久々の投稿となります。
勾玉造り、それは奇妙な夢(奇妙でない夢もなかろうし、所詮睡眠時のたわごとか)から始まりました。
魏書の倭人の条を読もうと努力していた頃、奇妙な夢を見ました。・・・・・飼い犬のモモを連れて、いつもの東光寺谷川の土手を歩いていると白い小石を見つけます。なんとなく拾って歩いていると、白い貫頭衣を着た女性?に出会いました。「その石で勾玉を造りなさい」と言うのです。・・・で、作ってどうしろというのか、聞き返そうとしたら、もう姿はありませんでした。自分でも夢と自覚しつつ、変な夢だなと思いました。
翌日、その夢の微かな記憶もあって、下を見ながら犬の散歩をしていると、五百円玉より少し大きめで、卵型の件の白い小石が落ちていました、拾ってみると、かなり風化はしているものの、ろうそくに似た感触の小石でした。
持ち帰って、風化した表面を研いでみると、かなり光沢が出るものでありました。しかし、内部に亀裂が多く、それは、氷を水に入れたときにできる内部亀裂によく似ています。こんなものを勾玉に加工できるものやらと思いつつ、どのようにして、削り出そうかと、思案しました。
さて、どうしたものか?。とりあえず藤枝のカインズに行って、砥石だのヤスリだの当たってみる。現在では、ダイヤモンドをコーティングしたヤスリが800円ほどで買えるので、1本購入して、例の小石を削ってみると、結構効率よく概ね勾玉の形に削り出すことが出来ました。
次にピカピカに磨き上げるには、耐水サンドペーパー、1500番で形を整え、2000番で仕上げました。
この胎児の目は、安価なハンドルーターに径3mmほどのダイヤモンドビットを使って開けました。
この自作勾玉が表題部の写真です。肉眼で見る限り乳白色ですが、写真に撮ると水色になってしまいます。水色のスペクトルを吸収するのだろうか。
田舎の妄想家マイさんコメントありがとうございます。
で、この石は何なんだろうかと思い、いろいろ調べてみましたところ。メノウ鉱物に一種なんだろうと思います。この川の護岸工事の際、遠方から運ばれた土に混ざっていたものだと思います。というのも,私の住んでいる大井川水系には、水成岩ばかりで、メノウ鉱物はありません。
何処でメノウ鉱物が採れるのかと思い、瀬戸川、朝比奈川、果ては安倍川の河原に行って、探してみましたが見つかりませんでした。
メノウという鉱物、主として、石英が長い時間をかけて水に溶け、沈殿して固まったものだろうから、白砂海岸へ行けば見つかるかも知れないと思い至り御前崎海岸へ行ってみました。灯台から東側の海岸、ここは元気な兄ちゃん姉ちゃん達が真冬でも、ウエットスーツを纏ってサーフィンに興じているとこです。
御前崎の地質は脆い泥岩でありますが、遠州灘の荒波が運んだと思われる白砂(花崗岩の砂)が堆積しています。駿河湾の内海に比べ、海岸の石ころの相は遥かに変化に富んでいる。
浜辺を散策してみると、メノウ石らしいものが散見されます。波打ち際で、蛍光色の小石があれば拾ってみる。加工に向く大きさと品位を有する物は中々見つからない。
御前崎や浜岡海岸のメノウ鉱物は概ね珪化木石(けいかぼくせき)といったところか。メノウ鉱物でできた木の化石ということになります。
数個拾ってきた小石を加工したものが以下の写真です.
