろう)川口から遠州の菊川へも大井川の水が供給されています。小笠、浜岡、大東あたりの人にも大井川のポテンシャルエナジーの有り難さを知っていただきたいものです。・・・・・簡単明瞭な話、我が家の近くを流れる用水路を上流に辿ればここに至るという具合です。温故知新ですな。
私らは農業と関係ないから大井川用水など関係ないという人がいるかも知れませんが、私たちこの地に暮らすものは人も植物も動物も遍く大井川の水脈のおかげで生きていられるのですよ。水道の水を飲もうが、井戸を掘って伏流水を飲もうが、それは全て大井川の水脈です。飯淵や利右衛門あたりでは、天然のサイフォン現象が発現していて、大井川の伏流水が自噴しています。
私たちが住んでいるこの地は、大井川の賜物であります。そして、私たちは大井川の水脈というご縁で結ばれている仲間だと思っていたいですよね。
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