頭でっかちで寸詰まり、デフォルメが効いているというか、穿った形の勾玉が出来上がりました。何とか利用しようと思い、ネクタイピン代わりにタイバンドとして使っています。結構珍しがられます。
竹と木の珪化木石、緑の竹の繊維と木目が程よい色調で残っています。小石を研磨して穴をあけました。キーストラップぐらいにはなりますかね。
私的にはこんな感じの光を良く透過する石が材料として好ましいと思います。
作品に下からLEDライトを当ててみました。
謹賀新年
平成を惜しみながら古希を迎えるにあたり迎春のお慶びを申し上げます
新しい一年が多幸且つ息災でありますように
平成31年元旦
大いなる謎とは、縄文や弥生時代の人がどのようにして径4ミリ程度の穴を瑪瑙だの翡翠などの硬い石に開けたか全く想像できません。それは古代の超技術といえましょう。現代において私などがダイヤモンドビットの錐を電動ルーターに装着して開けても、1センチ厚の瑪瑙に貫通させるのに30分程度はかかる。それも一度使えばビットは摩耗してしまう。とにかく古代人のスキルには平服してしまいます。
まあね、最初に適当な材料に穴を開けて、しかる後勾玉の形に削り出したんでしょうが。随分と根気のいる作業だったろうと思います。
話の彷行定まらなくて、情けないほど漫然とした文章である。昨年3月ごろ魏書東夷伝倭人の条を読もうと奮戦していたころ、冒頭で述べたような夢を見て勾玉を造ってみました。また、地元大井川水系には瑪瑙鉱物は有りませんので、東光寺谷川の堤防改修工事の際、森戸をどこから運んできたのか興味を持ったので、御前崎海岸まで出掛けたりもしました。確かに御前崎、浜岡辺りの白砂海岸では、瑪瑙鉱物が散見されます。しかし、40キロ超の距離を運搬するなど考えられません。また、この工事を手掛けた土建業者は已に廃業しているので、確かめようが有りません。
勾玉を造ってみて感心したことは、古代人は固い石に穴を開けるノウハウを持っていた。インターネットで調べると、管錐と云う道具があったということです。はずみ車を付けた錐を糸仕掛けで回す(子供の頃、大きなボタンに紐を通して輪にし、ボタンを中央にして、紐の両端に指を入れてボタンを回す糸が撚れ上がると今度は逆向きに回るそんな原理を使ったものらしい)。構造はすこぶる簡単であるから、篠竹の管錐を作って、空洞に研磨材(水を勾玉を造って賦した御前崎の白砂でも)装填して回して試してみたいとは思うのだが、一向に腰は上がらずといったところか。
箸墓古墳
箸墓古墳は、奈良県桜井市b箸中にある古墳形状は前方後円墳。実際の埋葬者は明らかではないが、宮内庁により「大市墓」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の陵墓とされている。この古墳が脚光を浴びているのは、纏向遺跡内にあって、3世紀中期の築造らしいということで、件の姫巫女「卑弥呼」の墓かも知れないとの憶測が絶えないからだろう。しかし、孝霊天皇は西暦換算で紀元前290年頃のお方であるから、真相は藪の中でありますが、そのおくり名からして、邪馬台の跡目を継いだ百戦練磨の姫と云うのも勇ましい。百=桃=吉備と云う香りがする姫であります。まあ、このお方が「卑弥呼」ではないだろうが、卑弥呼の宗女「台与」である可能性は大いに有りうると思います。
ヤマト=邪馬台=倭と云う漢字がおくり名の中に入っているのも、魏書倭人の条が書かれた頃の名残が残っているのだろう。
倭人の条でも既に大倭(おおやまととでもいうのか)の文字が見出されます。倭という漢字が好ましくないということで和に改め大和=ヤマトとしたのが台与だったとしたら、皮肉なことです。
倭姫命(やまとひめのみこと)
遺族会島田支部の会長、市会議員のYS氏には感謝申し上げるのですが、昨年3月24日の伊勢参拝日帰り旅行を企画して下さり、私も有り難く参加させていただきました。大神楽拝見、御垣内参拝と初めての経験でありました。私はこの時初めて「倭姫命」を知りました。倭姫宮(やまとひめのみや)への参拝は有りませんでしたが、隣接する神宮徴古館へは入館しました。
ところで、この倭姫というお方、第11代垂仁天皇の第4皇女だという。根拠が有るか無いか分かりませんが、西暦換算で、西暦元年頃のお話である。記紀での取り扱いは神代であります。皇租神天照大神を伊勢の地に祀った命である。
不思議なのは、この倭姫は伊勢神宮創建の功労者であるにも関わらず祀られなかった。倭姫宮の設立は宇治山田市(現在の伊勢市)住民の請願によるものだという。創建は1923年(大正12)と云うから、最近できたばかりの神社である。にもかかわらず、和姫とは表記せず倭姫のままであります。ここでも亦「古代支那の呪縛」から逃れられなかったようだ。古代支那人は和人(日本人)のことをザックリ倭人と表記した。ところが、倭人にも「苔の一念」と云うかプライドが有って、倭=ヤマト(邪馬台)と主張した。だから、魏書倭人の条ではたった一度だけ「この者たちは倭を邪馬台(ヤマト)と言って譲らない奴らだ」と仮名漢字にして記して置いたのだろう。
倭姫は神宮創建の功労者でしたが、初代斎宮と云う立場でもありました。爾後皇室から未婚の女性が神宮に差し向けられ、天照大神に御奉仕する習慣の租出もありました。従って、あくまでも奉仕する人という扱いだったのだろう。